表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/50

第27話 静かな部屋、満ちる想い

 マンションのドアを閉めると、しんとした静寂が俺を包み込んだ。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、一人暮らしの部屋の、慣れたはずの静けさが、今日はなぜか少しだけ物足りなく感じられる。


「……ただいま」


 返事のない空間に向かって、それでも自然と口をついて出た言葉。その響きに、自分でも小さく苦笑する。誰もいない部屋に「ただいま」とは。……だが、胸の内には、抑えきれない温かい感情が満ちていた。今日という日が、俺にとってどれほど大きな意味を持っていたか。


 玄関に鞄を置き、靴を脱ぎながら、深く息をつく。全身の力が、安堵と共に抜けていくようだ。


(……天峰……)


 彼女の名前を、心の中で呼んでみる。それだけで、身体の芯が微かに震えるような感覚。今日の勉強会での、彼女の反応。俺の匂いに動揺し、顔を真っ赤にした姿。そして、帰り道で彼女が口にした、あの言葉。


『だから……。「友達」の線、……少しだけ、……超えても……いいかなって……。……たまになら』


 その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。「たまになら」という、いかにも彼女らしい予防線付きではあったが、それは紛れもなく、俺たちの関係が新しいフェーズに入ったことを示す合図だった。彼女が、自らその可能性に言及してくれた。その事実が、何よりも重い。


『あなたの匂いがするから、なんだか守られてるみたいで……』


 帰り際に漏らした、彼女のその言葉も忘れられない。俺の存在が、彼女に安心感を与えている。その事実が、俺自身の存在意義を、肯定してくれるように感じられた。


 リビングへ入り、窓辺に立つ。夕暮れの街が、深いオレンジ色の光に染まっている。家々の窓に、温かい灯りがぽつぽつと灯り始める。いつも見ているはずの、ありふれた光景。それが、今日はなぜか、特別な輝きを放っているように見えた。


 部屋の照明をつけ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に喉に流し込む。冷たい液体が、火照った身体に心地よい。ソファに深く身を沈めると、今日の出来事が、まるでスローモーションのように、脳裏に鮮やかに蘇ってきた。


 彼女は、俺を意識している。それは、もう疑いようがない。そして、その意識は、単なる混乱や戸惑いだけではなく、もっとポジティブな感情を含み始めているのかもしれない。「友達」という、俺自身が設定した枠組み。それが、今、少しずつ意味を変え、彼女自身の意思によって、その境界線が揺らぎ始めている。


 キッチンに立ち、簡単な夕食の準備を始める。…といっても、今は何か手の込んだものを作る気力も、そして時間も惜しい。棚からカップ麺を取り出し、湯を沸かす。高揚感と、それに伴う軽い疲労感で、身体が妙にふわふわしている。


 中学時代の競泳の試合前。あの時の、アドレナリンが全身を駆け巡るような感覚に少し似ているかもしれない。だが、これは全く異質のものだ。目標に向かって努力し、一歩ずつ前進していく達成感。それは同じだが、競泳と決定的に違うのは、相手がいること。それも、「天峰澄香」という、俺にとって唯一無二の存在の、「心」という、最も複雑で、予測不可能な変数が存在することだ。


 彼女の「たまになら、はみ出してもいいかも」という言葉。それは、彼女自身の意思の変化があってこそ、だ。俺が計画的にアプローチしてきた結果ではあるが、それだけではない。俺たちが共有してきた時間の中で、彼女の中にも、確かに、「特別な感情」が芽生え始めている。その事実が、何よりも俺を勇気づける。


 しかし、油断は禁物だ。「たまになら」という言葉の重みを、軽く見てはいけない。彼女はまだ、自分の感情に戸惑っているはずだ。ここで焦って距離を詰めすぎれば、彼女はまた、硬い殻の中に閉じこもってしまうかもしれない。慎重に、彼女の反応を見ながら、進む必要がある。


 カップ麺に湯を注ぎ、三分待つ。普段なら味気なく感じるはずのこの時間が、今日はなぜか、ひどく穏やかに感じられた。


 テーブルにつき、スマホを開く。LINEのグループチャットには、今日の勉強会に関するメッセージがいくつか投稿されていた。百合川さんが撮ったのだろう、五人が笑顔で写っている写真。その中にいる、天峰の、いつもより少しだけ柔らかい笑顔が、俺の目を引いた。


