第9話 宇宙みたいなクラゲの銀河
ペンギンたちの動きを目で追っていると、不意に、背後から聞き慣れた声がした。
「おーい! 澄香ー! 二宮くーん! 見て見て! カピバラさん、めっちゃ可愛かったよー!」
振り返ると、桜と沙織、そして浅倉くんが、興奮冷めやらぬ様子で駆け寄ってきた。その瞬間、私は、はっと我に返り、慌てて彼の手から、自分の手を引き抜いた。
「……っ!」
名残惜しさと、見られたかもしれないという羞恥心で、顔が熱くなる。彼は、私の突然の動きに少しだけ驚いたようだったが、すぐに平静を取り繕い、桜たちに向き直った。
「そうか、良かったな」
「うん! ずっと水に浸かってて、超癒されたー!」
「ペンギンも可愛いけど、カピバラも捨てがたいな!」
二人は、私たちがお互いの袖を握り合っていたことには、気づいていないようだった。内心、ホッと胸を撫で下ろす。
「カピバラ、楽しかったわ。長崎のサファリパークとかも有名だけど、そういうところ巡ってみたくなるわね」
沙織も、穏やかな笑顔でそう吐露した。
再び、五人が揃う。さっきまでの、二人だけの特別な空気は霧散し、いつもの賑やかなグループの雰囲気が戻ってきた。それはそれで、安心する。でも、どこかで、少しだけ、残念に思っている自分もいた。
「よし、じゃあ次! クラゲ見に行こうよ! クラゲ!」
桜が提案し、私たちは再び歩き出した。今度は、五人で。彼の隣を歩くけれど、さっきのような密着した距離ではない。それでも、彼の存在を、強く意識せずにはいられなかった。
「海月銀河」と名付けられたクラゲのエリアは、言葉を失うほど幻想的だった。暗闇の中に、無数のクラゲたちが、様々な色と形の光を放ちながら、静かに、優雅に漂っている。まるで、星々がきらめく宇宙空間にいるかのようだ。
「……綺麗……」
声にならないため息が漏れる。壁にもたれかかり、ゆらゆらと漂うミズクラゲの群れを見つめる。複雑に絡み合っていた思考が、この静謐な光景の中で、少しずつ解きほぐされていくような気がした。心が、穏やかに、静かに、凪いでいく。
ふと、隣を見ると、彼が立っていた。いつの間にか、また隣に来ていたらしい。彼もまた、黙って、クラゲの水槽を見上げている。その横顔は、青白い光に照らされ、いつもよりも儚く、そして美しく見えた。
「……クラゲって、見てると、心が落ち着くね」
私がぽつりと呟くと、彼は静かに頷いた。
「ああ。時間の流れが、違うような気がするな」
「うん……」
また、沈黙。けれど、それは太平洋エリアの時とは違う、もっと穏やかで、安らかな沈黙だった。言葉はなくても、同じものを見て、同じように感じている。そのことが、不思議な一体感を生み出しているようだった。
彼の肩と、私の肩が、ほんのわずかに触れ合った。今度は、びくりとすることはなかった。ただ、その微かな接触が、温かく、心地よく感じられた。彼もまた、その接触を、拒むことはなかった。
私たちは、しばらくの間、ただ黙って、クラゲたちが織りなす、光と影のダンスを眺めていた。それは、今日のデートの中で、巨大水槽の前とはまた違う意味で、忘れられない時間となった。
クラゲのエリアを後にし、他のエリアを駆け足で見て回る。チリの岩礁地帯、クック海峡、そして、最初の日本の森エリアへ。あっという間に、出口が近づいてきた。
「あー、もう終わりかぁ。楽しかったな」
浅倉くんが、少し名残惜しそうに言う。
「うん! 本当、あっという間だった! また絶対来たい!」
桜も、興奮冷めやらぬ様子だ。
「じゃあ、最後にお土産、見ていく?」
沙織の提案で、私たちはショップへと足を向けた。色とりどりのぬいぐるみ、お菓子、文房具。水族館の思い出が詰まったグッズたち。桜と浅倉くんは、子供のようにはしゃぎながら、あれこれと物色している。沙織は、そんな二人を微笑ましく見守りながら、時折、手に取った商品を吟味している。
私は、特に買うものもなく、少し離れた場所から、その光景を眺めていた。彼も、同じように、少し距離を置いて、静かに店内を見ている。
ふと、目が合った。彼は、小さく首を傾げ、「何か気になるものでもあったか?」と、声には出さずに問いかけてくる。私は、首を横に振って応える。彼も、小さく頷き返す。言葉のない、二人だけのコミュニケーション。それが、今はもう、当たり前のようにできることが、不思議で、そして少しだけ、くすぐったい。
結局、桜は大きなジンベエザメのぬいぐるみを、浅倉くんはちょっとリアルなペンギンのキーホルダーを購入した。沙織は、可愛らしいクラゲの絵柄のクリアファイルを選んでいた。彼と私は、何も買わなかった。
「よし、じゃあ、そろそろ行こうか」
沙織が声をかけ、私たちは、賑やかなショップを後にした。出口の自動ドアを抜けると、ひんやりとした夕方の風が、火照った頬に心地よかった。空は、美しいグラデーションを描きながら、夜の帳へと移り変わろうとしていた。
水族館を出たところで、今日の冒険は、終わりを告げようとしていた。
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