第3話 隣の席の、特別なライバル
週明け、月曜日。重い鞄を肩に食い込ませながら校門をくぐる私の足取りには、普段とは違う種類の、鋭利な決意が込められていた。今日から三日間、中間テスト。それは、単なる成績評価ではない。私にとっては、あの男――二宮怜央との、譲れない戦いのゴングが鳴る日なのだ。
先週の金曜日。駅前の本屋とカフェで過ごした、あの妙に穏やかで、どこか浮ついた時間。彼の隣で感じた、心地よさと戸惑い。あの日、私は確かに口にした。『友達の線を、少しだけなら、はみ出してもいいかも』と。けれど、それはそれ。これはこれだ。学業において、彼に負けるわけにはいかない。絶対に。首席で入学し、常にトップを走り続ける彼に、一矢報いる。それが、今の私の一番のモチベーションだった。恋だの愛だの、そんな浮ついた感情に流されて、本来の目標を見失うなんて、あってはならない。
(見てなさい、二宮怜央。今回は、私が上を行くから)
教室に入ると、そこにはテスト期間特有の、ピリピリとした緊張感が漂っていた。いつもより口数の少ないクラスメイトたち。参考書を最後の最後まで見直す生徒。その中で、隣の席の彼は、すでに静かに席に着き、目を閉じて精神統一でもしているかのように見えた。相変わらず、涼しい顔。それがまた、私の競争心に火をつける。
「……おはよう」
席に着きながら、努めて平静を装い、短く声をかける。彼はゆっくりと目を開け、こちらを見た。その瞳の奥に、先週の金曜日とは違う、穏やかだが真剣な光が宿っているように見えた。
「ああ、おはよう。……いよいよだな」
「……そうね。手加減、しないから」
思わず、挑戦的な言葉が口をついて出た。彼は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふっと笑みを漏らした。
「望むところだ。俺も、負けるつもりはない」
その不敵な笑みが、癪に障る。けれど、同時に、胸の奥がわずかに高鳴るのを感じてしまう自分もいた。勝負は、始まったのだ。
一時間目のチャイムが鳴り響き、問題用紙が配られる。深呼吸一つ。ペンを握りしめ、意識を目の前の問題に集中させる。雑念を振り払え。彼の存在も、金曜日の出来事も、今は全て忘れるんだ。
解答用紙を埋めていく。数学、物理、現代文……。手応えは悪くない。勉強会の成果もあってか、以前よりもスムーズに解ける問題が増えている気がした。時折、隣の席でペンを走らせる音が聞こえる。彼もまた、集中しているのだろう。その気配を感じるたびに、「負けられない」という気持ちが、解答を導き出す力へと変わっていく。
初日の試験が終わり、教室が解放感と疲労感の混じった喧騒に包まれる。クラスメイトたちが、互いの出来を尋ね合ったり、答え合わせを始めたりしている。私は、そんな輪には加わらず、すぐに荷物をまとめた。今日の反省と、明日の科目の最終確認。やるべきことは山積みだ。
「天峰さん、お疲れ。どうだった?」
数人の女子生徒に声をかけられるが、「まあまあかな」と曖昧に答え、足早に教室を出る。隣の席の彼は、友人たちに囲まれ、何か話しているようだったが、今は彼と言葉を交わす気にはなれなかった。テスト期間中は、馴れ合いは不要だ。
放課後は、迷わず図書室へ向かった。彼も来るかもしれない、という考えが頭をよぎったが、今は勉強が最優先だ。幸い、いつもの席は空いていた。鞄から参考書を取り出し、再び集中モードに入る。窓の外はまだ明るいが、図書室の中は静寂に包まれ、ペンを走らせる音だけが響いていた。結局、閉館時間ぎりぎりまで粘り、帰路についた。彼の姿は、見かけなかった。
夜、自宅の机に向かう。明日の科目は、日本史と化学、そして英語。特に英語は、彼も得意としている科目のはずだ。ここで差をつけなければ。単語帳をめくり、文法の問題集を解き進める。集中しているはずなのに、ふとした瞬間に、彼の顔が脳裏をよぎる。カフェで見た、少し照れたような笑顔。本について語る、真剣な眼差し。
(……だめだ、集中!)
