第5話 待ち合わせ場所のソワソワ感
土曜日の午前十時。梅雨入り前の貴重な晴れ間が広がっていた。駅前のロータリーに降り注ぐ柔らかな日差しは、道行く人々の足取りをどこか軽やかにしているように見える。俺は約束の時間より少し早く着いてしまい、手持ち無沙汰にスマートフォンの画面を眺めるふりをしながら、内心では落ち着かない気持ちで仲間たちの到着を待っていた。
今日、俺たちは水族館へ行く。中間テストの打ち上げと称して、桜が半ば強引に決めた予定だ。メンバーは、いつもの五人。俺、天峰、悠貴、沙織、そして発起人の桜。テスト期間中のピリピリとした空気はもうない。解放感と、そして、俺にとってはそれ以上の特別な意味を持つ、期待感。
天峰との関係は、先週の火曜日の勉強会以降、微妙な、しかし確かな変化を見せていた。俺の匂いに過剰に反応し、顔を真っ赤にして動揺していた彼女。その理由が、金曜日の雨宿りの一件にあると知り、俺自身も少なからず動揺した。だが、同時に、彼女が俺を強く意識していること、そしてそれが決してネガティブな感情ではないことを確信できた。帰り道に彼女が口にした『たまになら、はみ出してもいいかも』という言葉。それは、俺たちの間にあった「友達」という名の透明な壁に、小さな扉が取り付けられた瞬間だったのかもしれない。
だから、今日の水族館行きは、単なるグループでの遊びではない。俺にとっては、「友達の範囲」を少しだけ意識的に「はみ出す」ための、絶好の機会なのだ。もちろん、焦りは禁物だ。彼女のペースを尊重し、あくまで自然に。けれど、心のどこかでは、この機会に何か少しでも進展があれば、と期待している自分もいる。
「おーい、怜央! 早いな!」
思考に沈んでいた俺の耳に、聞き慣れた快活な声が飛び込んできた。顔を上げると、悠貴がラフなパーカーにジーンズという軽装で、手を振りながら近づいてくる。その隣には、鮮やかなオレンジ色のワンピースを着た桜が、元気いっぱいに跳ねるように歩いていた。
「よう。お前らも早いじゃないか」
「おうよ! 楽しみすぎて、早く目が覚めちゃってさ!」
悠貴が屈託なく笑う。桜も「私もー! 水族館なんて久しぶりだから、超ワクワクする!」と目を輝かせている。この二人の、ある意味単純なまでのポジティブさは、場を明るくする力がある。俺の内心の緊張も、少しだけ和らぐ気がした。
「沙織と天峰さんはまだみたいだな」
悠貴が周囲を見回しながら言う。
「まあ、時間ぴったりか、少し遅れてくるくらいだろ、あの二人は」
桜がこともなげに言う。確かに、沙織はともかく、天峰は時間に正確だが、こういう集まりに一番乗りするタイプではないだろう。
「にしても怜央、なんか今日、雰囲気違うな?」
悠貴が、俺の服装を上から下まで眺めながら、ニヤリと笑う。俺は今日、少しだけ迷った末に、白のシンプルなTシャツの上に、落ち着いたネイビーの薄手のジャケットを羽織り、ベージュのチノパンを合わせていた。普段の俺からすれば、少しだけ、ほんの少しだけ、気を使った服装だ。もちろん、天峰を意識してのことだ。
「……別に、いつもと変わらないだろ」
努めて平静を装って答える。だが、悠貴にはお見通しだったようだ。
「いやいや、なんかシュッとしてるって! もしかして、天峰さんを意識しちゃったりして~?」
「からかうなよ」
俺が軽く睨むと、悠貴は「図星かよ!」と楽しそうに笑う。本当に、この男は……。桜も隣で「えー、そうなの? 怜央くん、やるじゃーん!」と囃し立てる。
「おはよう。みんな早いのね」
そんな俺たちのやり取りを聞いていたかのように、落ち着いた声と共に沙織が現れた。淡いグリーンのブラウスに白いロングスカートという、彼女らしい清楚で上品な服装だ。さすが、生徒会長。休日の私服にも、どこか品格が漂っている。
