第10話 結果発表
中間テストという名の嵐が過ぎ去り、水曜日の校内には、どこか気の抜けたような、それでいて結果を待つ微かな緊張感が混じり合った、独特の空気が漂っていた。三日間の激闘で蓄積した疲労はまだ完全には抜けきれていないものの、脳が強制的にフル稼働させられていた状態から解放された安堵感の方が今は大きい。
俺は自席で、窓の外に広がる穏やかな初夏の空を眺めていた。週末の、あの水族館での出来事が、まだ鮮明な余韻として胸に残っている。巨大な水槽の前で、彼女が口にした言葉。重ねられた手の温もり。あの瞬間、俺たちの関係は、確かに新しい段階へと足を踏み入れたはずだ。月曜日、火曜日と、彼女との間にはまだどこか探り合うような、繊躇うような空気があったけれど、それは決して悪いものではなく、むしろお互いの存在を強く意識している証のように感じられた。
「……コホン」
不意に、喉の奥から乾いた咳が一つ漏れた。ここ数日、少し喉に違和感がある。季節の変わり目だからか、それともテスト勉強で無理をしたせいか。大したことはないはずだが、子供の頃の記憶が、ほんの一瞬、胸の奥を掠める。まあ、気にすることでもないだろう。
「おはよう、二宮くん」
思考を遮るように、隣から落ち着いた声がかかった。見ると、天峰が静かに席に着くところだった。テスト期間中のような、刺々しいまでの闘争心はもう感じられない。むしろ、どこか柔らかさすら漂っているように見えるのは、俺の欲目だろうか。
「ああ、おはよう、天峰。……よく眠れたか?」
ごく自然に、そんな言葉が口をついて出た。彼女は少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに小さく頷いた。
「うん、まあ……それなりに。二宮くんこそ、疲れてない?」
彼女の方から、俺の体調を気遣うような言葉が返ってきた。この二週間での変化を思えば、隔世の感がある。嬉しい変化だ。
「大丈夫だ。それより、今日の結果発表だな」
俺がそう言うと、彼女の表情がわずかに引き締まった。そうだ、今日は決戦の日。ライバルとしての関係も、俺たちの間には厳然として存在する。
「……そうね。結果が全てじゃないとは思うけど……やっぱり、気になる」
「俺もだ。特に、天峰には負けたくないからな」
少しだけ、挑発するように言ってみる。彼女は、むっとしたように眉を寄せたが、すぐにふっと口元を緩めた。
「それはこっちのセリフ。今回こそ、見てなさい」
その、負けん気の強い表情。水族館で見た、はにかむような笑顔とはまた違う、彼女の魅力的な一面。やはり、目が離せない。
ホームルームが終わり、授業が始まる。テスト明けということもあり、どの授業も少し緩やかなペースで進んでいく。俺はノートを取りながらも、時折、無意識に咳払いをしてしまう自分に気づいた。喉のイガイガ感が、地味に続いている。
(少し乾燥してるのか……?)
水を一口飲んで誤魔化すが、完全にはすっきりしない。まあ、午後の授業までには治るだろう。
午前中の授業が終わり、待ちに待った昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。その瞬間、教室の空気が一変する。
「結果! 結果見に行こうぜ!」
「うわー、緊張する……赤点だったらどうしよう……」
「今回は自信あるんだよなー、俺」
クラスメイトたちが、堰を切ったように騒ぎ出し、掲示板のある廊下へと駆け出していく。俺たちのグループも、自然と集まっていた。
「よーし! 運命の結果発表タイムと行きますか!」
悠貴が、わざとらしく拳を突き上げる。桜も「ドキドキするー! 私、古典ヤバいかも……」と落ち着かない様子だ。沙織は「まあ、結果は結果として受け止めましょ」と冷静だが、その瞳の奥にはやはり期待と不安が揺れている。
そして、天峰。彼女は、固く口を結び、どこか遠くを見つめているようだった。その横顔からは、強い意志と、それを裏打ちする努力への自負、そして、わずかな不安が読み取れた。彼女にとって、俺に勝つことは、大きな目標の一つなのだろう。その気持ちは、痛いほどわかる。
「……行くか」
