第22話 意識しすぎて、壊れそう
二宮くんから逃げるように、ほとんど駆け出す勢いで教室を飛び出した私を、廊下で待ち構えていたのは、能天気な救世主、百合川桜だった。
「澄香ー! お昼! 行こー!」
その、いつも通りの、脳天気としか言いようのない声が、今はまるで天からの助け舟のように聞こえた。背後からの、あの男の問いかけるような視線から逃れるように、私は早足で桜のもとへ向かった。
「……うん。……助かった、かも」
「え? 何が? ていうか澄香、顔真っ赤じゃん! 大丈夫!?」
桜の、何の悪意もない、ただ純粋な指摘。それに、私は思わず舌打ちしそうになるのを堪え、無理やり平静を装って頬に手を当てた。……熱い。最悪だ。
「……別に。ちょっと、教室が蒸してただけ」
「ふーん? でも、廊下も結構暑いけどね?」
桜は、きょとんとした顔で首を傾げている。普段の彼女なら、もっとしつこく食い下がってくるところだが、今日は何か他のことに気を取られているのか、幸いにもそれ以上の追及はなかった。助かった、と思う反面、どこか拍子抜けするような気分でもある。
「あ、沙織ならもう生徒会室で待ってるはずだよ。早く行こ!」
そう言って、桜は軽快な足取りで廊下を歩き始めた。私は、少しだけ遅れて、その背中を追う。すれ違う生徒たちの視線が、いつもより多く、そして長く、私に注がれているような気がした。特に、女子生徒たちの、値踏みするような、あるいは嫉妬の色を帯びたような視線。ひそひそと交わされる囁き声。
(……やっぱり、噂になってる)
その事実に、腹の底からじりじりと不快感が込み上げてくる。くだらない。実にくだらない。他人の事情に、勝手に首を突っ込んで、面白おかしく騒ぎ立てる。そういう連中が、私は心底嫌いだ。その対象に、今、自分がなっているという事実が、耐え難いほど屈辱的だった。足が、鉛のように重くなる。
生徒会室のドアを開けると、沙織が一人、書類の束と格闘していた。
「あら、いらっしゃい、澄香、桜」
沙織は、顔を上げると、いつもの穏やかな、けれど全てを見透かすような笑顔で私たちを迎えた。
「お邪魔しまーす!」
桜が元気よく挨拶する。私も、それに続き、「……お邪魔します」と、かろうじて声を絞り出した。テーブルの上には、すでに沙織の質素なサンドイッチが置かれている。私たちも、その隣に、それぞれの弁当箱を広げた。私の、彩りのない、ただ栄養バランスだけを考えたような弁当。
「……ねえ、澄香。今日、なんか変だよ?」
弁当の蓋を開けながら、桜が、じっと私の顔を覗き込むようにして言った。その目は、獲物を見つけた猫のように、好奇心でギラギラしている。
「……別に、いつも通りだけど」
努めて無表情に、素っ気なく返す。
「うそー。だって、なんかソワソワしてるし、顔もまだ赤いし……。あ! もしかして、例の噂、本当だったりする!?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。「噂」という言葉に、過剰に反応してしまう自分がいる。
「……噂って、何の?」
知らないふりをする。けれど、声がわずかに上ずったのを、自分でも自覚していた。
「だからー、二宮くんと一緒に帰ったって話! 金曜日の!」
一瞬、息が止まる。やっぱり、広まっているのか。どこから? 誰が?
「……あら、そんな噂が立っているの?」
沙織が、少しだけ驚いたような、それでいて、どこか楽しんでいるような表情で、会話に加わってきた。
「そうなのよ! クラスの女子が、めっちゃ盛り上がってた! なんでも、『二宮くんが、天峰さんに傘を差し出してあげて、相合傘で帰ってた』って!」
相合傘……? 馬鹿馬鹿しい。そんなロマンチックな展開、あるわけがないだろう。
「……くだらない」
思わず、吐き捨てるように呟いていた。
「え、じゃあ違うの?」
桜が、意外そうな顔をする。
「……違わない、けど……少し、違う」
言葉に詰まる。どう説明すればいい? あの状況を、どこまで話すべきか?
