第18話 家族からの追及
カチャリ、と小さな音を立てて、重い玄関のドアが閉まった。ようやくたどり着いた、自宅という名の、慣れ親しんだ空間。外の喧騒とは隔絶された静けさと、夕食の準備が進む微かな生活の匂いに、私はほう、と無意識のうちに細く長い息を吐き出していた。放課後、コンビニでスポーツドリンクやゼリー飲料を買い込み、彼の家へと向かった時の緊張感とは比べ物にならないほどの疲労感が、どっと肩にのしかかる。
ポケットの中で、冷たい金属の感触が確かな重みを持つ。彼の部屋の合鍵。そして、脳裏に焼き付いて離れない、熱に浮かされ、普段の彼からは想像もつかないほど弱々しい姿。額に触れた時の、驚くほどの熱さ。私が来たことに気づいた瞬間の、彼の潤んだ瞳……。そして、別れ際に、私が自分から口走ってしまった言葉。
『……明日も、……朝、少しだけ、様子を見に来ても……いい?』
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。心配だったのは確かだ。けれど、それはあまりにも踏み込みすぎた提案ではなかったか。彼に、重荷だと思われていないだろうか。合鍵まで預かってしまった手前、もう後には引けない。
「ただいま……」
掠れた声で呟き、リビングへと向かう。ドアを開けると、温かな料理の匂いと共に、いつもの家族の光景が広がっていた。父が新聞を読み、母がキッチンで夕食の最後の仕上げをし、テーブルでは妹の朱里がスマホをいじりながら私を待っていた。私の姿を認めると、朱里はスマホから顔を上げ、探るような、少し意地悪そうな光を含んだ瞳を向けた。
「あ、おかえり、お姉ちゃん。……で? 例の二宮くん、大丈夫そうだった?」
「朱里……」
いきなりの核心を突く質問に、私は思わず眉をひそめる。彼氏、という直接的な言葉こそ避けているものの、その口調には隠しきれない好奇心とからかいの色が滲んでいる。
「……別に、あんたに関係ないでしょ」
ぶっきらぼうに返し、席に着く。顔が熱い。彼のことを話すだけで、こんなにも意識してしまう自分が嫌になる。
「まあまあ、朱里。澄香も疲れてるんだから」
と、キッチンから母が声をかける。
「でも、心配だったのよ、お母さんも。熱、まだ高かったんでしょう?」
母の視線も、やはり私に注がれている。この家では、私の秘密などすぐに共有されてしまうのだ。
「……うん、かなり。……辛そうだった。……とりあえず、薬は飲んだみたいだし、おかゆも少しだけ食べてくれたけど……」
事実だけを、できるだけ淡々と報告しようと努める。けれど、彼の苦しそうな呼吸、熱で潤んだ瞳を思い出すと、声がわずかに震えてしまう。彼の部屋で感じた、静かで孤独な空気。それと対比されるような、目の前の温かい家族の食卓。そのギャップが、胸の奥をちくりと刺す。彼も、誰かに傍にいてほしいと、本当は思っているのかもしれない。
「一人暮らしで高熱は、やっぱり大変よねぇ……。何か、あった時にすぐ頼れる人がいないと……」
母が、しみじみと呟く。
「特に、小さい頃に喘息があったのなら、なおさら心配だわ。熱が引き金になることもあるから……」
その言葉に、私の胸はさらにざわめいた。そうだ、喘息。水曜日に彼が咳き込んでいたこと。そして、彼自身の過去の話。高熱で体力が落ちている今、もし発作が起きたら……? 彼一人で、どう対処するのだろう。
「ふーん? じゃあ、やっぱりお姉ちゃんが明日も様子見に行ってあげないとね。行きたそうな顔してたもん、さっき」
朱里が、軽い口調で、しかし核心に近いことを言ってくる。
「……っ! 見てたの!?」
「まあねー。で、行くんでしょ? 明日も」
図星だった。明日、彼の家に行く。それはもう決まっている。私が、そう言ってしまったのだから。
「……まあ、その……。様子だけ、見てくるつもり」
観念して、小さな声で白状する。
「やっぱりー! 献身的~!」
「違うってば! 心配だから!」
「はいはい、心配ねー」
朱里は全く信じていない様子で肩をすくめる。父も、新聞から顔を上げ、少しだけ訝しげな視線を私に向けているのがわかった。一人暮らしの男子生徒の家に、娘が二日連続で訪ねていく。父親としては、気がかりだろう。
「……澄香」父が、静かに口を開いた。「相手が弱っている時に力になりたいと思う気持ちはわかる。だが、軽率な行動は慎みなさい。何かあれば、必ず私たちに相談するように」
「……わかってる」
父の言葉は重いが、その根底にある心配は理解できた。
「そうよ、澄香」母も続ける。「もし、明日行って、本当に具合が悪そうだったら、絶対に一人で何とかしようとしないで。すぐに連絡してくるのよ。いいわね?」
「……うん」
私は、こくりと頷いた。母の真剣な眼差しが、私の胸の不安をさらに強くする。喘息の発作。もし、本当にそんなことになったら……。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。隣の空席を思い、彼の苦しそうな呼吸を思い、そして、明日また彼に会えるという、不安と入り混じった奇妙な期待感に、心臓が落ち着きなく脈打っていた。自分から言い出した手前、行くしかない。でも、行って、もし彼が昨日より悪くなっていたら? 私に、何ができるのだろうか。そんな考えばかりが頭を巡った。
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