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第8話 本当に、……大嫌い

 ……取り残された。この、薄暗く、青い光に満たされた、巨大な水槽の前で。彼と、二人きり。


 途端に、さっきまでの静かな感動はどこかへ消え去り、心臓が、ドクン、ドクン、と大きく、そして速く、脈打ち始めた。周囲にはまだたくさんの人がいるはずなのに。


 ざわざわとした話し声も聞こえるはずなのに。なぜか、世界から音が消え、彼と私だけが存在しているような、奇妙な感覚に襲われる。


 隣に立つ彼の存在が、急に重みを増して感じられる。肩が触れ合いそうな距離。彼の呼吸。彼の体温。彼の、匂い……。意識しないようにすればするほど、五感が彼に集中してしまう。


 沈黙が、痛いほど重い。何か、話さなければ。この気まずい空気を、どうにかしなければ。


「……ペンギン、……どこにいるのかな。……まだ、先?」


 声が、震えていないだろうか。自分でもわからない。かろうじて絞り出した言葉は、あまりにも当たり障りがなさすぎたかもしれない。


「ああ、ペンギンは、確か……。この水槽を回り込んだ先の、下のフロアだったはずだ。……俺も、見るのが楽しみだ」


 彼の声も、心なしか硬い気がした。彼も、この状況を、意識している? そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、心が軽くなるような、でも、余計に緊張するような、複雑な気持ちになる。


 私たちは、再び、目の前の巨大な水槽へと視線を戻した。言葉を探すけれど、何も見つからない。ただ、隣に彼がいるという事実だけが、私の思考を占拠していく。


「……さっき、カワウソ見てた時の君の顔、……すごく、柔らかかったな」


 不意に、彼が言った。


「え……?」


 思わず、彼の方を見る。彼は、水槽を見つめたまま、私にだけ聞こえるくらいのギリギリの声量で言葉を続けた。


「いつもは、もっと……なんていうか、ガードが固いというか、近寄りがたい雰囲気があるけど。……ああいう、素直な表情もするんだなって、……少し、驚いた」


 彼の言葉に、顔が熱くなるのがわかる。私の、そんな顔を、見ていた? しかも、そんな風に、分析されていたなんて。恥ずかしい。


「……別に、普通だし。……動物は、嫌いじゃないだけ」


 また、素直じゃない返事。でも、彼の言葉は、私の心の壁を、また少し、溶かしたような気がした。彼は、私のことを、ちゃんと見てくれている。私が思っている以上に、ずっと。


 ふと、彼が、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。青白い光の中で、彼の瞳が、深く、静かに、私を見つめている。吸い込まれそうな、強い力を持った眼差し。目が、逸らせない。


「……今日の君も、……いつもと雰囲気が全然違う」


 彼の、静かな声が、私の鼓膜を震わせる。


「その……、……なんていうか……」


 彼は、少しだけ言葉を選びあぐねているように見えた。何を言われるんだろう。似合わない、とか? 変だ、とか? 不安と期待が入り混じる。


「……すごく、……綺麗だと、思う」


 ……綺麗?


 その、あまりにもストレートで、予想外の言葉に、私の思考は完全に停止した。呼吸が止まる。心臓が、今までにないくらい、激しく、大きく、脈打つ。彼が、私を、綺麗、だと……?


 じわじわと、顔全体に熱が集まってくるのがわかる。耳まで、きっと真っ赤になっているだろう。何か言わなければ。お礼を言うべき? それとも、からかってるの、と返す? いや、彼は、そういう冗談を言うタイプじゃない。本気で、そう思ってくれている……?


 混乱する頭で、必死に言葉を探す。けれど、何も出てこない。ただ、彼の真剣な瞳を見つめ返すことしかできない。


「……でも、俺にとっては不思議といつもの君の方が、……もっと、目が離せないんだ」


 彼は、さらに言葉を続けた。その声は、熱を帯び、どこか切実な響きを伴っているように聞こえた。


「制服を着て、難しい顔で参考書と睨めっこしてる君。授業中に、真剣な顔でノートを取ってる君。……時々、俺をライバル視して、負けん気の強い顔をする君。そういう、飾らない、一生懸命な君の姿に、俺は、どうしようもなく、惹かれてるんだと思う」


 彼の、あまりにも率直な、告白にも似た言葉。それは、屋上での「好きだ」という言葉よりも、もっと深く、もっと強く、私の心の奥底に突き刺さった。私の、誰も気づかないような、努力や、意地や、そういう部分を、彼は見ていてくれた。そして、それを、魅力的だと、言ってくれている……?