頭を振り、頬を軽く叩く。今は、そんなことを考えている場合じゃない。ライバルなのだ。彼に勝つために、全力を尽くさなければ。そう自分に強く言い聞かせ、再び参考書に没頭した。
火曜日。テスト二日目。身体には、確かな疲労感が蓄積し始めていた。睡眠時間は削られ、目の下にはうっすらと隈ができているかもしれない。それでも、気持ちは高ぶっていた。今日の結果次第で、総合順位は大きく変わる。
教室に入ると、彼もすでに来ていた。昨日と同じように、静かに目を閉じている。その姿は、まるで嵐の前の静けさのようだ。
「おはよう」
「……おはよう」
昨日よりも、さらに短い挨拶。互いに、言葉は少なく、目線だけで火花を散らしているような、そんな錯覚さえ覚える。
試験が始まる。昨日よりも難易度が上がっている気がした。特に化学の応用問題で手が止まる。焦りが募るが、深呼吸して、勉強会で彼が教えてくれた考え方を思い出す。「なぜその反応が起こるのか、根本を理解する」。そうだ、落ち着いて考えれば、きっと解けるはずだ。なんとか解答を導き出し、時間ぎりぎりまで見直しをする。
休み時間。消しゴムが見当たらず、鞄の中を探していると、隣から、すっと黒い消しゴムが差し出された。見ると、彼が、無言でこちらに差し出している。
「……あ、ありがとう」
反射的に受け取り、礼を言う。彼は、小さく頷いただけですぐに視線を自分のノートに戻してしまった。ほんの数秒の、何気ないやり取り。それなのに、彼の指先が触れた消しゴムが、妙に熱く感じられた。心臓が、また勝手にリズムを刻み始める。
(……だから、意識するなって言ってるのに!)
自分自身に悪態をつきながら、借りた消しゴムを使う。彼も、きっと同じように、このテストに全力を注いでいる。今は、ただのクラスメイト。困ったときに助け合う、それだけのことだ。そう、割り切ろうとした。
放課後。迷った末、やはり図書室へ向かう。家で一人で勉強するよりも、周りに人がいる方が集中できる気がした。幸い、彼はまだ来ていないようだった。昨日と同じ席に座り、最後の追い込みをかける。生物と古典。どちらも暗記要素が多い。頭に知識を詰め込み、問題を解き、間違えた箇所を確認する。時間が、あっという間に過ぎていく。
ふと顔を上げると、通路の向こうの本棚の影に、彼の姿が見えた。参考書を探しているのだろうか。目が合ったが、彼はすぐに視線を逸らし、別の棚へと移動していった。彼もまた、私を意識しているのだろうか。それとも、ただ単に、邪魔にならないように気を遣っただけなのか。わからない。けれど、同じ空間にいるというだけで、妙な緊張感が漂う。
夜、LINEグループに、桜から「古典のこの部分、全然わかんない! 誰か助けてー!」というメッセージが入る。沙織がそれに丁寧に返信し、浅倉くんが「俺もそこ苦手だわー」と同調している。私も、自分が理解している範囲で、いくつか補足の説明を送った。彼からの返信はなかった。テスト期間中は、彼もSNSは控えているのかもしれない。少しだけ、ほんの少しだけ、彼からの個人的なメッセージ――「今日のテスト、どうだった?」とか、「明日の科目、頑張ろうな」とか――を期待していた自分に気づき、小さくため息をついた。期待なんて、するだけ無駄だ。今は、目の前のテストに集中するだけ。
そして、水曜日。中間テスト最終日。疲労はピークに達していたが、ゴールが見えていることで、不思議と気力は湧いてきた。今日一日、全力を出し切れば、解放される。
教室に入ると、彼も、いつも通り静かに座っていた。その横顔には、さすがに少しだけ、疲労の色が見えるような気がした。
「……おはよう。最終日、頑張ろう」
今日は、私の方から、少しだけ前向きな言葉をかけてみた。彼は、わずかに驚いたようにこちらを見た後、ふっと口元を緩めた。
「ああ。……お互い、悔いのないように」
その、穏やかな返事に、少しだけ心が和む。そうだ、これは敵意をぶつけ合う戦いではない。互いに高め合うための、健全な競争なのだ。
最後の試験科目は、現代社会。問題用紙が配られ、終了の合図があるまで、無心でペンを走らせた。そして――。
「そこまで! ペンを置いてください」
監督の教師の声が、教室に響き渡る。終わった。三日間にわたる戦いが、ついに終わったのだ。
途端に、教室全体が、大きな解放感に包まれた。あちこちから、「終わったー!」「疲れたー!」という声が上がる。私も、ペンを置き、大きく伸びをした。全身の力が抜け、深い疲労感と共に、やりきったという満足感が込み上げてくる。
クラスメイトたちが、わらわらと席を立ち、グループになってテストの出来を話し始める。私も、近くの席の女子生徒と、「難しかったね」「あの問題、どう解いた?」などと言葉を交わした。
ふと、視線を感じて隣を見ると、彼もまた、友人たちと話しながら、こちらを見ていた。目が合う。彼は、やりきったというような、清々しい表情をしていた。そして、俺に向かって、小さく、しかしはっきりと、頷いてみせた。それは、「お疲れ様」という、無言のメッセージのように感じられた。私も、ほんの少しだけ、口角を上げて、頷き返した。
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