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第16話 頬に触れる君の冷たい手

 カチャリ、と軽い音を立ててオートロックが解除された。モニターの中で、天峰がわずかに安堵したような表情を見せたのがわかった。だが、すぐにその表情は再び緊張に引き締まる。彼女が、今、このマンションの中に入ってきた。そして、エレベーターで、この階へ、この部屋へと向かってきている。


 その事実が、熱で朦朧とした頭にも、妙に現実味を帯びて迫ってくる。俺は、ふらつく身体を壁に預けながら、ゆっくりと玄関のドアへと向かった。咳を一つ、無理やり飲み込む。こんな弱った姿を、彼女に見せるのは……正直、気が進まない。だが、彼女はもう、すぐそこまで来ているのだ。


 ドアスコープを覗く勇気はなかった。ただ、ドアノブに手をかけ、静かに内側へと引く。


 そこに立っていたのは、やはり、天峰澄香だった。コンビニの白いビニール袋を両手に提げ、少しだけ息を切らせているように見える。エレベーターを降りてから、小走りに来てくれたのだろうか。俺の顔を見るなり、彼女の琥珀色の瞳が心配そうに揺れ、わずかに見開かれた。


「……二宮、くん……」


 掠れた、小さな声。その声色だけで、彼女が俺の顔色の悪さに気づいたことがわかった。


「……悪いな、わざわざ。……とりあえず、入れ」


 俺もまた、熱のせいか、あるいは彼女の突然の訪問に対する動揺のせいか、声がうまく出なかった。身体を少し横にずらし、彼女が入れるだけのスペースを作る。


「……お邪魔、します……」


 彼女は、一瞬ためらうように立ち止まったが、やがて意を決したように、静かに一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。玄関のたたきで丁寧に靴を脱ぎ、揃える。その、普段と変わらない律儀な仕草が、この非日常的な状況の中で、なぜか妙に心を落ち着かせた。


「……ごめん、起こしちゃった? 寝てたんでしょ?」


 彼女は、提げていた袋を床に置きながら、心配そうに俺の顔を覗き込む。その距離の近さに、どきりとする。彼女の、シャンプーなのか、微かに甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「いや、ちょうど目が覚めたところだ。……それにしても、どうしたんだ? プリントなら、後で誰かに頼んでも……」


「……それだけじゃ、ないから」


 彼女は、俺の言葉を遮るように、しかし静かな声で言った。そして、真っ直ぐに俺の目を見た。その瞳には、昨日までの戸惑いはもうなく、強い意志が宿っているように見えた。


「……心配、だったから。……熱、高いって、先生から聞いて……。一人暮らしだって、知ってたし……」


 その、あまりにもストレートな言葉に、俺は言葉を失った。心配、してくれていたのか。わざわざ、家まで。この、天峰澄香が。


「……それに、水曜日、咳してたのも、気になってたし……。ごめん、あの時、ちゃんと声、かければよかった」


 彼女は、少しだけ後悔するように、視線を落とした。俺が咳をしていたことを、覚えていてくれたのか。そして、それを気にしていた、と?


「……ありがとう。……でも、大丈夫だ。少し、熱があるだけだから」


 強がるように言ってみるが、説得力がないのは自分でもわかっていた。実際、立っているのも少し辛い。


「……嘘。顔、真っ赤だし、息も荒い。……とにかく、ベッドに戻って。寝てなきゃダメだよ」


 彼女は、有無を言わせぬ、きっぱりとした口調で言った。その、普段のクールさとは違う、母親のような強い口調に、俺は逆らうことができなかった。むしろ、その有無を言わせぬ優しさに、甘えてしまいたい気持ちすら湧き上がってくる。


「……ああ、そうだな。……少し、ふらつく……」


 彼女に支えられるようにして、寝室へと向かう。情けない姿だ。いつも完璧でありたいと思っている自分が、こんなにも脆いなんて。だが、彼女が隣にいてくれる。その事実が、今は何よりも心強かった。


