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第24話 近づく距離、止まる時間

 放課後の会議室。西日が差し込み、テーブルの上に広げられたノートや参考書を、淡いオレンジ色に染めていた。今日が、中間テスト対策として始めた勉強会の初日だ。担当は俺で、主に数学の解説役を担っている。


「……で、この問題なんだけど。解説読んでも、いまいちピンとこなくて……もう一回、考え方から教えてもらえる?」


 百合川が、困ったような、しかし真剣な表情で問題集の一点を指差した。窓からの光が、彼女の少し茶色がかった髪を透かし、キラキラと輝かせている。


「ああ、構わない」


 俺は、自分の椅子を少し引き、彼女の問題集を覗き込む。確かに、少し捻った応用問題だ。だが、基本的な考え方を理解していれば、解けない問題ではないはずだ。


「公式を丸暗記するんじゃなくて、なぜその式変形が必要なのか、その意味を理解するのが重要だ。この場合だと……」


 指で数式を追いながら、ポイントを丁寧に解説していく。百合川さんは、真剣な眼差しで、俺の説明に耳を傾けている。数学は苦手だと本人は言っていたが、理解しようとする意欲は高い。きっと、すぐにコツを掴むだろう。


「……なるほど! そういうことか! やっと繋がった!」


 説明を終えると、百合川の顔が、ぱっと明るくなった。理解の瞬間が訪れたようだ。誰かに教えることで、その相手の理解が深まる瞬間に立ち会えるのは、思った以上に達成感がある。同時に、人に説明することで、自分自身の理解も整理され、より深まるのを感じた。


 ふと、視線を巡らせる。悠貴は、相変わらず難しい顔で問題用紙と睨めっこしている。彼は得意不得意がはっきりしているタイプで、苦手な単元にはとことん苦戦するようだ。時折、唸り声を上げたり、頭を抱えたりしているのが、少しだけ面白い。テーブルの向かい側では、沙織が静かにペンを走らせている。彼女は元々優秀なので、特に困っている様子はない。むしろ、時折、百合川さんにヒントを出したり、優しくアドバイスを送ったりしている。彼女の持つ、穏やかで包容力のある雰囲気は、この勉強会の空気を和ませるのに一役買っている。


 そして――俺の隣。天峰が座っていた。


 昨日の、あの異常なまでのぎこちなさは、どうやらすっかり影を潜めたようだ。今日の彼女は、いつものクールさを取り戻し、落ち着いて問題に取り組んでいるように見える。昼休みも、以前のように自然な会話ができた。目が合っても、すぐに逸らされることもなかった。その変化に、俺は内心、深く安堵していた。金曜日の雨宿りの一件で、俺が何か取り返しのつかない失敗をしてしまったのではないかと、週末の間、ずっと気がかりだったのだ。


 彼女は、真剣な表情で参考書を読み込んでいる。長い睫毛が落とす微かな影。ペンを握る、白く細い指先。集中している時に、無意識に、ほんの少しだけ唇を尖らせる癖。その一つ一つの仕草が、俺の網膜に焼き付いて離れない。彼女が髪を耳にかける瞬間、頬杖をついて思考に耽る姿、時折、考えを巡らせるようにペンをくるりと回す癖。それら全てが、俺の中で、特別な意味を帯び始めていた。


「……ねぇ」


 不意に、彼女が顔を上げ、俺を呼んだ。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。昨日までの、あの怯えたような、あるいは戸惑ったような色はない。しっかりとした、意志のある眼差しだ。


「この問題なんだけど……少し、教えてほしい」


 少しだけ、ほんの少しだけ、照れたような表情で、彼女は問題集の一箇所を指差した。その、僅かな表情の変化に、俺の心臓が、また小さく跳ねる。


「ああ、もちろんだ」


 俺は、椅子を、意識的に、しかし自然に見えるように、少しだけ彼女の方へと動かした。教えるためには、近づく必要がある。その事実に、妙な緊張感を覚えながらも、平静を装う。


