第4話 学食での秘密会議
屋上から教室へ戻る足取りは、どこか覚束なかった。ドアノブに触れた手が、じっとりと汗ばんでいるのを感じる。さっきまでの覚悟はどこへやら、自分でも驚くほど緊張が解けていない。
告白――いや、正確には「好きだ」という気持ちを伝えた上で、「まずは友達から」と提案した。それが、思いのほかあっさりと受け入れられた安堵と、まだ実感の伴わないフワフワした感覚が、胸の中で混ざり合っている。
昼休みの喧騒が耳に届く。友人同士で弁当を広げるグループ、購買へ向かう足音、他愛ない笑い声。いつもなら、その中に何の違和感もなく溶け込んでいたはずだ。けれど今日は、明らかに自分が『注目の的』になっているのがわかる。刺さるような視線、ひそひそと交わされる囁き声。
「二宮が天峰さん呼び出したって……」
「マジで? 屋上ってことは、やっぱ……?」
わざとらしく大声で言う者はいない。それでも、教室全体に漂う、あからさまな好奇心の匂いは隠しようもなかった。これまでも、何度か探るような視線を感じたことはあった。校内でも有名な美少女である天峰と、成績や見た目からか『王子様』などと勝手に呼ばれる俺。周りが面白がって噂するのは、ある意味仕方のないことだと思っていた。だが、実際に俺が彼女に好意を伝え、行動に移したとなれば、その噂の熱量は桁違いに跳ね上がるだろう。それを思うと、やはり妙な緊張感が背筋を走る。
それでも、心は不思議と晴れやかだった。
ようやく、最初の一歩を踏み出せた。誰にも言えず抱え込んでいた想いを、自分の言葉で伝えることができた。それだけで、胸のつかえが取れたような、視界が開けたような感覚があった。
自分の席にたどり着き、椅子に腰を下ろす。隣の席は空っぽだ。天峰は「友達とお昼食べるから」と言い残して、さっさと教室を出て行った。きっと、いつものように生徒会室あたりで、親しい友人たちと合流しているのだろう。
ふう、と息をついた、まさにそのタイミングで、背後から聞き慣れた声がかかった。
「おーい、怜央。やっぱりここにいたか。さっき、天峰さんと一緒に出てったろ? 何かあったのかって、噂になってるぞ」
声の主は、浅倉悠貴。高校に入ってからできた、数少ない腹を割って話せる友人だ。彼の屈託のない声を聞くと、張り詰めていた気持ちが少しだけ和らぐ気がした。
悠貴は、教室の後方のドア付近に立っていた。短く整えられた髪と、スポーツマンらしい引き締まった体躯。サッカー部に所属する彼は、快活で裏表のない性格だ。
「ああ。ちょっと話してた。屋上で」
ごまかすつもりもなかったので、正直に答える。悠貴なら、大方の察しはついているだろうし、変に隠し立てする方が不自然だ。
「だよな。ちょうどお前らが教室出て行ったあたりで、ざわざわし始めてさ。他の連中はもう食堂行ったけど、俺はなんとなく待ってたんだよ。……で、どうだったんだ?」
悠貴は、周囲に聞こえないように少しだけ声を潜めて尋ねてきた。その気遣いがありがたい。
「……場所、移そうか。ここだと話しにくいし。昼飯、まだだろ?」
俺の提案に、悠貴はこくりと頷いた。
席を立つと、やはり何人かのクラスメイトの視線を感じたが、あからさまに話しかけてくる者はいなかった。今は悠貴と落ち着いて話したい。噂話は、後でいくらでもされるだろう。
昼休みの廊下は、思ったより人が少なかった。学食へ向かう生徒の流れに乗って、階段を下りる。屋上での出来事を反芻するたびに、胸の奥が甘く疼くような、むず痒いような感覚に襲われる。
食堂の扉を開けると、一気に活気のある喧騒と、様々な料理の匂いに包まれた。カレー、ラーメン、揚げ物。食欲を刺激する香りが混ざり合い、学生らしいエネルギーに満ちている。案の定、中央のテーブル席はほぼ埋まっている。いつもなら友人たちと大きなテーブルを囲むが、今日は二人で話せる場所がいい。
「お、あそこ。窓際の二人席、空いてるぞ」
悠貴が指差した先に、ちょうど良いスペースを見つけた。荷物を置いて席を確保し、食券を買いに行く。俺は日替わり定食、悠貴は迷わず唐揚げ定食を選んだ。カウンターに並んでいる間も、周囲のざわめきが耳に入る。けれど、この『日常』の風景が、先ほどまでの非日常的な緊張を少しずつ解きほぐしてくれるようだった。
トレーに乗った定食を受け取り、席に戻る。窓際の二人席は、周囲の喧騒から少しだけ隔離された、ちょうどいい空間だった。席に着き、まずは味噌汁を一口。温かい液体が喉を通ると、強張っていた肩の力がふっと抜けた。屋上での数分間が、どれだけ神経をすり減らしていたのかを改めて実感する。
「で、改めて聞かせてもらうぜ。天峰さんと、一体何を話してたんだ?」
