第19話 合鍵で開ける、彼の部屋のドア
翌朝、土曜日。アラームよりも早く、重いまぶたをこじ開けた。窓の外は白み始め、静かな朝の気配が漂っている。昨夜は結局、眠りが浅かった。彼の容態を案じる気持ちと、今日これから自分が彼の家へ行くという事実が、交互に意識に上り、なかなか寝付けなかったのだ。
ベッドから起き上がり、クローゼットの前で立ち止まる。昨日、自分から「明日も様子を見に来る」と言ってしまった。彼の合鍵は、机の上に置いたまま、昨夜から妙な存在感を放っている。行くしかない。行かなければならない。心配だから。……それだけだろうか? 自分に問いかけるが、明確な答えは出ない。
動きやすさを考えて、昨日と同じような、シンプルなカットソーとカーディガン、ワイドパンツを選ぶ。お洒落をする気にはなれない。ただ、少しでも彼の手助けができるように。そして、もしもの時に備えて。
リビングへ降りると、母がすでに起きていて、コーヒーを淹れていた。私の顔を見るなり、心配そうな、それでいて何かを察したような表情を浮かべた。
「おはよう、澄香。……よく眠れなかったでしょう」
「……おはよう。まあ、ちょっとね」
「そう。……これ、持っていきなさい」
母は、昨日用意してくれていた保冷バッグを差し出した。中には、フルーツやゼリー飲料、そして野菜スープのタッパー。
「ありがとう、お母さん」
「無理はしないでね。彼の様子を見て、もし少しでも変だと思ったら、本当にすぐに電話するのよ。お父さん、今日もお昼までクリニックにいるから」
母の、念を押すような言葉。その真剣な眼差しに、私は改めて気を引き締めた。
「うん、わかってる。行ってきます」
玄関で靴を履き、机の上に置いていた鍵を、しっかりとポケットに入れる。冷たくて、重い。この鍵が、彼のプライベートな空間への扉を開ける。その事実に、改めて緊張感が走る。
朝の、まだひんやりとした空気の中を、彼のマンションへと向かう。道は昨日と同じはずなのに、今日は全く違う道のりのように感じられた。足取りは重く、心臓は早鐘を打っている。
マンションに着き、オートロックを抜けてエレベーターに乗る。目的の階で降り、静かな廊下を歩く。彼の部屋のドアの前で、深呼吸を一つ。インターフォンは押さない。昨日と同じように、彼を起こしてしまうかもしれないから。
ポケットから鍵を取り出し、震える指で鍵穴に差し込む。昨日よりも少しだけ、その行為に慣れてしまった自分がいることに気づき、小さく動揺する。カチャリ、と静かな音を立てて鍵が回った。
音を立てないように、ゆっくりとドアを開ける。
「……お邪魔します……」
囁くような声で呟き、そっと中へ入る。靴を脱ぎ、保冷バッグを床に置く。リビングは静まり返っている。けれど、寝室の方から、やはり微かに、苦しそうな呼吸音が聞こえてきた。
――昨日より、悪くなっている……?
胸騒ぎを覚えながら、私は足音を忍ばせて寝室のドアへと向かった。閉まったドアの前に立ち、耳を澄ます。
聞こえる。昨日よりも、明らかに速く、そして浅い呼吸音。そして、それに混じる、ヒュー、ヒュー、という笛のような音。喘鳴。昨日よりも、音が大きい気がする。
心臓が、氷で掴まれたように冷たくなる。
ノックをする余裕もなく、私はドアノブを静かに回し、ゆっくりとドアを開けた。
薄暗い部屋の中。カーテンは閉められたまま。その薄闇の中で、彼はベッドの上に座っていた。横になっているとしんどいのだろう、シーツに両手をつき、少し前かがみになって、肩で大きく、苦しそうに息をしている。
「……怜央くん……っ!」
思わず、彼の名前を呼びながら駆け寄る。ベッドサイドに膝をつき、彼の様子を窺う。顔色は昨日よりもさらに悪く、青白い。額には脂汗が滲み、唇は乾き、わずかに紫色を帯びている。
そして、聞こえる喘鳴。ヒュー、ヒュー。ゼェ、ゼェ。喉の奥で空気が通り抜けるのを妨げられている、苦しげな音。昨日よりも明らかに、呼吸が苦しそうだ。
「……っ! やっぱり……喘息の発作……! しかも、昨日よりひどい……!」
目の前の光景に、血の気が引くのを感じる。彼が、こんなに苦しんでいる。私が昨夜、眠れない夜を過ごしている間も、彼はこうして一人で……。
「怜央くん! しっかりして! 私だよ、澄香!」
彼の肩にそっと触れ、呼びかける。彼はゆっくりと顔を上げ、虚ろな瞳で私を見た。その瞳に、昨日と同じように、私を認識した光と、安堵の色が浮かんだ。だが、すぐに苦痛に顔を歪め、激しく咳き込み始めた。ゴホッ、ゲホッ、ゲホッ……! ゼェ、ゼェ、ヒューッ……!