「どこで、引っかかっている?」


 彼女が指差したのは、やはり応用問題だった。基本は完璧に理解している彼女だが、少し複雑になると、途端に迷いが生じるのかもしれない。


「ここまでは、たぶん合ってると思うんだけど……この先の、式の変形の仕方が、よくわからなくて……」


 彼女の声は、いつもより少しだけ、小さい。けれど、その声に含まれる真剣さは、疑いようもなかった。


「なるほど。ここは、まず、この部分に着目して……」


 説明を始めながら、俺は自分のノートに、解法のステップを書き出していく。


「……こういう風に、式を整理することができる。そうすると……」


 彼女のノートと俺のノートが、すぐ隣り合わせになる。互いの手が触れ合いそうな距離。その近さに、意識が持っていかれそうになる。彼女の、シャンプーなのか、それとも彼女自身のものなのか、微かに漂う、清潔で甘い香りが、思考を鈍らせる。


 彼女は、こくりと頷きながら、熱心に俺の説明を聞き、時折、小さく「……ああ、そうか」と呟いている。その、理解が深まっていく瞬間の声が、なぜか俺の耳にはひどく……魅惑的に響いた。


「……で、ここからがポイントなんだが……」


 俺は、彼女の問題集に手を伸ばし、重要な箇所を指で示そうと、少しだけ身を乗り出した。その、瞬間だった。


「……っ!」


 彼女の身体が、びくり、と硬直したのがわかった。

 呼吸が、一瞬、止まったように見えた。そして、白い頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。


「……天峰?」


 彼女は、まるで時間が止まったかのように、固まっていた。大きく見開かれた瞳が、どこか一点を見つめている。唇が、微かに震えている。息をするのすら、忘れているのではないかと思うほどに。


「…………あ」


 やがて、彼女が、か細い息を漏らした。まるで、長い夢から覚めたかのように、ゆっくりと瞬きをする。


「……ごめん。……なんでも、ない」


 言葉とは裏腹に、彼女の声は明らかに動揺していた。一体、どうしたというんだ? 昨日は落ち着いたように見えたのに、また振り出しに戻ってしまったのか?


 ちらりと周囲の様子を窺う。幸い、他の三人はそれぞれの課題に集中しており、俺たちの間のこの奇妙な空気には気づいていないようだ。悠貴は唸り声を上げ、百合川さんはノートに何かを書き込み、沙織は静かに参考書をめくっている。まるで、俺たち二人だけが、別の空間に取り残されたかのようだ。


「……大丈夫か?」


 声を潜めて尋ねると、彼女は、慌てたように、ぶんぶんと首を横に振った。


「う、うん。平気だから。……ちょっと、集中、切れただけ。……続き、お願い」


 ぎこちない笑顔。だが、その頬の赤みは、全く引いていない。明らかに、何か理由があるはずだ。だが、それをここで問いただすのは、得策ではないだろう。


「……あのさ」


 彼女は、視線を落としたまま、小さな、消え入りそうな声で続けた。


「……もうちょっと、……離れて、くれる?」


 その言葉に、俺は即座に反応し、椅子を引いた。彼女に不快感を与えてしまったのかもしれない。それだけは、絶対に避けたかった。


「……すまない。少し、近すぎたか」


「いや、そうじゃ、なくて……」


 彼女の頬の赤みは、さらに増しているように見える。


「……その……匂い、が……」


 匂い? 俺は、反射的に自分の服の袖口を嗅いだ。朝、シャワーは浴びたはずだ。制汗剤も使った。何か、不快な匂いがするのだろうか?


「……変な匂いがしたか?」


 不安になって尋ねると、彼女は、また慌てて首を横に振った。


「ち、違う! 変とかじゃなくて……むしろ、……その、……いい、匂い、で……」


 その、予想外の言葉に、今度は俺の方が言葉を失った。いい匂い? 俺の?


「……でも、それが……なんていうか……その……集中、できない、から……」


 彼女の声は、もうほとんど聞き取れないほど小さくなっていた。顔は完全に俯き、耳まで真っ赤に染まっている。まるで、熱でもあるかのようだ。


「あ……」


 その時、金曜日の記憶が、鮮明に蘇った。彼女が、俺の家でシャワーを浴び、俺のフーディとハーフパンツを着ていたこと。そして、昨日、洗濯されたそれらの服を、彼女が返してくれたこと。


(……まさか)


 彼女は、あの時、俺の服に残っていた匂いを……? そして、今、俺自身の匂いに、それを重ね合わせて……?

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