悠貴が、唐揚げに箸を伸ばしながらも、好奇心に満ちた目でこちらを見てくる。
「……まあ、お前の予想通りだよ。告白した」
できるだけ平静を装って答えたつもりだが、その言葉を口にするだけで、やはり顔が熱くなるのを感じる。さっきは覚悟を決めて言えたのに、こうして改めて言葉にすると、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。
「マジか! いや、まあ、そうだろうとは思ってたけどさ。お前、そういうの慎重派じゃん。ちゃんと覚悟決めるまで動かないタイプだと思ってたから。……しかし、相手があの天峰さんとはなぁ」
悠貴は、驚きと納得が入り混じったような、複雑な表情を浮かべている。俺の性格をよく知る友人ならではの反応だろう。興味のないことには見向きもしないが、一度興味を持つととことん突き詰める。それは恋愛においても同じで、「好きでもないのに付き合うのは無責任だ」という考えから、これまで誰かに告白するということはなかった。
「それにしても、動くの早くないか? お前が彼女のこと意識し始めたのって、確かゴールデンウィーク前くらいだろ? もう少し時間かけるかと思ってた」
「……気持ちが、もう抑えきれなかったんだ。連休中、ずっと考えてた。どう伝えるのが一番いいか、シミュレーションも繰り返して。……でも、いきなり『付き合ってくれ』は違うと思ったから、まずは俺の気持ちを伝えた上で、『友達から始めたい』って提案したんだ」
俺の説明に、悠貴は「ふーん」と相槌を打ち、唐揚げを頬張る。サクサクという小気味良い音が響いた。彼はしばらく黙って咀嚼しながら、何かを考えているようだった。
「なるほどな。お前らしい、慎重なアプローチだ。で、天峰さんの反応は?」
「意外なことに、嫌な顔はされなかった。『友達』って提案には、少し拍子抜けしてたみたいだけど……断られはしなかった。とりあえず、第一関門は突破したって感じかな」
悠貴に話しながら、屋上での光景が再び脳裏に蘇る。「好きだ」と告げてからの、あの数秒間の沈黙。もし、あそこで拒絶されていたら……想像するだけで、心臓がきゅっと縮む思いがする。本当に、まずは友達として関係を築く道を選んでよかった。
「で、次はどうするつもりなんだ?」
悠貴の問いは的確だ。俺が『告白して終わり』のタイプではないことを、彼はよく理解している。
「……そうだな。できるだけ自然に、距離を縮めていきたい。急に二人きりで会おうとか誘ったら、さすがに警戒されるだろうし、『友達』の範囲を超えてるって思われるかもしれない。やりすぎたら容赦しないって釘も刺されてるしな」
そこで一度言葉を切り、日替わり定食の煮物を口に運ぶ。だしの優しい味が、ささくれた神経を宥めてくれるようだ。
「だから、まずはグループで交流する機会を作れないかなって思ってる。例えば、昼飯。俺と悠貴、それから天峰と、彼女の友達の百合川さんと北条沙織。その五人で一緒に食べるとか。段階を踏んで、少しずつ」
これが、俺が今考えている具体的な次の一手だ。天峰には、百合川桜と北条沙織という親しい友人がいる。さっき教室を出て行ったのも、おそらく彼女たちと合流するためだろう。いきなり一対一で距離を詰めようとするより、まずはグループで、自然な形で接点を増やしていく方がいい。俺の下心を過度に意識させずに済むはずだ。
「なるほど。確かに、いきなり二人きりだとお互い意識しすぎるし、相手も構えるかもな。……ってことは、俺もその作戦に巻き込まれるわけか」
悠貴が苦笑いを浮かべる。友人の恋路に協力するのはやぶさかではないが、少し面倒そうだな、と思っているのが顔に出ている。
「ああ。協力してほしい」
「まあ、いいけどさ。面白そうだし、俺も天峰さんと話してみたい気はするし。百合川さんも北条さんも、なんかすごい子たちって聞くしな。生徒会長と、その右腕だろ?」
百合川桜は快活で誰とでもすぐに打ち解けるタイプ、北条沙織は才色兼備の生徒会長。特に沙織は、俺にとっては幼馴染という特別な存在でもある。悠貴はそのことを知らないだろうから、驚くかもしれない。
「でも、どうやってその『グループランチ』を実現させるんだ? いきなり天峰さんに『明日から一緒にどう?』って誘うのも、なんかハードル高くないか?」
「だよな。だから、まずは沙織に相談してみようと思ってる。彼女なら話が早いだろうし、天峰とも親しいから、うまく取り持ってくれるかもしれない」
俺がそう言うと、悠貴は箸を持つ手を止め、目を丸くした。
「お前、北条さんのこと呼び捨てなのか? あの『ミス・パーフェクト』を? 生徒会長で、成績もトップクラスの?」
