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第15話 開かれたドアと、私の覚悟

 午後の授業は、予想通り、ほとんど内容が頭に入ってこなかった。窓の外を眺めたり、ノートの隅に意味のない落書きをしたり。時間だけが、やけにゆっくりと過ぎていく。早く放課後になってほしい、という気持ちと、まだ心の準備ができていないから、もう少し時間がほしい、という気持ちが、せめぎ合っていた。


 彼に会ったら、なんて言おう。「大丈夫?」それから? 何か、気の利いた言葉をかけられるだろうか。そもそも、彼は私に会ってくれるだろうか。寝込んでいるところを起こしてしまったら? 迷惑そうな顔をされたら? 考えると、不安ばかりが募っていく。


(……でも、行くと決めたんだから)


 沙織の言葉を思い出す。「心配なら、自分の目で確かめて、安心した方がいい」。そうだ、私は、ただ彼の無事を確かめたいだけなのだ。そして、もし何かできることがあるなら、少しでも力になりたい。それだけだ。下心なんて、ない。……はずだ。


 ようやく、最後の授業が終わるチャイムが鳴り響いた。私は、他の生徒たちが帰り支度を始めるのを待たずに、弾かれたように席を立った。鞄に必要なものだけを詰め込み、誰にも声をかけられる前に、足早に教室を後にする。桜や沙織には、後でLINEで報告すればいい。今は、一刻も早く、彼の元へ向かいたかった。いや、早く行って、早くこの緊張から解放されたい、という気持ちの方が強いのかもしれない。


 校門を出て、私はまず、学校近くのコンビニエンスストアへと向かった。お見舞いに行くのに、手ぶらというわけにはいかないだろう。かといって、あまり大袈裟なものも気が引ける。


 自動ドアをくぐり、店内を見回す。とりあえず、飲み物は必須だろう。スポーツドリンクを数本カゴに入れる。それから、食欲がなくても食べられそうなもの……ゼリー飲料をいくつか。あとは、レトルトのおかゆ。梅がゆと、卵がゆ。どっちが好きかなんて知らないけど、とりあえず両方買っておこう。それから、冷却シート。熱が高いと言っていたから、必要かもしれない。


 カゴの中を覗き込む。これで十分だろうか。買いすぎただろうか。いや、でも、足りないよりはマシか。一人暮らしなら、こういうものはストックしておいても困らないはずだ。


 レジで会計を済ませ、ビニール袋を受け取る。ずしりとした重みが、私の決意を現実のものとして感じさせた。


 コンビニを出て、彼のマンションへと向かう道を歩き出す。先日の雨の日とは違う、乾いたアスファルト。陽光はまだ明るいが、少しずつ西に傾き始めている。道行く人々は、それぞれの日常へと帰っていく。私だけが、何か特別な、非日常的なミッションに向かっているような、そんな浮ついた感覚があった。


 歩きながら、また様々な考えが頭をよぎる。彼の部屋は、どんな感じなのだろうか。綺麗に片付いているのだろうか。それとも、意外と散らかっていたりして? 彼は、どんなパジャマを着て寝ているのだろうか。……いやいや、何を考えているんだ、私は!


 気づけば、先日の雨宿りをした公園の前を通り過ぎていた。あの東屋。そこで彼と再会したのが、もう遠い昔のことのようだ。あの時、彼が「うちに寄って行くか?」と言ってくれなければ、今日の私は、ここにはいなかったかもしれない。そう思うと、あの雨も、決して悪いことばかりではなかったのかもしれない、なんて、柄にもないことを考えてしまう。


 角を曲がると、見慣れた、しかし今日は特別な意味を持つマンションが見えてきた。心臓が、ドクン、ドクン、と大きく脈打ち始める。緊張で、喉が渇く。手のひらに、じっとりと汗が滲む。


(……本当に、来ちゃった)


 マンションのエントランスに足を踏み入れる。オートロックの前に立ち、部屋番号を押す。呼び出しボタンを押す指が、微かに震えているのが自分でもわかった。


 数秒の沈黙。応答はない。やっぱり、寝込んでいるのだろうか。迷惑だったのかもしれない。帰った方が……。


 そう思いかけた、まさにその時だった。


『……はい』


 インターフォンから、掠れた、聞き慣れた声が聞こえてきた。彼の声だ。弱々しいけれど、間違いなく彼の声。


「あ……あの……天峰、ですけど……」


 自分の声が、上ずって震えているのがわかる。馬鹿みたいだ。何をそんなに緊張しているんだ、私は。


『……天峰? ……どうしたんだ?』


 彼の声には、驚きと、困惑の色が混じっている。やっぱり、突然押しかけて、驚かせてしまった。迷惑だったのかもしれない。


「その……今日、学校、休んでたから……。クラスの、プリントとか、届けに来た、だけだから……。あと、……その、……もし、迷惑じゃなかったら……お見舞い、的な……?」


 しどろもどろな説明。自分でも、何を言っているのかよくわからない。ただ、彼に会いたい、彼の無事を確かめたい、という気持ちだけが、私を突き動かしていた。


 数秒の、長い、長い沈黙。彼は、何か考えているのだろうか。それとも、呆れているのだろうか。断られるかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられるようだった。


『……わかった。……ありがとう。……今、開ける』


 彼の、少しだけ、ほんの少しだけ、温かみを帯びたような声。そして、カチャリ、とオートロックが解除される音がした。


 私は、安堵と、これから起こることへの更なる緊張で、大きく息を吸い込んだ。重いガラスのドアを押し開け、中へと足を踏み入れる。エレベーターホールへと向かう足取りは、まだ少しだけ、覚束なかった。


 エレベーターに乗り込み、彼の部屋のある階のボタンを押す。上昇していく箱の中で、私は、自分の心臓の音が、やけに大きく響いているのを聞いていた。


 目的の階に到着し、エレベーターを降りる。静かな廊下を歩き、彼の部屋のドアの前に立つ。深呼吸を、一つ、二つ。持ってきたビニール袋の持ち手を、ぎゅっと握りしめる。


 大丈夫。私は、ただ心配で来ただけ。プリントを届けて、必要なものを置いて、すぐに帰ればいい。それだけだ。


 意を決して、インターフォンのボタンを押した。ピンポーン、という、どこか間の抜けた音が、静かな廊下に響く。


 あとは、彼がドアを開けてくれるのを待つだけだ。その、数秒が、永遠のように長く感じられた。

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