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第20話 安心してしまった

 浅い眠りの中で、胸の奥で何かが軋むような感覚があった。ヒューッ、ヒューッ、と微かに聞こえる笛のような音。喘息特有の、空気が狭い気道を通り抜ける時の喘鳴だ。それは夢うつつの中でも不快で、俺の意識を現実へと引き戻そうとしていた。


 ハッと目が覚めたのは、土曜日の朝、午前九時になろうかという頃だった。部屋の時計が、ぼんやりとした視界の中でその時刻を示している。身体を起こそうとした瞬間、昨日よりも明らかに強い息苦しさが全身を襲った。


「……ゲホッ、ゴホッ……! はぁっ、はぁっ……ゼェ……」


 激しい咳と共に、喉の奥から気管支全体にかけて空気が狭まる感覚。喘息の発作だ。しかも、昨夜眠りに落ちる前よりも、明らかに悪化している。特に呼気時、息を吐き出す時の苦しさが強い。肺から空気が出ていかないような、締め付けられるような感覚。熱もまだ高いようで、頭が重く、思考が霞んでいる。


 まずい。これは、まずいかもしれない。薬も吸入器もないこの状況で、発作が悪化していくのは恐怖以外の何物でもない。ベッドの上で枕を背に座り、必死に呼吸を整えようとするが、特に吐く息が苦しい。まるで胸の中に息が溜まっているかのようだ。浅く速い呼吸を繰り返すたびに、ゼェ、ゼェ、という湿った音が喉から漏れる。


 一人暮らしの部屋の静寂が、今はひどく重苦しく感じられた。このまま、もっと苦しくなったらどうしよう。誰にも助けを求められずに、意識を失ったら……? 子供の頃の、発作で病院に担ぎ込まれた記憶が、嫌な形で蘇ってくる。孤独と不安が、冷たい手のように心臓を鷲掴みにする。


 その時だった。


 カチャリ、と玄関のドアが開く、微かな音が聞こえた。空耳ではない。確かに、誰かが部屋に入ってきた気配。足音を忍ばせるように、廊下を歩いてくる。そして、寝室のドアの前で、その気配が止まった。


 ――天峰か?


 そうだ、昨日、彼女は言っていた。「明日、朝、様子を見に来てもいい?」と。俺は合鍵を預けた。まさか、本当に来てくれるとは……。いや、彼女なら、約束は必ず守るだろう。


 ゆっくりとドアノブが回され、静かにドアが開かれた。


 薄暗い部屋の中に、廊下からの柔らかな光と共に、彼女のシルエットが浮かび上がった。白いカットソーにカーディガン、ワイドパンツ。肩にかかる、艶やかな黒髪。心配そうに揺れる、琥珀色の瞳が、ベッドの上で苦しげに喘ぐ俺の姿を捉えた瞬間、大きく見開かれた。


「……怜央くん……っ!」


 彼女が、俺の名前を呼んだ。苗字ではなく、名前で。その、悲鳴にも似た響き。彼女は、俺のただならぬ様子に、瞬時に気づいたのだろう。駆け寄ってくる、小さな足音。ベッドサイドに、彼女が膝をつく。


 その瞬間、俺の中で、張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。


 天峰が来てくれた。一人で孤独な恐怖と息苦しさに耐えていた、まさにその時に。彼女が、俺を見つけてくれた。もう一人じゃない。彼女がいる。この怜悧で、芯の強い少女が、俺を助けようと、今、目の前にいる。彼女なら、きっとどうにかしてくれる。あの冷静な判断力で、正しい道を示してくれるはずだ。まるで、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように、彼女の存在が、俺の絶望を打ち砕く希望に見えた。



 ――そう、彼女が隣にいるという事実に、心の底から安心した。



 安心してしまった。



 その安堵感が、皮肉にも発作を悪化させる。それまで恐怖と緊張で高まっていた交感神経の作用が、彼女の存在に安心することで急速に弱まり、代わりに副交感神経が優位になったのだ。


 通常なら心身を落ち着かせる副交感神経の働きが、喘息持ちの俺にとっては裏目に出る。アドレナリンによって何とか広がっていた気管支が、副交感神経の作用で急速に収縮し始めたのだ。さらに安堵のため自然と深く息を吸ったことで、狭くなった気道がさらに刺激され、悪循環が始まった。


 あぁ、これが噂に聞いていた……。まさか自分で体験することになるとは。


「……かはっ……! ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ……! ヒューッ、ゼェ、ゼェ……!」


 息が、さらに苦しくなる。胸の締め付けが強まり、咳が止まらない。今までの緊張状態が一気に緩み、それまで必死にコントロールしようとしていた呼吸が乱れた。まずい……。


「怜央くん!? しっかりして! 大丈夫!? 息して!」


 天峰の、パニックと恐怖に歪んだ声が聞こえる。彼女の小さな手が、俺の肩に触れる。その温もりが、苦しみの中でも確かに感じられた。


「大丈夫、大丈夫だから! すぐに病院に行こう!」


 彼女は、自分自身を叱咤するようにそう言うと、震える手でスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。母親だろうか。状況を、必死に、しかし的確に伝えようとしている。


『意識はあるみたい。私が来たのもわかったみたいだった。でも、すごく苦しそう』

『うん、見当たらない……!』

『わかった! すぐにタクシー呼んで、クリニックに連れて行く!』


 電話の向こうの相手――おそらく彼女の母親だろう――と連携を取り、冷静に指示を仰いでいる。彼女の父親は医師だと言っていた。その知識が、今、彼女を支えているのかもしれない。


 電話を切ると、彼女はすぐにタクシー会社に連絡を取り始めた。住所と状況を伝え、配車を依頼している。その間も、俺の咳と喘鳴は続いていたが、不思議と、先ほどまでの絶望的な孤独感は薄れていた。彼女が、俺のために動いてくれている。その事実が、苦しみの中でも、確かな支えになっていた。


 電話を終えると、彼女は再び俺のそばに膝をついた。そして、俺の背中を、優しく、ゆっくりとさすり始めた。


「大丈夫だよ、怜央くん。もうすぐタクシーが来るから。お父さんのクリニックに行けば、すぐに楽になるからね。もう少しだけ、頑張って。私がちゃんと、そばにいるから」


 彼女の、落ち着かせようとする、少しだけ震えた声。その声が、弱った心に温かく染み渡る。背中をさする、彼女の小さな手の感触。その優しさに、俺は、ほとんど無意識のうちに、彼女の手を、弱々しく、しかし確かに、握り返していた。


 彼女は、一瞬驚いたように息を呑んだが、すぐに、俺の手を、そっと握り返してくれた。彼女の手は、少し冷たく、そして震えていた。俺と同じように、彼女も不安なのだろう。それでも、俺を励まそうと、必死に平静を装っている。その健気さが、胸を締め付けた。


 握られた手の温もりだけを頼りに、俺は、タクシーが到着するのを待った。ヒュー、ヒュー、という自分の呼吸音が、やけに大きく部屋に響いていた。

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