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第25話 勉強会の穏やかな時間

「……澄香? 顔、真っ赤だけど、大丈夫?」


 突然、百合川の心配そうな声が飛んできた。どうやら、ついに気づかれたらしい。


「え? あ、う、うん! ちょっと、暑いだけだから……!」


 天峰は、明らかに動揺しながら、しどろもどろに言い訳をする。五月だというのに「暑い」はないだろう。だが、誰もその嘘を指摘しようとはしなかった。


「そういえば、この部屋、少し換気が悪いのかしらね」


 沙織が、すかさず、そして完璧なタイミングでフォローを入れる。さすがだ。状況を瞬時に理解したのだろう。


「窓、開けましょうか?」


 悠貴が立ち上がり、窓を開け放つ。初夏の、少しだけ湿り気を帯びた風が、会議室に流れ込み、テーブルの上のプリントを、ぱらぱらと小さく揺らした。


「……ありがとう」


 天峰が、小さな声で呟いた。それは、悠貴に向けられたものなのか、それとも、この場にいる全員に向けられたものなのか、判別はつかなかった。


「……じゃあ、気を取り直して、続きをやるか」


 俺は、できるだけ平静を装い、話題を元に戻した。彼女をこれ以上、追い詰めるわけにはいかない。先ほどの彼女の言葉――「いい匂い」「集中できない」――は、俺の頭の中で反芻されていたが、今はそれを考える時ではない。


「……うん」


 天峰は、ようやく顔を上げ、ノートに視線を戻した。頬の赤みは、まだ完全には消えていないが、少しずつ、落ち着きを取り戻し始めているように見えた。


 俺は、今度は、彼女との間に適切な距離を保つことを意識しながら、再び説明を始めた。少し離れた位置から、指で問題箇所を示しながら。


「……で、この部分の式変形だが……」


 説明を続けるうちに、彼女は徐々に集中力を取り戻していった。時折、小さく頷きながら、ノートにペンを走らせている。その姿に、俺は安堵感を覚えた。


「……そっか。……うん、わかった。……ありがとう」


 説明が終わると、天峰は、少しだけはにかむように、だがはっきりと微笑んだ。その表情には、照れと、そして純粋な感謝の気持ちが表れていた。俺も、自然と笑みを返す。彼女が俺を意識しているのは間違いない。だが、その理由が何であれ、今はこの勉強会を成功させることが先決だ。


「もし、まだ分からないところがあれば、いつでも聞いてくれ」


「……うん。……ありがとう」


 天峰は、少しだけ落ち着きを取り戻した様子で頷き、再び問題集へと向き合った。


 その後、勉強会は和やかに進んだ。俺は、テーブルを回りながら、他のメンバーからの質問にも答えていく。悠貴の苦手な単元を重点的に解説し、百合川さんの基本的な疑問にも丁寧に答えた。時折、天峰の方へ視線を送ると、彼女は真剣な表情で問題に取り組んでいた。そして、目が合うと、ほんの少しだけ、視線をすぐに逸らすものの、嫌そうな顔はしていない。その変化が、俺には大きな進歩のように感じられた。


 途中で設けた休憩時間には、沙織が用意してくれたお菓子を囲み、雑談に花が咲いた。スナック菓子やクッキーをつまみながら、ペットボトルのお茶やジュースを飲む。まるで、放課後の秘密の集まりのような、和やかで、心地よい時間。悠貴がくだらない冗談を言って場を盛り上げ、百合川さんが学校での出来事をマシンガンのように話し、沙織がそれを穏やかに受け止める。俺も、普段よりもリラックスして、その輪の中に溶け込んでいるのを感じた。


「ねぇ、澄香、この英語の長文の解釈、どう思う?」


 百合川さんが質問すると、天峰は、少し考えた後、的確なアドバイスを返していた。その、冷静で論理的な解説は、さすがだった。だが、その口調は、以前のような刺々しさはなく、どこか柔らかさを帯びているように感じられた。


