第6話 人混みの中で掴んだ腕
自動改札を抜け、ホームへと続く階段を下りる。土曜日の午前中だけあって、駅はそれなりに混雑していた。俺たちの目的地である水族館へは、まず電車でターミナル駅まで行き、そこから地下鉄に乗り換える必要がある。少し長めの移動になるだろう。
ホームに滑り込んできた快速電車に乗り込む。幸い、まだ座席には余裕があった。俺たちは、向かい合わせのボックス席を見つけ、そこに腰を下ろすことにした。
女子三人が座り、悠貴は俺は立っとくよといい、空いている座席に座るよう促された。俺の隣には――天峰が座る形とになった。
偶然か、それとも誰かの意図か。俺には判断がつかなかったが、内心では、この配置に少なからず動揺していた。隣に、彼女がいる。肩が触れ合いそうな距離。意識しない方が無理というものだ。彼女もまた、わずかに身体を強張らせているのが、隣から伝わってくる。
電車がゆっくりと動き出す。ガタン、ゴトン、という規則正しい揺れが、心地よい。車窓からは、郊外の住宅街の風景が流れていく。
「いやー、しかしテスト終わった後の週末って最高だよな!」
悠貴が、伸びをしながら、大きな声で言った。
「ほんとそれ! あの地獄の三日間から解放されたんだもん! 今日は思いっきり楽しもー!」
桜も、満面の笑みで同意する。
「二人とも、そんなにテスト、大変だったの?」
沙織が、苦笑しながら尋ねる。
「沙織みたいに余裕じゃないんだって! 特に化学! 今回、範囲広すぎ!」
「俺も数学の応用で死んだ……。怜央に教えてもらったとこ、なんとか解けたけど、あれ自力じゃ絶対無理だったわ」
悠貴が、俺の方を見て言う。
「まあ、今回は全体的に難易度高めだったみたいね。私も、古典は少し苦戦したわ」
沙織が言うと、桜が「えー! 沙織でも!?」と驚きの声を上げる。
「澄香と怜央くんは、どうだった? いつも通り、余裕だったんでしょ?」
桜が、俺たち二人に話を振ってきた。俺は、ちらりと隣の天峰を見る。彼女は、窓の外を眺めているふりをしているが、耳はこちらの会話に集中しているのがわかった。
「……いや、今回は、俺も結構手こずった科目があったな。特に英語の長文は、時間がギリギリだった」
俺が正直に答えると、天峰が、わずかに反応したように見えた。英語は、彼女の得意科目のはずだ。
「……私は、数学と物理が……今回も、あんまり自信ないかも」
彼女が、小さな声で呟いた。その声には、テストの出来に対する不安が滲んでいる。
「そうか? 勉強会で見た感じだと、かなり理解深まってたと思ったけどな」
俺が言うと、彼女は少しだけ驚いたようにこちらを見た。
「……そう、見える?」
「ああ。天峰は、元々基礎は完璧なんだ。あとは、応用問題に対する考え方のパターンを掴めば、すぐにでもトップを狙えると思うが」
それは、お世辞ではなく、俺の本心だった。彼女のポテンシャルは、非常に高い。
「……二宮くんにそう言ってもらえると、少しだけ、安心する」
彼女が、ふっと、はにかむように微笑んだ。その、不意打ちのような笑顔に、俺の心臓は、またしても大きく跳ねた。やばい。これは、かなり、効く。
「うわー! 何この雰囲気! さっきからイチャイチャしすぎじゃない!?」
桜が、またしても空気を読まずに、あるいは読んだ上で叫んだ。その声に、俺も天峰も、はっと我に返る。顔が、熱い。
「イチャイチャなんてしてない!」
「そうよ、桜。二人は真面目にテストの話をしてただけじゃない」
天峰が慌てて否定し、沙織が冷静にフォローを入れる。悠貴は、隣で肩を震わせて笑いを堪えている。
「でもさー、なんか二人、距離近くない? さっきから」
桜の指摘に、俺は改めて隣の天峰との距離を意識する。確かに、会話に夢中になるうちに、無意識に身体が近づいていたかもしれない。肩と肩が、もうほとんど触れ合っている。彼女もそれに気づいたのか、慌てて少しだけ身体を窓際に寄せた。その動きが、また妙に可愛らしく見えてしまう。
「……もう、桜ったら」
沙織が、やれやれといった表情で桜をたしなめる。そのおかげで、場の空気はなんとか元に戻った。
電車は、いくつかの駅を通過し、徐々に速度を上げていく。車窓の風景も、住宅街から、少しずつビルが立ち並ぶ景色へと変わっていく。
「水族館、どんな魚がいるんだろうね?」
桜が、鞄から取り出したパンフレットを広げながら言った。
「ジンベエザメがいるんだよね! テレビで見たことある!」
「へえ、でかいんだろうな」
悠貴が、興味深そうにパンフレットを覗き込む。
「あと、クラゲのコーナーも綺麗だって聞いたことあるわ」
沙織が付け加える。
「天峰さんは、何か見たい生き物とかいるのか?」
俺は、隣の彼女に尋ねてみた。彼女は、少し考えるように視線を上げ、