「大丈夫、大丈夫だから! すぐに病院に行こう!」
パニックになりそうな自分を必死で抑え、冷静に行動しなければと自分に言い聞かせる。母の言葉を思い出す。意識はある。呼びかけにも応えている。けれど、呼吸状態は明らかに悪い。この状態で、すぐに動けるだろうか。
震える手でスマートフォンを取り出し、母に電話をかける。状況を、できるだけ落ち着いて、正確に伝えることを心がけた。
『もしもし、澄香? どう? 彼の様子は?』
「お母さん! やっぱり、喘息の発作みたい! 昨日よりひどくなってる! 呼吸がすごく苦しそうで、ゼーゼー、ヒューヒューって音が大きくて、咳も止まらない! 顔色もすごく悪いの!」
『そう……! わかったわ、落ち着いて。意識ははっきりしてるのね? 会話はできなくても、呼びかけには応えてる?』
「うん、意識はあるみたい。私が来たのもわかったみたいだった。でも、すごく苦しそう」
『吸入器は、やっぱりないのね?』
「うん、見当たらない……!」
『わかったわ。それなら、すぐにタクシーを呼べる? 多少苦しくても、意識があって、なんとか座っていられるなら、タクシーでクリニックに連れてきて。その方が早いから。お父さん、もうクリニックに着いてるはずよ。もし、座っているのも辛そうだったり、意識が朦朧としてきたり、唇の色が紫色になってきたりしたら、その時は迷わず救急車を呼んで! いいわね?』
母の、冷静で的確な指示。それを聞きながら、私はもう一度、彼の状態を注意深く観察する。彼はベッドの上で前傾姿勢を保ち、苦しげに喘いではいるが、意識は失っていない。呼びかけにも、目で応えようとしてくれる。唇の色は少し悪いが、まだ紫色とまでは言えない。
(……タクシーなら、まだ、大丈夫かもしれない)
クリニックまでは、ここからそれほど遠くない。救急車を待つよりも、タクシーの方が早く着ける可能性もある。
「わかった! すぐにタクシー呼んで、クリニックに連れて行く!」
電話を切り、すぐにタクシー会社の番号を検索し、電話をかける。現在地である彼のマンションの住所と、「喘息の発作を起こしている患者を、近くのクリニックまで搬送してほしい」と、状況を簡潔に、しかし緊急性を伝わるように話す。幸い、すぐに一台手配できるとのことだった。数分で到着するという。
電話を切ると、私は再び彼のそばに膝をついた。彼の背中を、優しく、ゆっくりとさする。その背中は、熱っぽく、そして小刻みに震えていた。
「大丈夫だよ、怜央くん。もうすぐタクシーが来るから。お父さんのクリニックに行けば、すぐに楽になるからね。もう少しだけ、頑張って。私がちゃんと、そばにいるから」
彼の名前を呼びながら、できるだけ落ち着いた、安心させるような声で語りかける。彼は、苦しげに喘ぎながらも、私の言葉に反応するように、わずかに頷き、そして、私の手を、弱々しく、しかし確かに、握り返してきた。その、予想外の行動と、彼の手の熱さに、私の心臓はまた、強く締め付けられた。
私は、彼のその手を、そっと握り返した。早く、タクシーが来てくれることを祈りながら。そして、彼が、これ以上苦しまないようにと、心の中で強く、強く、願っていた。
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