「怜央の説明って、本当にわかりやすいわよね」


 沙織が、俺に向かって微笑みながら言った。


「数学の根本的なところから教えてくれるから、ただ覚えるんじゃなくて、ちゃんと理解できる感じがする」


 その言葉は、素直に嬉しかった。少し照れくさかったが。


「そうそう! 怜央先生、マジ神!」


 悠貴が、大げさに囃し立てる。皆が、それに合わせて軽く笑った。


「ほんとほんと! 二宮くんみたいな先生だったら、数学、絶対好きになってたのになー!」


 百合川さんの言葉に、天峰が、また、ちらりとこちらに視線を送ってきた。その表情には、やはり、照れと、ほんの少しの共感が混じっているように見える。


「……それほどでもない」


 謙遜しながらも、彼女の視線をしっかりと受け止める。その、ほんの一瞬の視線の交錯が、俺たちの間の距離を、また少しだけ縮めたような気がした。


「でも、澄香の英語の発音、すごく綺麗よね。帰国子女みたい」


 沙織が天峰を褒めると、彼女は「そんなことないよ」と、やはり照れたように微笑んだ。


「沙織だって、古典の読解、すごくわかりやすいじゃない」


 天峰が沙織に返す。互いを認め合い、尊重し合う。そんな、温かい空気が、この空間を満たしていた。


「いーなー、みんな得意なものがあって。私なんて……」


 百合川さんが、しょんぼりと肩を落とす。


「何言ってんだよ、桜。お前は、社会科系は完璧だろ? それに、この場のムードメーカーじゃん。お前がいなかったら、こんなに楽しくないって」


 悠貴が、彼女の肩をポンと叩いて励ます。


「えー、そんなこと言っても、何も出ないよー?」


 百合川さんが、照れながらはにかむ。その様子に、また皆が笑顔になる。


 この、和やかで、心地よい時間。俺は、改めて思った。この勉強会は、単なるテスト対策ではない。友情を育み、互いを理解し合うための、かけがえのない機会なのだと。グループランチから始まったこの関係が、こんなにも自然に発展してきたことが、素直に嬉しかった。


 そして、天峰との関係。それは、確実に、変化している。今日の、あの反応。彼女が俺を意識しているのは明らかだ。だが、それがどういう感情から来るものなのか、まだ確信は持てない。それでも、彼女の心が動いているのは確かだ。


 休憩が終わり、再び勉強に集中する。俺は悠貴の質問に答えながらも、意識の片隅では、常に天峰の存在を感じていた。彼女は、どんな問題を解いているのだろう。困ってはいないだろうか。もっと、何か、俺にできることはないだろうか。彼女の、真剣な横顔を、遠くから見つめているだけで、心が満たされるような、そんな感覚があった。


 不意に、天峰が小さく手を挙げた。


「……ごめん、また質問、いい?」


「ああ、もちろんだ」


 今度は、先ほどの経験を活かし、意識的に、少しだけ距離を取って彼女の隣に立つ。問題集を覗き込むと、先ほどよりもさらに複雑な数式が並んでいた。


「ここは、少し工夫が必要だな。まず、この部分を……」


 説明しながら、自分のノートに補助線を引くように、指で流れを示す。彼女の呼吸が聞こえる距離。だが、お互いに、その距離感を保とうとしているのがわかった。それでも、彼女の存在を、その体温を、すぐそばに感じずにはいられない。


「……なるほど……」


 天峰が、理解したように小さく頷く。集中している彼女の横顔は、やはり、どこか人を惹きつける力がある。長い睫毛が伏せられ、時折、瞬きをする。その度に、琥珀色の瞳が、知的な光を放つ。見惚れてしまいそうになるのを、必死で堪える。


「次に、この定理を使うと……」


 俺の説明に合わせて、彼女は自分のノートにメモを取っていく。時折、「それで、この場合は?」と、的確な質問を挟んでくる。その積極性が、俺には嬉しかった。単なる一方的な講義ではなく、共に問題を解決していくような、そんな共同作業が、そこにはあった。



「……わかった。ありがとう」



 最後まで説明し終えると、天峰の顔が、達成感と安堵感で明るく輝いた。その表情に、俺もまた、大きな満足感を覚えた。



「このレベルの問題をさくっと理解できるんだ。天峰なら、どんな難問でも、きっと解けるようになる」



「……うん。……頑張る」


 そう言って微笑む彼女の表情に、胸が、また温かくなった。


 時間は、穏やかに、そして確実に過ぎていった。窓の外の光は、いつの間にかオレンジ色から深い茜色へと変わり始めていた。


「……そろそろ、時間かな」


 沙織が、壁の時計を見上げて言った。確かに、予定していた二時間は、あっという間に過ぎ去ろうとしていた。


「えー、もう終わり? 早いなぁ」


 悠貴が、名残惜しそうに伸びをする。


「次回は、木曜日ね!」


 百合川さんが、確認するように言う。


「次は、澄香の英語と生物、楽しみにしてるね!」


 その言葉に、天峰は、少しだけ気恥ずかしそうに、しかし力強く頷いた。


「……うん。頑張って、準備しておく」


「いや、天峰なら、きっと素晴らしい解説をしてくれるはずだ」


 俺は、心からの信頼を込めて言った。


「天峰の説明は、いつも論理的で、ポイントが明確だからな。俺も、楽しみにしている」


 その言葉に、彼女は、真っ直ぐに俺の目を見た。わずかに口を開きかけたが、結局何も言わず、すぐに視線を逸らしてしまった。


「……ありがとう。……期待に応えられるように、頑張る」


 小さな、けれど、確かな決意が込められた声だった。


「じゃあ、今日はここまで、ということで。皆さん、お疲れ様でした」


 沙織の号令で、全員が立ち上がる。教科書やノートを鞄にしまい、椅子を元の位置に戻す。お菓子の袋をまとめ、机の上を綺麗に拭く。皆で協力して、後片付けをする。その、何気ない共同作業が、また心地よかった。

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