「……明日も、会えるんだな」


 そう思うだけで、胸の奥が温かくなる。明日は、彼女はどんな表情を見せてくれるだろうか。今日の気まずさは、もう完全に消えているだろうか。そして、「友達の範囲」を、ほんの少しだけ、超えるような瞬間は訪れるだろうか。


 夕食を済ませ、シャワーを浴びる。温かい湯が、今日の興奮と疲労をゆっくりと溶かしていく。湯船に浸かりながら、木曜日の放課後の「本屋デート」のことを考える。どんな話をしようか。彼女は、どんな本に興味があるのだろうか。カフェでは、何を飲むだろうか……。他愛のない想像が、次から次へと浮かんでは消える。これはもう、立派な「デート」と言ってもいいのではないか? いや、まだ早いか。


 鏡に映る自分の顔。普段と何も変わらないはずなのに、どこか違って見える。目の奥に、以前にはなかった種類の光が宿っているような気がする。これが、「恋をしている」ということなのだろうか。だとしたら、存外、悪くないものだ。


 部屋に戻り、明日の準備を始める。教科書、ノート、制服、充電器。いつものルーティン。だが、その一つ一つの動作に、明日への期待が込められている。


 木曜日の勉強会。次は、天峰が教える番だ。英語と生物。彼女が、どんな風に説明するのか。真剣な表情で、ホワイトボードに向かう姿を想像するだけで、胸が高鳴る。彼女の得意な分野について、もっと深く知りたい。彼女自身の言葉で、語られるのを、聞きたい。そして、その時、俺はどんな顔で彼女を見つめているのだろう。


 窓の外を見上げると、雲の切れ間から、丸い月が静かに顔を覗かせていた。澄んだ、優しい光。同じ月を、今、彼女も見上げているだろうか。


 LINEグループを開く。「今日の数学、めっちゃ分かりやすかった! ありがとう、二宮先生!」という百合川さんのメッセージに、天峰が「うん、私も助かった。木曜、頑張る」と返信している。その短い言葉に、彼女らしい真面目さと、少しだけ、前向きな変化が感じられるような気がした。


 時計の針は、もうすぐ日付が変わろうとしている。明日に備えて、眠らなければならない。だが、興奮がなかなか冷めやらず、思考ばかりが空回りしている。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。自分自身の変化に、改めて驚きを感じずにはいられない。以前の俺なら、恋愛ごときで、こんなにも感情を揺さぶられることなど、考えられなかっただろう。勉強、競泳、目標達成。それこそが、俺の世界の全てだったはずだ。だが、今は違う。彼女の笑顔。彼女の声。彼女との、何気ない会話。その一つ一つが、俺にとって、かけがえのない宝物になっている。


 俺たちの関係は、まだ「友達」という枠の中にある。それは変わらない。けれど、今日、彼女がくれた「たまになら、はみ出してもいい」という、小さな許可証。それは、その枠を、少しずつ、けれど確実に、広げていくための、大切な鍵になるはずだ。


 焦らない。彼女のペースを尊重する。一歩ずつ、着実に、距離を縮めていく。


 窓から差し込む月明かりに、無意識のうちに、願いを込める。いつか、彼女が、俺のこの気持ちを、全て受け入れてくれる日が来ますように、と。


 目を閉じると、ようやく穏やかな眠気が訪れてきた。明日、また彼女に会える。その事実だけで、心は満たされている。


「……おやすみ、天峰」


 彼女の苗字を、そっと呟く。いつか、自然に名前で呼び合える日が来ることを願いながら。そして、俺は、静かな眠りへと落ちていった。


 ゴールデンウィーク明けの屋上から始まった、俺たちの物語。それは、ゆっくりと、だが確実に、新しい章へと進み始めていた。彼女をもっと知りたい。俺をもっと知ってほしい。そして、いつか――。


 その願いを胸に抱きながら。窓の外では、満月が、俺たちの未来を、静かに、優しく照らしていた。

評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