 ベッドにたどり着き、倒れ込むように横になる。布団を肩まで引き上げると、どっと疲労感が押し寄せ、意識が再び遠のきそうになる。


「……本当に、ごめん。起こしちゃって。……でも、寝ておきなね。ちゃんと」


 枕元に立った彼女が、囁くように言った。その声が、熱で火照った耳に、心地よく響く。


 ぼんやりとした視界の中で、彼女が、そっと俺の額に手を伸ばすのが見えた。ひやり、とした感触。彼女の、少しだけ冷たい手のひらが、熱を持った額に優しく触れる。その、思いがけない心地よさに、思わず、ほう、と安堵のため息が漏れた。


「……やっぱり、熱い……。何度くらいあるの?」


「……さっき測ったら、38度、近く……」


「そんなに……。薬は? 飲んだ?」


「……いや、まだ……食欲なくて……」


「そっか……。じゃあ、何か食べられそうなもの、買ってきたから。後で、おかゆとか……」


 彼女の手は、額から離れ、そのまま、俺の頬へと滑り落ちてきた。ひんやりとした、柔らかな感触が、火照った頬を優しく包み込む。


 その心地よさに、俺は思わず、目を閉じた。まるで、幼い子供の頃、母親に看病されていた時の記憶が蘇ってくるようだ。安心感と、そして、彼女の手の感触に対する、形容しがたい、甘いような感情。


 彼女の手が、そっと離れようとした、その瞬間だった。


 俺は、ほとんど無意識のうちに、その手を掴んでいた。弱々しい力だったかもしれない。だが、確かに、彼女の手首を掴み、引き留めていた。


「……っ」


 彼女が、小さく息を呑む気配がした。


 ――まずい。何をしているんだ、俺は。


 熱に浮かされたとはいえ、あまりにも無防備な、そして、下心があると誤解されかねない行動だ。俺は、はっと我に返り、慌てて手を離した。


「……わ、悪い……! 今のは、その……!」


 言い訳の言葉も、うまく出てこない。顔が、熱以外の理由で、カッと熱くなるのを感じる。彼女に、どう思われただろうか。軽蔑されただろうか。


 だが、彼女は、何も言わなかった。ただ、少しだけ驚いたような、それでいて、困ったような、複雑な表情で、俺を見つめている。その瞳には、軽蔑の色はなかった。むしろ、どこか、……心配しているような、そんな色が見える気がした。


「……ううん。気にしないで。熱が高いと、心細くなるもんね」


 彼女は、そう言って、ふわりと、優しく微笑んだ。その笑顔に、俺は救われたような気がした。彼女は、俺の行動を、ただ熱のせいだと、受け止めてくれたのだろうか。その優しさが、今は身に沁みた。


「少し、眠れそう?」


「ああ……。多分……」


「じゃあ、私、リビングで少し、今日の授業のノートとか、まとめさせてもらってもいい? 邪魔、しないようにするから」


 彼女は、少しだけ遠慮がちに尋ねてきた。彼女が、この部屋にいてくれる。その事実が、俺の孤独感を和らげてくれるのは確かだった。


「……ああ、構わない。……むしろ、……助かる」


「うん。じゃあ、ゆっくり休んで。何かあったら、すぐに声かけて」


 彼女はそう言い残し、静かに寝室のドアを閉めて出て行った。部屋には、再び静寂が戻る。だが、先ほどまでの、重苦しい孤独感は消えていた。ドアの向こうに、彼女がいる。その気配だけで、心が満たされるような感覚があった。頬に残る、彼女の手のひらの、ひんやりとした感触。掴んでしまった、彼女の手首の細さ。それらが、熱に浮かされた頭の中で、何度も繰り返される。


(……本当に、来てくれたんだな……)


 安堵感と、彼女への感謝の気持ち、そして、抑えきれない特別な感情が、胸の中で温かく広がっていく。俺は、その温かさに包まれるように、再び、深い眠りへと落ちていった。

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