第1話 友達以上への序章
金曜日。週の終わりを告げるチャイムが、どこか解放的な響きをもって教室に鳴り渡った。一斉に弛緩する空気。椅子の引かれる音、週末の予定を話し合う浮ついた声、教科書を鞄に詰め込む慌ただしい音。日常の、しかし特別な週末への序章が始まる。
俺は、窓の外に広がる、雲一つない青空を見上げながら、小さく息をついた。安堵と、そして、抑えきれない、微かな高揚感。今日、俺には約束がある。天峰澄香との、初めての、二人きりでの放課後の約束が。
先日の火曜日、勉強会の帰り道で交わした言葉。『たまになら、はみ出してもいいかも』。あの言葉が、俺たちの間に横たわっていた見えない境界線を、少しだけ曖昧にしたのは確かだ。水曜日には、まだぎこちなさが残っていた彼女も、この二日でだいぶ落ち着きを取り戻したように見える。昼休みのグループランチでも、木曜日の勉強会でも、以前のような自然な会話ができていた。友人としての、安定した関係。それはそれで心地よい。
だが、俺の内心は、決して穏やかではなかった。「友達以上」とは、具体的に何を指すのだろうか。「たまになら」の「たま」とは、いつ、どの程度の「はみ出し」を許容するという意味なのか。ぐるぐると、答えの出ない問いが頭の中を巡る。
それでも、今は余計な思考を振り払う。今日の目的は、駅前に新しくできた本屋に、彼女と「一緒に行く」こと。それ以上でも、それ以下でもない。そうだ、あくまで自然に。友人として。
「二宮くん」
不意に、隣から落ち着いた声がかかる。見ると、天峰がすでに鞄を持ち、立ち上がっていた。
「……そろそろ、行こっか」
彼女の声には、以前のような極端な緊張はない。ただ、ほんの少しだけ、いつもより硬いような気もする。あるいは、それは俺自身の緊張が、彼女に伝染しているだけなのかもしれない。
「ああ、そうだな」
俺も素早く荷物をまとめ、席を立つ。教室を出ると、やはり何人かの視線を感じたが、先週ほどあからさまな好奇の色は薄れているように感じた。噂にも、少しは慣れてきたのだろうか。それとも、俺たちの落ち着いたように見える関係性に、周りも興味を失いつつあるのかもしれない。どちらにしろ、好都合だ。
並んで廊下を歩く。自然な流れだ。
「木曜日の勉強会、お疲れ様。天峰の説明、すごくわかりやすかった」
「……そう? なら良かったけど。私も、二宮くんの数学解説、すごく助かってる」
当たり障りのない、しかし互いを認め合う会話。これもまた、「友人」としての自然なやり取りだろう。内心では、もっと踏み込んだ話題――例えば、週末は何をしていたのかとか、好きな音楽はあるのかとか――を振りたい衝動に駆られるが、今はまだそのタイミングではない、と自制する。
下駄箱で靴を履き替え、校門を出る。夕方の、少しだけ傾き始めた日差しが、アスファルトに長い影を落としていた。
「駅前の本屋、行ったことあるか?」
「ううん、初めて。結構大きいって聞いたけど」
「みたいだな。参考書の品揃えもいいらしい」
話題は、自然と目的地のことへ移る。駅までの道のりは、徒歩で十分ほど。その間も、テスト範囲の話や、授業の進み具合など、学業に関する話題が中心だった。これもまた、「友達」らしい会話だ。だが、沈黙が訪れるたびに、俺は意識してしまう。隣を歩く彼女の、肩にかかる髪の揺れ。時折、風に乗ってふわりと香る、清潔なシャンプーの匂い。そして、触れ合いそうで触れない、互いの腕の距離。
(これは、デート、なのか? それとも、ただの友人との寄り道?)
定義が曖昧なまま、関係だけが進んでいく。それは、少しだけ不安でもあった。
やがて、駅前のロータリーに面した、ガラス張りのモダンな建物が見えてきた。真新しい看板には、「BOOK FOREST」と記されている。
「ここか。思ったより大きいな」
「うん。綺麗……」
自動ドアを抜けると、新しい紙の匂いと、微かなコーヒーの香りが混じり合った、独特の空気が俺たちを迎えた。広々とした店内。高い天井。壁一面に並ぶ本棚。その膨大な本の量に、少しだけ圧倒される。
「すごい……」
天峰が、珍しく素直な感嘆の声を漏らした。その、少しだけ子供っぽい反応に、俺は思わず笑みがこぼれる。
「どこから見る? やっぱり参考書コーナーか?」
俺が尋ねると、彼女は少し迷うように店内を見回し、それから言った。
「……先に、小説の棚、見てもいい?」
「ああ、もちろん」
意外な答えだった。彼女が小説を読むイメージは、あまりなかったからだ。いつも合理性を重視し、目標達成のために時間を費やしているように見えた。だが、考えてみれば、俺はまだ、彼女のほんの一部しか知らないのだ。
二人で、文芸書のコーナーへ向かう。話題の新刊、長く読み継がれる名作、海外文学の翻訳。様々なジャンルの本が、整然と並べられている。彼女は、時折足を止め、興味深そうに背表紙を眺めたり、数冊を手に取ってパラパラとページをめくったりしている。その真剣な横顔は、勉強している時とはまた違う、穏やかな集中力を湛えていた。
(どんな本が好きなんだろう……)
彼女の好みを、もっと知りたい。その衝動を抑えきれず、俺は尋ねてみた。
「何か、探してる作家とか、ジャンルはあるのか?」
「ん……別に、これって決めてるわけじゃないんだけど。……強いて言うなら、少し考えさせられるような話が好き、かな。ハッピーエンドじゃなくてもいい」
彼女らしい、少しだけ屈折した、けれど正直な答え。俺は、近くの棚にあった、少し前に話題になった海外ミステリーを手に取った。
「これなんか、どうだ? 読後感は重いけど、人間の心理描写がすごいって評判だった」
「あ……それ、気になってた」
彼女が、俺の手に取った本を見て、小さく声を上げる。偶然の一致。それが、妙に嬉しかった。
「俺も、まだ読んでないんだ。……もし良かったら、今度、感想を教え合わないか?」
これは、「友達の範囲」だろうか? それとも、少しだけ「はみ出して」いるだろうか?
彼女は、一瞬だけ逡巡するような表情を見せたが、すぐに、ふっと微笑んだ。
「……うん。いいよ。面白そう」
その笑顔に、俺の心臓が、また不規則に跳ねる。許可、されたのだろうか。この、ささやかな提案は。
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