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第5話 静寂を分け合う時間

 放課後を告げるチャイムが、やけに間延びして聞こえた。まだ教室の自分の席に座ったまま、私は意味もなく黒板の隅に残ったチョークの跡を眺めていた。今日という一日が、ひどく長かった気がする。


 ゴールデンウィーク明け特有の、教室に漂う緩慢な空気。それだけなら、こんな風に胸の奥が落ち着かないことなんてなかったはずだ。


 原因はわかっている。今朝からの、一連の出来事。屋上での、二宮怜央のあの言葉。昼休みの、親友たちの好奇心に満ちた追及。そして、授業の合間にちらりと見えた、クラスメイトに囲まれて少し困ったような顔をしていた彼の姿。


 なんで、私が彼のことでこんなにそわそわしなきゃいけないんだろう。馬鹿みたいだ。


 意識しないようにすればするほど、脳裏に焼き付いて離れない。あの屋上で、「好きだ」と告げた彼の、妙に真剣な瞳。


(……ほんと、迷惑)


 結局、「友達から」なんていう、よくわからない着地点に落ち着いてしまった。それがこれからどう転がるのか、考えるだけで億劫になる。


 重い身体を引きずるように鞄を掴む。ふと、視線が隣の空席に向いた。……もういない。二宮怜央は、いつの間にか教室から姿を消していた。放課後なんて、部活に行くやつ、さっさと帰るやつ、それぞれだ。私も、別に彼がどこへ行こうが関係ない。


 生徒会の活動がない今日は、いつもなら沙織たちと生徒会室で時間を潰すところだが、今日はそんな気分にもなれない。


(……図書室にでも行くか)


 一人で、静かに勉強でもしていれば、少しは落ち着くだろう。そう思って席を立ち、教室を出た。目指すは三階の図書室。


 廊下の窓から差し込む西日は、まだ強い。校庭からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。中学の頃、私も必死になって練習していた。あの頃は、もっと単純だった気がする。


 今は、医者になるという目標のために、勉強に集中するだけ。……のはずなのに。


 図書室の重い扉を押し開けると、ひんやりとした空気と、古い紙の匂いが鼻腔をくすぐった。放課後すぐの時間帯にしては、人はまばらだ。本のページをめくる微かな音と、潜めた話し声だけが、静寂の中に響いている。


 受付の司書に軽く会釈し、奥の閲覧スペースへ向かう。私がいつも使うのは、窓際から少し離れた四人掛けのテーブル。人目が気にならず、かといって孤立しすぎることもない、ちょうどいい場所。


 幸い、その席は空いていた。鞄を置き、椅子を引く。参考書とノートを取り出しながら、小さく息を吐いた。朝から妙に張り詰めていた肩の力が、少しだけ抜けるのを感じる。この静けさが、今はありがたい。


(……よし、集中)


 目の前のやるべきことに意識を向ける。中間テストはまだ先だが、油断はできない。特に数学。私は、二宮怜央みたいに閃きで解けるタイプじゃない。地道に、時間をかけて理解を積み重ねるしかないのだ。


 ……また、彼のことを考えている。


(本当に、どうかしてる)


 自分に喝を入れ、ペンを握りしめる。関数、図形、証明……問題集のページを黙々と進めていく。一つ一つの問題に集中することで、頭の中の雑音を追い払おうとした。


 どれくらい時間が経っただろうか。ふと、背後に人の気配を感じた。通り過ぎるだけにしては、少し長くそこに留まっているような……。


(誰……? まさか……)


 嫌な予感がして、けれど無視するわけにもいかず、ゆっくりと振り返る。


 ――そこに立っていたのは、二宮怜央だった。


 息が、一瞬止まった。彼も、私に気づいて固まっている。その手に抱えられた参考書とノート。……勉強しに来た、のか。


 なぜ、よりによって、今、ここに。

 彼の驚いたような表情を見て、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。もしかして、私がいることに気づかず、この席に座ろうとした? そして、私を見て、「うわ、最悪」とでも思ったのだろうか。


(……気まずい)


 顔が、少し熱くなるのを感じる。今日一日で、彼の様々な面を見てしまった。これ以上、意識させられるのは、本当に勘弁してほしい。


 でも、ここで無視したり、慌てて逃げ出したりするのは、もっとおかしい。それは、私が彼を意識していると、自ら暴露するようなものだ。


 私は、努めて平静を装い、声をかけた。


「……隣、座れば?」


 自分の声が、思ったより掠れていた。図書室の静寂に吸い込まれて消えてしまいそうなほど、か細い声。それでも、彼には届いたらしい。一瞬、目を瞬かせた後、わずかに戸惑ったような声で問い返してきた。


「……いいのか?」


「別に。席、空いてるし」


 ぶっきらぼうに聞こえたかもしれない。でも、今はこれが精一杯だった。斜め向かいの席を勧めることもできたはずなのに、なぜか「隣」と言ってしまった。対面するより、隣り合って座る方が、まだマシだと思ったのかもしれない。理由は、自分でもよくわからない。


「……ありがとう」


 彼は小さく礼を言うと、音を立てないように、けれどどこか遠慮がちに椅子を引き、私の隣に腰を下ろした。鞄からノートと参考書を取り出す仕草は、相変わらず静かで滑らかだ。でも、その横顔からは、彼なりに気を遣っているのが伝わってくる気がした。……朝や昼休みに見せた、あの緊張した表情を思い出してしまう。


(……だから、意識するなって言ってるのに)


