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第7話 巨大水槽、言葉を失う藍色

 長い、長いエスカレーター。吸い込まれるように上昇していくと、視界の先に柔らかな光が見えてきた。トンネルを抜けた先は、予想外の空間だった。高い天井から木漏れ日のような光が降り注ぎ、緑の植物が生い茂る。水の流れる音が心地よく響き、ひんやりと湿った空気が肌を撫でる。まるで、どこか遠い森の中に迷い込んだみたいだ。


「うわー! すごい! 本物の森みたい!」


 隣で桜が感嘆の声を上げる。その隣では浅倉くんも「マジか、水族館の中にこんな場所があるなんて」と目を丸くしていた。沙織はいつも通り穏やかに微笑んでいる。


 そして――私は、自分の隣に立つ彼の横顔を、そっと盗み見た。怜央くん。彼は、驚いた様子を見せるでもなく、ただ静かに、深く息を吸い込み、その場の空気を味わっているようだった。


 彼の、こういう、どこか達観したような落ち着きが、時々、私を苛立たせる。でも、今日は違う。その静かな佇まいが、私の高鳴る心臓を、少しだけ鎮めてくれるような気さえした。今日、彼はネイビーのジャケットを着ている。いつも見慣れた制服姿とは全く違う、少しだけ大人びた、知らない彼。そのことが、私の心を妙にざわつかせていた。


 ここからは、螺旋状のスロープを下りながら、様々な水槽を見ていく順路らしい。


 最初に現れたのは、コツメカワウソ。小さな体でちょこまかと動き回り、水に飛び込んだり、仲間とじゃれ合ったりしている。その、無邪気で愛らしい姿に、思わず口元が緩む。


「可愛い……」


 ぽつりと呟くと、隣から「ああ、本当だな」と、彼の静かな声が聞こえた。


 驚いて顔を向けると、彼もまた、穏やかな、優しい眼差しでカワウソたちを見ていた。目が合う。ほんの一瞬。彼は、わずかに微笑んで、すぐに視線を水槽に戻した。


 たったそれだけのことに、心臓が、またドクン、と大きく跳ねた。なんで、こんな些細なことで、いちいち反応してしまうんだろう。馬鹿みたいだ。


 私たちは、五人でゆっくりとスロープを下っていく。桜と浅倉くんが「あ、あそこ見て!」「こっちもすごい!」と常にはしゃいでいて、沙織がそれを微笑ましく見守り、怜央くんが時折、冷静な解説を加える。私は、その輪の中に溶け込んでいるようで、どこか一歩引いてしまう。彼の存在を意識しすぎるあまり、自然に振る舞えないのだ。肩が触れ合いそうな距離。時折、風もないのにふわりと感じる、彼の、清潔で、少しだけ甘いような匂い。その全てが、私の感覚を過敏にさせていた。


 ラッコの水槽の前で、私たちは足を止めた。仰向けにぷかぷかと浮かび、お腹の上で貝を石に打ち付けて割っている。その器用さと、どこか間の抜けた表情に、くすりと笑いが込み上げる。


「ラッコって、ずっと見てても飽きないよねー。この、ぽやーんとした顔がたまらない!」


 桜が言うと、怜央くんが「自分の体温を保つために、常に毛繕いをしたり、エネルギーを摂取したりしているらしい。見た目によらず、生存競争は厳しいんだろうな」と、またしても冷静な分析を披露した。


 やっぱり、彼のこういうところ、少しだけ鼻につく。でも、彼の言葉には、単なる知識の披露だけではない、生き物に対する敬意のようなものが感じられて、完全に否定することもできなかった。




 モンタレー湾を再現したエリアでは、大きなアシカやアザラシが、水中を驚くほど滑らかに、そして力強く泳ぎ回っていた。陸上での、どこかユーモラスな姿とは全く違う、野生の躍動感。


「なあなあ、前足で体を支えてるのがアシカで、耳たぶがないのがアザラシ、だっけ?」


 浅倉くんの問いに、怜央くんがまた丁寧に答える。彼の博識ぶりには、素直に感心するしかない。知らないことを知るのは、純粋に楽しい。彼が隣にいなければ、きっと私は、ただ漠然と「すごいな」と思うだけで通り過ぎていただろう。彼の解説があることで、目の前の生き物たちが、より深く、面白く感じられる。それは、認めなければならない事実だった。


 スロープを下るごとに、周囲の光は徐々にその量を減らし、青みを帯びた、神秘的な光へと変わっていく。


 そして、ついに、私たちの目の前に、圧倒的なスケールの光景が広がった。太平洋を模した、巨大な水槽。視界いっぱいに広がる、深い、深い、藍色の世界。


「……うわぁ……」


 誰からともなく、感嘆のため息が漏れた。言葉を失う、とはこのことだろう。巨大なジンベエザメが、まるで王者のように、悠然と水中を泳いでいく。その周りを、銀色の鱗をきらめかせながら、イワシの大群が、一つの生き物のようにうねり、形を変える。大きな翼を広げたマンタが、すぐ目の前を、優雅に滑空していく。


 まるで、自分が海の中に溶け込んでしまったかのような、不思議な感覚。私たちは、ただ、その壮大な生命の劇場に、魅入られていた。


「……すごいね。言葉が出ない」


 隣で、彼が静かに呟いた。その声には、普段の彼からは想像できないような、純粋な感動が込められているように聞こえた。


 私も、ただ黙って頷く。テストのこと、人間関係のこと、将来のこと。そんな、日常の些末な悩み事が、この巨大な生命の営みの前では、本当にちっぽけなものに思えた。心が、洗われるようだ。


 私たちはしばらく、他の言葉もなく、ただ水槽の中の、永遠に続くかのような時間の流れを見つめていた。


「ねぇねぇ! ちょっと聞いて! あっちのエリアに、期間限定でカピバラさんが来てるんだって! 超可愛いらしいよ!」


 静寂を破ったのは、やはり桜の弾んだ声だった。カピバラ? この巨大水槽の感動の後に? その唐突さに、私は少しだけ眉をひそめる。


「ね、浅倉くん、行こ! 私、カピバラさん、大好きなの!」


「お、マジか! 俺もカピバラ好き! あの、ぼーっとしてるところがいいよな!」


 桜は、私の返事も待たずに、浅倉くんの腕とついでに沙織の腕を掴むと、「沙織も行こう!じゃあ、ちょっと見てくるねー!」と手を振りながら、あっという間にスロープの先へと消えていった。本当に、嵐のような子だ。


「……まあ、桜らしいわね」


 私が呆然としていると、隣で怜央くんが苦笑しながら三人を見送り、意識を水槽に戻していた。

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