俺が声をかけると、五人は頷き合い、人の流れに乗って廊下へと出た。一階の、職員室近くの掲示板の前は、すでに黒山の人だかりができていた。学年全体の順位が張り出されるため、他のクラスの生徒たちも集まり、歓声や悲鳴、ため息が飛び交っている。異様な熱気だ。
「うわ、すごい人……全然見えないじゃん!」
桜が背伸びをしながら不満の声を上げる。
「俺が見てきてやるよ。お前らの名前、覚えてるからさ」
悠貴が、人混みをかき分けて前へと進もうとする。
「いや、自分たちで確認した方がいいだろう」
俺は悠貴を制し、少しだけ強引に人垣を割って前へと進んだ。他の四人も、それに続く。ようやく、張り出された大きな紙――学年順位一覧――が目の前に現れた。
無数の名前と数字の中から、自分の名前を探す。心臓が、ドクン、と一つ大きく脈打った。
――あった。一番上。紛れもなく、俺の名前「二宮 怜央」が、総合順位「1位」の横に記されている。
ふう、と安堵の息が漏れた。今回も、守り切った。油断していたわけではないが、天峰をはじめ、ライバルたちのレベルは確実に上がってきている。プレッシャーがなかったと言えば嘘になる。だが、結果を出せたことに、まずは満足感を覚えた。
次に、俺の目は、無意識に彼女の名前を探していた。「天峰 澄香」。上から順に視線を下ろしていく。2位は、別のクラスの女子生徒の名前。そして――あった。
『3位 天峰 澄香』
瞬間、様々な感情が胸に去来した。まず、俺が勝ったことへの安堵。そして、彼女が俺に次ぐ順位ではなかったことへの、ほんのわずかな、ライバルとしての優越感。だが、それ以上に強く感じたのは、彼女の躍進に対する驚きと、そして、純粋な称賛の気持ちだった。
3位。彼女にとって、これは間違いなく過去最高の順位のはずだ。これまでのテストでは、常に5位から10位の間を推移していたと記憶している。それが、今回、一気にトップ3入り。彼女の努力が、見事に実を結んだのだ。
隣を見ると、天峰は、食い入るように掲示板を見つめていた。その表情は、複雑だった。自分の名前と「3位」という数字を確認した瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれ、息を呑む気配が伝わってきた。驚き。そして、信じられない、というような戸惑い。だが、次の瞬間には、その表情に悔しさの色が滲み、唇をぎゅっと噛み締めている。俺に、勝てなかった、という悔しさだろう。しかし、その悔しさの奥に、確かに、抑えきれない喜びの光も灯っているように見えた。過去最高の順位。トップ3入り。その達成感が、彼女の中で静かに、しかし確実に広がっているのが、隣にいる俺にはわかった。
「すげえ! 怜央、また1位かよ! さすがだな!」
悠貴が、俺の肩をバンバン叩いて祝福してくる。周囲からも、「やっぱり二宮は別格だな」「おめでとう!」といった声が飛んでくる。俺はそれに軽く頷きながらも、視線は隣の彼女から離せなかった。
「ていうか、天峰さん! 3位!? マジかよ! すごいじゃん!」
悠貴の声に、周りの注目が一気に天峰へと集まる。
「えっ、ほんとだ! 天峰さん、3位!?」
「うわー、ついにトップ3入りか……」
「めちゃくちゃ頑張ったんだな……おめでとう!」
クラスメイトたちから、驚きと称賛の声が上がる。特に女子生徒たちは、「すごい!」「さすが!」と、彼女の快挙を素直に称えているようだった。
「澄香ー! やったじゃん! 3位! すごいすごい!」
桜が、自分のことのように飛び上がって喜んでいる。沙織も、「おめでとう、澄香。本当に頑張ったわね」と、穏やかに、しかし心からの祝福を送っている。
祝福の輪の中心で、天峰は、まだ少し戸惑ったような、信じられないような表情を浮かべていた。顔は喜びで赤らんでいるが、同時に、悔しさもまだ残っているのか、視線はどこか一点を彷徨っている。そして、ふと、俺の方を見た。目が合う。その瞳には、様々な感情が渦巻いていた。達成感、安堵、そして、俺に対する、ライバルとしての明確な闘志。だが、そこに、以前のような刺々しさはなかった。むしろ、どこか清々しさすら感じられるような、そんな眼差しだった。
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