第13話 君がいない朝、落ち着かない心
金曜日。週の始まりに感じた、テスト明け特有の解放感と微かな高揚感は、わずか数日で霧散していた。アラームが鳴るよりも早く目が覚めてしまい、ベッドの中で意味もなく天井を見つめる。身体は、テスト期間中の無理が祟ってか、鉛のように重い。けれど、それ以上に心が落ち着かなかった。
原因は、わかっている。隣の席の、あの男のことだ。二宮怜央。
水曜日にテスト結果が発表されてから――私が過去最高の3位、そして彼がまたしても不動の1位という、なんとも言えない結果が出てから――彼との間には、奇妙な、それでいて無視できない空気が流れていた。ライバルとしての健全な火花。互いの健闘を称え合う、清々しさ。そして、その奥底に、確実に存在する、それ以上の何か。
水族館での、あの出来事。繋がれた手の温もり。「綺麗だ」と、彼が囁いた声。それらが、テスト勉強で無理やり蓋をしていた私の意識下に、じわじわと染み出してきて、思考をかき乱す。
(……だからって、別に、浮かれてるわけじゃない)
自分に強く言い聞かせ、重い身体を起こす。いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの通学路を歩く。空は青く澄み渡り、初夏の爽やかな風が頬を撫でる。絶好の天気だ。皮肉なことに。
教室のドアを開ける。いつもの喧騒。クラスメイトたちの、他愛のないお喋り。私の視線は、条件反射のように、隣の席へと吸い寄せられた。
――空席。
瞬間、心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねた。彼が、まだ来ていない? いや、彼は遅刻するような人間じゃない。いつも、私と同じくらいか、少し早いくらいには教室にいるはずだ。何かあったのだろうか。事故? それとも……。
悪い想像が頭をよぎり、血の気が引くのを感じる。落ち着け、私。ただ、少し寝坊しただけかもしれない。あるいは、今日はたまたま用事があって遅れているだけかもしれない。そう、自分に言い聞かせる。けれど、胸のざわめきは収まらない。
自分の席に着き、鞄から教科書を取り出す。だが、その内容は全く頭に入ってこない。視線が、何度も、何度も、隣の空席へと吸い寄せられてしまう。時間が経つのが、やけに遅く感じられた。
やがて、予鈴が鳴り、担任が教室に入ってきた。それでも、彼の席は空いたままだった。クラスメイトたちも、ざわざわと隣の空席に視線を向け始めている。彼が休むなんて、入学してから一度もなかったはずだ。
ホームルームが始まり、出席が取られる。「二宮怜央」。担任の声に、誰も返事をしない。教室全体に、一瞬、静寂が訪れた。
「あ、そうか……二宮は、本日、体調不良のため欠席だ」
担任が、淡々とした口調で告げた。
――体調不良。
その言葉を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。やっぱり。水曜日ぐらいから、彼が咳き込んでいたのを思い出す。顔色も、少し悪かったような気がする。あの時から、調子が悪かったのだろうか。それなのに、私は自分のテスト結果のことばかり気にして、彼の体調をちゃんと気遣うこともしなかった……。
「昨夜、連絡があってな。かなり熱が高いそうだ。一人暮らしだから、担任としても少し心配しているが……」
熱が高い? 一人暮らし……。その言葉が、私の胸に重くのしかかる。一人で、高い熱を出して、寝込んでいる? あの、いつも涼しい顔をしている彼が? 想像しただけで、胸が締め付けられるような、苦しい気持ちになった。
「諸君も、季節の変わり目だ。体調管理には十分気をつけるように。特に、テスト明けは疲れが出やすいからな」
担任の話は、もうほとんど耳に入っていなかった。ただ、彼のことが心配で、心配で、仕方がなかった。大丈夫だろうか。ちゃんと、水分は摂れているだろうか。何か、食べるものはあるのだろうか。薬は? 病院には行ったのだろうか?
次から次へと、不安が頭をよぎる。授業が始まっても、教師の声は右から左へと通り抜けていく。ノートを取る手も、どこか覚束ない。隣の空席が、彼の不在を、そして彼の苦しみを、雄弁に物語っているようで、直視できなかった。
(……ただの、クラスメイト、なのに。……ライバル、なのに。なんで、こんなに……)
自分の感情の動きに、戸惑いを隠せない。彼が苦しんでいるかもしれない、と思うだけで、こんなにも心が乱されるなんて。水族館で、彼の手の温もりを感じた時とは、全く違う種類の、けれど、同じくらい強い感情が、私の中を支配していた。
休み時間になっても、席を立つ気になれなかった。クラスメイトたちが、彼の欠席について噂している声が聞こえてくる。「二宮、休むなんて珍しいな」「風邪かな?」「テストで無理したんじゃね?」「結果、相当すごかったもんなあ」――そんな、他人事のような会話が、今はひどく耳障りに感じられた。
スマートフォンのクラス連絡網のグループLINEを開く。担任からの連絡事項が流れているだけだ。彼の個人的な状況は、当然ながら、そこには書かれていない。連絡、してみようか? いや、でも、寝込んでいるかもしれないのに、迷惑だろうか。「大丈夫?」なんて、ありきたりなメッセージを送って、彼にどう思われるだろうか。「心配してくれてるんだ」と、自惚れさせてしまうだけかもしれない。そんなことを考えると、指が動かせなかった。
(……私に、できることなんて、何もない……)
無力感と、もどかしさが募る。早く、彼が元気になってほしい。ただ、それだけを願うことしかできなかった。
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