第28話 もう、ただの友達ではいられない
自室のドアを閉め、ようやく一人になれたという安堵感と共に、重い息を吐き出した。壁に背中を預け、ずるずると床に座り込む。今日一日、特に放課後の勉強会以降の出来事が、やけに現実味のない、浮ついた記憶として頭の中を駆け巡っていた。
「……何やってるんだか、私は」
自嘲めいた呟きが、静かな部屋に虚しく響く。
勉強会での、あの瞬間。彼の隣で、彼の説明を聞いていた時。不意に漂ってきた、彼の匂い。それに過剰に反応して、固まってしまった、あの無様な姿。
(……あの匂い……)
思い出すだけで、顔に熱が集まるのがわかる。金曜日の雨宿り。彼の家で借りた、あのぶかぶかの赤いフーディ。あの夜、その匂いに包まれて眠ってしまい、そして見てしまった、あの馬鹿げた夢……。
「……ほんと、ありえない」
両手で顔を覆い、羞恥に身悶える。匂いに反応してフリーズなんて、まるで条件反射を起こす動物だ。あの時、彼は、どう思っただろうか。気味悪がられただろうか。それとも、何か別の意味に捉えられただろうか。
桜の声が蘇る。「澄香、顔真っ赤だけど大丈夫?」。沙織の、見透かしたようなフォロー。悠貴くんが、わざとらしく窓を開けたこと。……全部、見られていた。私の動揺も、混乱も、何もかも。
よろよろと立ち上がり、鏡の前に立つ。そこに映っているのは、確かに私のはずなのに、どこか知らない人間のようにも見えた。いつもはもっと、冷めているはずだ。感情を表に出すことなんて、滅多にないはずなのに。今の私は、頬が上気し、瞳は落ち着きなく揺れ、どこか浮足立っているように見える。
(……いつから、こんな風に……)
怜央くん。彼の名前を、心の中で呼んでみる。それだけで、鏡の中の自分の頬が、またじわりと赤みを帯びる。彼の前では、まだ苗字で呼ぶことすら精一杯なのに。
制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替える。身体にまとわりつく制服から解放されると、少しだけ思考がクリアになる気がした。今日の、帰り道の会話。
『……少し、……ほんの少しだけなら……。……はみ出しても、……いい、かなって……思うように、なった……かも、しれない』
なぜ、あんなことを口走ってしまったのだろう。自分でも、信じられない。勉強会の後、彼と二人きりになった、あの廊下で。匂いのことを聞かれて、もう誤魔化しきれない、と思ったから? それとも、彼が「嬉しいかもしれない」なんて言うから、つい……?
確かに、最近、彼に対する感情が、「友達」という言葉だけでは収まりきらなくなっていたのは事実だ。金曜日の雨宿り以降、特に。彼の服を着て感じた、あの奇妙な安心感。彼の部屋で見た、彼の生活の断片。それらを知るたびに、「友達」という定義が、少しずつ曖昧になっていくのを感じていた。
「澄香、ご飯よー」
階下から、母の声が聞こえる。
「……はーい。すぐ行く」
気乗りしない返事をしながらも、立ち上がる。今は、一人で静かに考えを整理したい気分だったが、仕方ない。
(……金曜日、本屋……)
金曜日の放課後、彼と一緒に本屋に行く約束。初めての、二人きりでの、放課後の予定。それを「デート」と呼ぶには、まだ抵抗がある。けれど、ただの寄り道、とも違う気がする。考えるだけで、また心臓が妙な音を立て始める。
彼と並んで歩く。カフェで隣り合って座る。どんな話をすればいい? 何を注文すれば? ……くだらない。そんなことで、いちいち悩むなんて、私らしくない。
「澄香ー! 冷めちゃうわよー!」
再び、母の声。今度こそ、行かなければ。重い足取りでドアを開け、階段を下りる。
リビングに入ると、すでに家族は食卓についていた。父は新聞に目を通し、母は料理を運び、朱里はスマホをいじりながら、私を待っていた。
「あ、お姉ちゃん。今日の『勉強会』、どうだった? 彼氏とは、進展あった?」
席に着く前から、朱里の容赦ない第一声。思わず、足を止め、硬直する。
「……だから、彼氏じゃないって、何回言えばわかるの」
低い声で、睨みつけるように言う。だが、妹は全く怯む様子はない。
「澄香、何かあったの?」
母が、待ってましたとばかりに、興味津々な顔で尋ねてくる。私は、ため息をつきながら席に着いた。
「……別に、何も。ただの勉強会だってば。みんなで、テスト対策しただけ」
「ふーん? みんな、ねぇ……。その中には、もちろん、『彼』もいたわけね?」
母の、楽しそうな揶揄。本当に、この母娘は……。
「……まあ、彼は数学担当だったから」
目を合わせずに、ぶっきらぼうに答える。嘘ではない。けれど、それだけではないことも、自分ではわかっている。
「あら、残念。進展なしかぁ」
母の、わざとらしい落胆の声に、私はもう反論する気力も失せた。
「いただきます」
全員で手を合わせ、食事を始める。幸い、朱里は目の前のハンバーグに夢中になり、それ以上、私を追及してくることはなかった。父も、黙々と食事を進めている。
だが、私の心の中は、まだ騒がしかった。