「……ペンギン、かな。……昔、家族で行った時に見た、よちよち歩く姿が、なんだか可愛くて、印象に残ってる」
意外な答えだった。ペンギン。彼女のクールなイメージとは少し結びつかない、愛らしい生き物。だが、そのギャップが、また彼女の新たな一面を見せてくれたようで、嬉しくなった。
「へえ、ペンギンか。いいな。俺も好きだ」
「そうなんだ」
彼女が、少しだけ嬉しそうに微笑む。共通の「好き」を見つけられたことが、ささやかな喜びをもたらす。
「怜央は? 何か見たいのいる?」
沙織に問われ、俺は少し考えた。
「そうだな……。深海魚とか、少し興味がある。普段見られない、不思議な形をした生き物が多いだろ?」
「うわー、なんか怜央くんっぽい!」
桜が、妙に納得したように言う。俺のイメージは、そういう感じなのだろうか。
そんな他愛のない会話を続けているうちに、電車は速度を落とし、大きなターミナル駅のホームへと滑り込んだ。
「よし、着いたな。乗り換えだ」
悠貴が、立ち上がりながら言う。俺たちも席を立ち、ホームへと降り立った。途端に、人の波と喧騒に包まれる。さすがは都市経済圏の中心駅。人の数が、地元の駅とは比べ物にならない。
「うわっ、すごい人……」
桜が、少し気圧されたように呟く。
「はぐれないようにしないとね」
沙織が、周囲を見渡しながら言う。俺も、自然と隣を歩く天峰に意識を向ける。彼女は、人の多さに少し戸惑っているのか、きょろきょろと辺りを見回している。
「こっちだ。地下鉄の乗り場は、案内表示に従っていけば……」
俺が先導するように歩き出す。人混みをかき分けながら進むのは、思った以上に大変だ。特に、彼女のような小柄な体格では、流れに飲まれてしまいかねない。
ふと、彼女が人波に押され、俺から少し離れそうになった。
「……っ、危ない」
咄嗟に、俺は彼女の腕を掴んでいた。
「え……?」
彼女が、驚いたように顔を上げる。掴んだ腕は、驚くほど細く、そして柔らかかった。白いブラウス越しに伝わる、彼女の体温。心臓が、また大きく跳ねる。
「……すまない。……はぐれそうになったから」
慌てて手を離しながら、言い訳のように言う。顔が、熱い。彼女も、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
「……あ、ありがとう……」
小さな声で呟き、彼女は俺の少し後ろを、ぴったりとついてくるようになった。その距離感に、またしても、俺の心はかき乱される。
無事に地下鉄のホームにたどり着き、目的の電車に乗り込む。こちらもそれなりに混んでいたが、幸い、五人が固まって立つスペースは確保できた。
吊革に掴まりながら、俺は隣に立つ天峰の横顔を盗み見た。まだ、少しだけ頬が赤い。先ほどの出来事を、引きずっているのだろうか。それとも……。
電車が地下へと潜っていく。車窓の景色は暗闇に変わり、代わりに、ガラスに映る自分たちの姿がぼんやりと見える。隣に立つ彼女の姿も、そこに映り込んでいる。現実の彼女と、ガラスの中の彼女。その両方を同時に意識しながら、俺は、これから始まる水族館での時間に、期待と、そしてほんの少しの不安を抱いていた。
地下鉄の揺れに合わせて、時折、彼女の肩が俺の腕に、軽く触れる。そのたびに、身体が微かに反応してしまう。彼女もまた、それに気づいているのだろうか。
「もうすぐ着くかな?」
桜が、スマホの乗り換え案内を確認しながら言う。
「うん、次の次みたい」
沙織が答える。目的地の駅名がアナウンスされる。俺たちの間に、再び期待感が満ちてくる。
電車がホームに到着し、ドアが開く。地上へと続くエスカレーターを上ると、潮の香りを微かに含んだ風が、俺たちの頬を撫でた。
「着いたー!」
桜が、両手を広げて叫ぶ。空は、どこまでも青く澄み渡っている。駅前からは、巨大な観覧車と、そして、目的地の水族館の、特徴的な建物が見えていた。
「うわー、大きい!」
「ほんとだ!」
悠貴と桜が、子供のようにはしゃいでいる。沙織も、穏やかな笑みを浮かべてその様子を見ている。
俺は、隣の天峰を見た。彼女は、真っ直ぐに水族館の建物を見つめていた。その瞳には、強い好奇心と、そして、隠しきれない期待の色が浮かんでいるように見えた。その表情を見て、俺もまた、今日という一日が、きっと特別なものになるだろうという予感を、強くしていた。
「じゃあ、行こうか」
俺が声をかけると、彼女は、こくりと頷き、そして、ほんの少しだけ、俺に向かって微笑んだ。その笑顔が、今日の冒険の始まりを告げているようだった。
(よし、楽しむぞ。……そして、願わくば……)
心の中で、小さな決意を固める。俺は、仲間たちと共に、期待に満ちた足取りで、水族館へと続く道を歩き始めた。
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