 私は無理やり視線を自分のノートに戻し、中断していた問題に取り掛かる。隣に、彼がいる。今日、私の日常を引っ掻き回した張本人が、すぐ隣に。その存在が、やけに重く感じられる。ペン先が、微かに震えた。


 話しかけることもなく、ただ黙々とペンを走らせる時間。それが数分、数十分と続くうちに、不思議と図書室の静寂が心地よくなってきた。隣の彼も、物音一つ立てずに自分の課題に集中している。この、共有された沈黙が、今は意外にも悪くない。もしかしたら、彼も普段からこうして一人で勉強しているのかもしれない。真剣に問題に向き合う横顔は、授業中に見るそれと変わらないはずなのに。


(……なんで、今日はこんなに違って見えるんだろう)


 屋上での告白。あの真剣な眼差し。昼休みに見せた、少し困ったような表情。それらを知ってしまったから? 馬鹿みたいだ。感傷的になるなんて、私らしくない。


 気づけば、一時間近くが経っていた。数学の問題集もかなり進んだ。そろそろ別の科目に移ろうかと思った矢先、応用問題で手が止まる。何度計算し直しても、答えにたどり着けない。どこかで根本的に間違えているのか、それとも単純な計算ミスか。


(……くそっ)


 声に出さずに悪態をつき、眉間に皺を寄せる。消しゴムで何度も書き直し、けれど光明は見えない。人に頼るのは癪だが、時間だけが過ぎていく。


 そんな私の葛藤を見透かしたように、隣から小さな声がかけられた。


「……どこか、わからないところ?」


 びくりとして顔を上げる。彼の、静かな声。普段なら「自分でやる」と突っぱねるところだ。でも、今日は……なぜか、その申し出を断る気になれなかった。時間が惜しい、という言い訳を盾に、私は小さく頷いた。


「……ここ。どうしてもうまくいかなくて」


 私が問題箇所を指差すと、彼は静かに椅子を引き寄せ、私のノートを覗き込んできた。思ったよりも近い距離に、心臓が跳ねる。彼の、シャンプーなのか、それとも別の何かか、清潔な香りがふわりと漂ってきて、思わず息を詰めた。


(……だから、近いって)


 私の内心の動揺など知る由もなく、彼は真剣な眼差しで数式を追い始めた。


「ああ、なるほど。途中まではすごく良いと思う。ただ、ここの条件を見落としてるかもしれない。この場合、こっちの公式を使った方が……いや、待てよ。グラフで考えた方が早いか……」


 彼はペン先でノートを示しながら、低い声で解説を始める。その説明は、驚くほど的確で、わかりやすかった。私が躓いていた箇所を、まるで絡まった糸を解くように、丁寧に道筋を示してくれる。授業で聞く説明よりも、ずっと頭に入ってくる気がするのは、なぜだろう。私の解き方を否定せず、そこからどう修正すればいいかを考えてくれているから?


「例えば、この部分を変数で置いてみると……ほら、式がシンプルになるだろ? ここからなら……」


 彼がメモ用紙に書き出した数式を目で追ううちに、靄がかかっていた思考が、すっと晴れていくのを感じた。ああ、そういうことか。


「……わかった。ありがとう」


 思わず、素直な感謝の言葉が口をついて出た。彼は「いや」と短く答え、すぐに自分の席に戻ろうとした。けれど、私がすぐにペンを走らせて続きを解き始めたのを見て、少しだけ躊躇うように、「……もう少し、手伝おうか?」と尋ねてきた。


(……別に、一人でできる。でも……)


 ほんの少しだけ、迷った。けれど、「……お願い」と、小さな声で答えていた。彼が、ほんのわずかに口元を緩めたように見えたのは、気のせいだろうか。その微かな変化に、また胸がざわつく。……本当に、最悪だ。


 それから十分ほど、彼の助言を受けながら問題を解き進め、ようやく答えにたどり着いた。確認のために類似問題を解いてみると、今度はスムーズに解くことができた。彼が隣で、時折小さく頷いてくれる。そのことが、妙に心強い。


(……この人、やっぱりすごいな)


 成績が良いのは知っていたけれど、こうして隣で見てみると、その思考の速さと深さに改めて感心する。しかも、それを少しもひけらかさない。それが、余計に……。


(……だめだ、こんな風に感心してちゃ)


 これはあくまで勉強。協力。それ以上でも以下でもない。そう自分に言い聞かせているはずなのに。


「……次は、何か聞きたいことある?」


 気づけば、そんな言葉が口から滑り出ていた。少しでも、この妙な空気を変えたかったのかもしれない。あるいは、彼に「借り」を作ったままなのが、なんとなく落ち着かなかったのかも。


 彼は少し考える素振りを見せた後、自分のノートを開き、あるページを指差した。どうやら、世界史の、特定の時代の流れが掴みきれていないらしい。歴史は私の得意分野だ。


「ああ、そこね。覚えることが多いけど、人物相関図とか、年表で流れを追うとわかりやすいかも。例えば……」


 私は、できるだけ簡潔に、ポイントを絞って説明を始めた。彼が時折「なるほど」と相槌を打ったり、「じゃあ、この事件の背景は?」と鋭い質問をしてきたりする。教えるのは嫌いじゃない。むしろ、彼の理解が深まっていくのを見るのは、少しだけ楽しかった。


 いつの間にか、図書室には他の生徒も増えていた。けれど、私たち二人の周りだけ、時間がゆっくりと流れているような、不思議な感覚があった。

評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。

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