「……ああ、まあ、昔からの知り合いなんだ。幼馴染ってやつだな。小さい頃に少し。親同士の付き合いがあってな」
実際は、かなり親しい間柄だった時期もある。小学校の頃は習い事も一緒で、週末ごとに家を行き来していた。引っ越しで離れてからも、年に数回は顔を合わせる機会があった。思春期に入ってからは疎遠になっていたが、この高校で再会したときは、お互いに驚いたものだ。
「へえ、知らなかった……。そりゃ、北条さんも驚いただろうな。お前が首席で入学してきたって、結構話題になってたし」
「みたいだな。まあ、あいつも昔から出来た子だったけど、まさか生徒会長になってるとは思わなかった。小さい頃は、もっとおとなしい印象だったんだが……人は変わるもんだな」
沙織の穏やかで優しい雰囲気は変わらない。けれど、今の彼女には、あの頃にはなかった芯の強さのようなものが感じられる。きっと、見えないところでたくさんの努力をしてきたのだろう。
「でも、それなら確かに北条さんに頼むのが一番スムーズかもな。天峰さんも含めて、三人はいつも一緒にいるイメージだし」
悠貴が納得したように頷き、味噌汁を飲み干す。俺も定食をほとんど食べ終えた。
「いきなり俺から『五人で飯食おう』って言っても、天峰の方が戸惑うかもしれないからな。あくまで自然な流れを作りたい。だから、まず沙織に相談して、それから百合川さんも巻き込んで、最終的に天峰も誘う、っていう段取りでいこうかと」
もちろん、沙織には俺の魂胆などお見通しだろう。俺の性格も、天峰への気持ちも、おそらく察しているはずだ。だが、彼女は人の恋愛沙汰を面白半分に囃し立てるようなタイプではない。むしろ、冷静に、そして温かく見守ってくれるだろう。
「いいんじゃね? よし、わかった。協力するぜ、お前の恋路。ただし……変にこじらせるなよ? 天峰さんもクールだけど不器用そうだし、お前も考えすぎるところあるからな」
悠貴が、少し楽しそうに笑いながら忠告してくる。
確かに、俺は何事も考えすぎてしまうきらいがある。あらゆる可能性をシミュレーションし、計画を立ててからでないと動けない。だが、恋愛というのは、必ずしも計画通りに進むものではないのかもしれない。屋上で感じた、あの制御できない衝動。あれが、恋愛の本質の一部なのだろうか。どれだけ準備しても、本番では頭が真っ白になった。想定外の緊張と高揚感。うまくコントロールできる自信は、正直、まだない。
「わかってる。俺だって、こんなの初めてなんだ。……変な失敗はしたくないけど、もしそうなったら、その時考えるしかない。幸い、お前も沙織も協力してくれそうだしな」
「おう、任せとけ。まあ、相手があの天峰さんじゃ、大変だろうけど……頑張れよ」
大変、か。確かにそうだろう。それでも、心が弾むのだから仕方がない。天峰の、まだ誰も知らないであろう一面を、もっと知りたい。その欲求は、日増しに強くなっている。だからこそ、焦らず、彼女のペースに合わせて関係を築いていきたい。そして、俺自身のことも、飾らずに知ってほしい。
気づけば、昼休みも終わりに近づいていた。食堂の喧騒も少しずつ落ち着き始め、午後の授業へと戻る生徒たちの姿が増えてくる。窓の外には、抜けるような五月晴れの空が広がっていた。
「そろそろ戻るか。午後の授業、遅れたら目立つ」
俺が言うと、悠貴も頷き、食べ終えた食器をトレーに乗せた。返却口に食器を返し、二人並んで食堂を出る。昼休みの喧騒から解放され、少しだけ静かな廊下を歩く。
ふと、悠貴が隣で軽く拳を突き出してきた。グータッチだ。少し戸惑いながらも、俺は自分の拳をそっと合わせる。悠貴はニヤリと笑った。
「じゃ、なんか進展あったら報告しろよ。手伝えることがあったら、遠慮なく言え。お前の初カノが天峰さんになったら、クラス中ひっくり返るだろうな」
「……からかうなよ。どうなるかなんて、俺にもわからない。けど、後悔だけはしたくないから、やれるだけのことはやるつもりだ。……サンキュな、悠貴」
交わした拳を下ろすと、不思議と心が軽くなった。悠貴は、多くを語らずとも、さりげなく背中を押してくれる。それが今は、何よりも心強かった。
教室に戻ると、チャイムが鳴るまであと僅かだった。「どこ行ってたんだ?」と数人に声をかけられたが、悠貴が「学食だってば」と適当にあしらってくれたおかげで、それ以上の追及はなかった。
隣の席は、まだ空いている。天峰は、おそらくギリギリに戻ってくるのだろう。彼女たちの賑やかな声が聞こえてくるのを想像しながら、俺は午後の授業の教科書を取り出した。
評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。