「友達から」という関係。それは、確かに、私にとって都合の良い、安全な距離感だったはずだ。いきなり恋人になれと言われたら、拒絶して、逃げ出していただろう。けれど、この数週間、彼と過ごす中で、彼の様々な面を知ってしまった。真面目さ、努力家なところ、誠実さ、そして、何よりも、私を特別な存在として見てくれている、その真っ直ぐな眼差し。それらを知るたびに、私の心の中に築いていた壁が、少しずつ、確実に、崩れていっているのを感じていた。
「澄香、なんだか最近、少し雰囲気が変わったんじゃないか?」
食事中、父が唐突に言った。新聞から顔を上げ、じっと私の顔を見ている。
「え? ……そう、かな?」
「ええ、そうよ」と、母がすぐに同意する。
「なんだか、前より表情が柔らかくなったというか……。学校、楽しいのね?」
楽しい? ……そうかもしれない。以前は、ただ目標に向かって突き進むだけの、単調な毎日だった。けれど、今は……明日、学校へ行くことが、ほんの少しだけ、待ち遠しいと感じている自分がいる。彼に、会えるから。
「……別に、普通だけど」
素直に認めるのは癪で、そう答える。
「明日は、何か特別な予定でもあるの?」
母が、探るように尋ねてくる。
「……別に。普通に、授業受けるだけ」
普通の、一日。けれど、その「普通」の中に、彼がいる。隣の席で、授業を受ける。休み時間に、言葉を交わす。それが、以前とは全く違う意味を持つ、「新しい普通」になりつつある。
夕食を終え、皿洗いを手伝ってから、自室に戻る。机に向かい、ノートを開く。木曜日の勉強会で担当する、英語と生物の準備をしなければならない。だが、やはり、なかなか集中できない。
(……彼なら、どう教えるだろう? あんな風に、わかりやすく、丁寧に……)
彼のことを、尊敬している。それは、認めざるを得ない。彼の知識、思考力、そして、物事に対する真摯な姿勢。そこには、憧れに近い感情があるのかもしれない。そして……それだけではない、もっと複雑な感情も。
窓の外を見上げる。煌々と輝く満月が、夜空に浮かんでいる。同じ月を、彼も今、見ているのだろうか。
スマホを取り出し、LINEを開く。勉強会のグループチャット。「木曜もよろしく!」「楽しみにしてる!」といったメッセージが並んでいる。私も、「準備、頑張ります」とだけ、短い返信を送った。本当は、グループではなく、彼個人に送りたい言葉があるような気もする。今日の、お礼とか。あるいは、もっと別の……。だが、まだ、その勇気はなかった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。一ヶ月前。彼は、私にとって、何だっただろうか。ただのクラスメイト。鬱陶しいライバル。それだけだったはずだ。それが、今では、一日中、彼のことを考えてしまう、特別な存在になっている。
「……初恋、とか……。馬鹿みたい」
呟いてみて、その言葉の響きに、自分でも驚く。恋愛なんて、自分には縁のないものだと思っていた。医者になるという夢。そのために、全てを犠牲にしてきたつもりだった。でも、彼は違った。同じ目標を持ちながら、彼は、勉強だけではない、もっと大切な何かを持っているように見えた。温かさ、優しさ、誠実さ。勉強は、もちろん大事だ。けれど、それだけが人生じゃない。彼と関わる中で、そんな当たり前のことに、気づかされ始めているのかもしれない。
「……二宮くん……」
彼の名前を、声に出さずに、そっと呟く。
屋上での告白。雨宿り。彼の服。彼の匂い。そして、今日の帰り道。私が口にした、「少しだけなら、はみ出してもいいかも」という言葉。
後戻りは、もうできない。私の心は、確実に、彼の方へと傾き始めている。守ってきたはずの壁に、彼だけが通れる、小さな扉が、いつの間にかできてしまっていた。
「……明日も、ちゃんとしないと」
自分に言い聞かせるように呟く。勉強会の準備。そして、彼に対する態度。もう、昨日までの私ではいられない。今日の、あのパニックを起こしたような反応は、もう繰り返したくない。もう少し、冷静に。自然に。「友達」として。でも、ほんの少しだけ、特別な「友達」として。
スマホのアラームをセットし、明日の準備を確認する。最後に、もう一度だけ、窓の外の月を見上げた。同じ月の下で、彼は、何を思っているのだろうか。今日の、私のあの反応を、どう受け止めたのだろうか。そして……私のことを、考えてくれているのだろうか。その可能性を考えると、また顔が熱くなる。……本当に、厄介だ。
「……おやすみ、……二宮くん」
誰に聞かせるでもなく、小さな声で呟く。
静かな夜。私の心の中では、まだ嵐が吹き荒れている。勉強も、夢も、そして……彼との関係も。すべてが、これからどうなっていくのか、全くわからない。
けれど、一つだけ確かなこと。もう、私は、以前の私ではいられない。
彼のペース、そして、私のペース。それを大切にしながら、この、まだ名前のない関係を、少しずつ、育てていくしかないのだろう。
そんな、漠然とした決意のようなものを胸に、私は、ゆっくりと目を閉じた。窓から差し込む月光が、部屋を静かに照らしていた。明日という日が、また、新しい変化をもたらすことを予感しながら。
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