 嬉しさと、恥ずかしさと、そして、今まで感じたことのないような、甘い感情が、胸いっぱいに広がっていく。もう、ダメだ。限界だ。


「……あなたの、……そういう、……馬鹿正直なところ……」


 震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。涙が、滲みそうになるのを、必死で堪える。


「……本当に、……大嫌い」


 言った。精一杯の、強がり。本当は、嬉しい。すごく、すごく、嬉しい。でも、素直にそれを認めることなんて、できない。


 気づけば、私の身体は、自然と、彼の腕の方へと、ほんの少しだけ、傾いていた。まるで、支えを求めるように。俯いた顔を、上げられない。彼の服の袖を、無意識のうちに、指先できつく、きつく、握りしめていた。行かないで、ここにいて、とでも言うように。


 彼は、何も言わなかった。ただ、私の、言葉とは裏腹な行動を、静かに受け入れてくれているのが、その気配でわかった。そして、彼の手が、私の手に、そっと、優しく重ねられた。彼の、少しだけごつごつした、でも、温かい手の感触。その温もりが、握りしめた手をほぐし、指を絡めてくる。まるで、電流が走ったかのように、身体が微かに震えた。


 彼は、きっと、困ったように、でも、優しく微笑んでいるのだろう。私の、この矛盾した態度が、照れ隠しであることくらい、きっと、とっくに見抜いている。それが、また悔しくて、恥ずかしくて、でも、どうしようもなく、愛おしくて……。


 私たちは、しばらくの間、巨大な水槽の前に、寄り添うように立っていた。言葉はなかった。ただ、重ねられた手の温もりと、隣にいる彼の存在だけが、確かなものとして感じられた。


 周囲のざわめきも、水の音も、遠い世界の出来事のようだった。この瞬間が、永遠に続けばいいのに、と、柄にもなく、そう願ってしまった。


 やがて、どちらからともなく、ゆっくりと身体を離した。けれど、私が掴んでいた彼の手は、まだ離せずにいた。名残惜しくて。この温もりを、手放したくなくて。


「……ペンギン、見に行こうか。そろそろ、三人も戻ってくるかもしれないし」


 彼の、少しだけ掠れた、優しい声。


「……うん」


 俯いたまま、私は小さく頷いた。顔を上げて、彼の顔を見る勇気は、まだなかった。けれど、繋がれたままの右手を感じながら、私たちは、再び、ゆっくりとスロープを下り始めた。薄暗い、青い光の中を、二人で。


 関係性は、何も変わっていないはずだ。少しはみ出しているだけで、私たちは、まだ「友達」だ。けれど、今、この瞬間、私の心の中で、何かが決定的に、そして取り返しがつかないほどに、変わってしまったことを、はっきりと自覚していた。


 ペンギンたちのいるエリアへと続く、薄暗い通路を歩きながら、私は、重ねられた彼の手の温もりを、ただ、強く、強く、感じていた。この温もりを、失いたくない、と。そう、心の底から願ってしまっていた。


 私たちは、ペンギンたちの水槽の前にたどり着いた。氷と岩場を模した陸地と、青く澄んだ水の中を、たくさんのペンギンたちが、思い思いに過ごしている。よちよちと歩く姿、勢いよく水に飛び込む姿、水中をまるで飛ぶように泳ぐ姿。そのどれもが、愛らしく、生命力に満ちている。


「……可愛い……。やっぱり、好きだな、ペンギン」


 思わず、素直な感想が口をついて出た。隣を見ると、彼もまた、穏やかな表情でペンギンたちを眺めていた。


「ああ。見ていて飽きないな。水中での動きは、陸上とのギャップがあって面白い」


「うん。飛べない鳥だけど、水中では、まるで空を飛んでるみたい」


 自然な会話。さっきまでの、あの息詰まるような緊張感は、少しだけ和らいでいる。けれど、繋がれたままの手が、まだ互いの存在を強く意識させていた。


「天峰が、こんな風に素直に『可愛い』って言うの、やっぱり新鮮だ」


 彼が、少しだけからかうような口調で言った。


「……うるさい」


 むっとして睨むと、彼は楽しそうに笑った。その笑顔が、眩しい。

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