「沙織、おはよー! その服、可愛い!」
「ありがとう、桜。桜のワンピースも、すごく似合ってるわよ」
女子同士の和やかな会話。沙織がいると、悠貴や桜の暴走も少しは抑えられる。
「あとは、澄香だけね」
沙織が時計を確認しながら言う。約束の時間は、もうすぐだ。俺の心臓が、期待と緊張で少しだけ速くなるのを感じる。彼女は、どんな服装で来るのだろうか。制服姿しか知らない俺にとって、彼女の私服姿は未知の領域だ。金曜日に俺の服を着ていた時の、あのぶかぶかな姿は別として。
その時だった。ロータリーの向こう側から、見慣れた、しかし今日はどこか違う雰囲気のシルエットが、こちらへ向かってくるのが見えた。
――天峰だ。
思わず、息を呑んだ。彼女は、白い、少しゆったりとしたシルエットのブラウスに、ふわりとした淡いブルーのロングスカートを合わせていた。スカートは風を受けるたびに柔らかく揺れ、彼女の動きに合わせて優雅な曲線を描いている。肩には、シンプルなデザインの小さなショルダーバッグ。髪は、普段学校で見せるきっちりとした印象とは違い、少しだけラフに、けれど清潔感のあるダウンスタイルで、陽光を浴びて艶やかに輝いている。
いつものクールで近寄りがたい雰囲気は影を潜め、どこか柔らかく、女性らしい、それでいて彼女本来の持つ凛とした透明感が際立つような、そんな印象だった。化粧はほとんどしていないように見えるが、それがかえって彼女の整った顔立ちと白い肌を引き立てている。
(……綺麗だ)
心の底から、素直にそう思った。声に出さずに済んだのは、幸いだったかもしれない。他の三人も、一瞬、言葉を失ったように彼女を見つめていた。
「……ごめん、待たせた?」
彼女は、少しだけ早足で近づいてくると、わずかに頬を染めながら、小さな声で言った。その表情には、遅れたことへの申し訳なさと、そして、慣れない状況への戸惑いのようなものが混じっているように見えた。
「ううん、全然! 私たちも今来たとこ!」
桜が、すぐにいつもの調子を取り戻して答える。
「ていうか澄香、その服、めっちゃ可愛いじゃん! 超似合ってる!」
「え……そ、そうかな……。ありがとう」
桜のストレートな賞賛に、天峰はさらに顔を赤くして俯いてしまった。その反応が、また、普段の彼女からは想像もつかないほど、初々しくて……俺の心臓は、もう完全に制御不能なほど高鳴っていた。
「本当よ、澄香。すごく素敵。いつもと雰囲気が違って、ドキッとしちゃった」
沙織も、穏やかに微笑みながら同意する。
「沙織まで……もう、からかわないでよ」
彼女は、照れ隠しのように、そっぽを向いてしまう。その仕草の一つ一つが、俺の目には焼き付いて離れない。
「よう、天峰さん。似合ってるぜ」
悠貴も、少しだけ照れたように、しかしストレートに褒める。彼はこういう時、変に茶化したりしない。
「……どうも」
天峰は、まだ俯いたまま、小さな声で礼を言った。その視線が、一瞬だけ、俺の方に向けられたような気がした。俺も何か言わなければ。何か、気の利いた言葉を。
「……ああ。……その、……いいと思う」
結局、口から出たのは、そんな気の抜けた、月並みな言葉だった。情けない。もっと気の利いた言い方があったはずだ。だが、彼女のあまりの変貌ぶりに、完全に言葉を失っていたのだ。
それでも、彼女は、俺の言葉に、ほんのわずかに、本当にわずかに、口元を緩めたように見えた。それだけで、俺は少しだけ救われた気がした。
「よし! 全員揃ったことだし、早速行こうぜ! 電車の時間、大丈夫か?」
悠貴が、場を取り持つように声を上げる。俺たちは頷き合い、駅の改札へと向かった。
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