「澄香?」
沙織の、心配そうな声。その優しい眼差しに、ふと、堰を切ったように、話してしまいたい衝動に駆られた。この二人なら、少なくとも、面白おかしく囃し立てるだけではないはずだ。
「……はぁ。……実は……」
私は、観念して、金曜日の出来事を話し始めた。傘を忘れ、雨に降られ、公園の東屋で雨宿りをしていたこと。そこに、偶然、二宮くんが現れたこと。そして……彼の家に招かれ、シャワーを借り、彼の服を着て、彼の傘を借りて帰ってきたこと。
「えええーーーっ!? に、二宮くんの家に!? しかもシャワーまで借りたの!? それって…お泊まり!?」
桜が、案の定、絶叫した。私は、慌てて彼女の口を塞ごうとする。
「しーっ! 声が大きいってば! あとお泊まりはしてない!」
幸い、生徒会室には他に誰もいない。
「だ、だって! それ、もう完全にデートじゃん! しかも家にまで上がってシャワーって!」
「違う! ただの雨宿りの延長だって言ってるでしょ! 泊まってなんかない!」
必死で弁解するが、声が上ずるのを抑えられない。
「まあまあ、桜、落ち着いて。澄香も」
沙織が、冷静に仲裁に入る。
「でも、澄香……。それは、確かに……普通じゃない、特別な時間だったんじゃないかしら?」
沙織の、静かだが、核心を突く言葉に、私は反論できなかった。特別……。そう、否定できない。あの時間は、間違いなく、私にとって特別なものだった。彼の部屋の空気。彼の匂い。彼が貸してくれた服の感触。そして、彼の、不意に見せる優しさ。思い出すだけで、また顔が熱くなる。
「……あー! だからかー!」
桜が、何かを閃いたように、ポンと手を叩いた。
「だから今日、澄香、二宮くんと全然目、合わせられなかったんだ!」
「えっ!? そ、そんなこと……見てたの!?」
「見てたっていうか、もう学年中で噂になってたよ! 『天峰さん、二宮くんのこと意識しすぎじゃない?』『顔、真っ赤じゃん』『すぐ目そらすの、かわいい』って!」
……最悪だ。そんな風に、見世物にされていたなんて。周りの連中に、私の動揺を、面白おかしく観察されていたなんて。屈辱で、身体が震えそうになる。
「それで、澄香。……実際のところ、どうなの?」
沙織が、真剣な眼差しで、私を見つめてくる。
「どう、って……何が?」
とぼけてみせる。
「決まってるでしょ。怜央のこと。……意識、してるんでしょ?」
単刀直入な問い。逃げ場はない。
……正直に、答えるしかないのか。
「……今日は、朝から、ずっと変だった」
ぽつり、と呟く。
「彼の顔を、まともに見られない。声を聞くだけで、心臓がうるさい。……さっき、手が触れただけで、……逃げ出した」
自分の口から出てくる言葉が、まるで他人事のように聞こえる。
「……あと、彼のフーディ……」
言いかけて、口をつぐむ。あの、恥ずかしい行為のことまで、話す必要はない。
「フーディ?」
桜が、案の定、食いついてくる。
「……金曜に、借りたやつ。……返したんだけど……」
「あー! シャワー借りたときの! うわー、マジか! それって、いわゆる『彼シャツ』的なやつじゃん!」
桜が、一人で勝手に盛り上がっている。
「違うってば! だから、ただ借りただけだって!」
けれど、その「ただ借りただけ」の服が、私の心をどれだけ掻き乱したか。金曜の夜から昨日の夜まで、あの服が私の部屋にあった。何度も、何度も、その襟元に顔を埋め、彼の匂いを吸い込んでしまったことなど、口が裂けても言えない。
「……その、フーディ着て寝たら……変な、夢、見たし……」
言ってしまってから、後悔した。なぜ、こんな余計なことまで……。
「夢!? どんな夢!? ねぇ、教えてよ!」
桜が、目をキラキラさせて迫ってくる。
「な、なんでもない! あんたには関係ないでしょ!」
慌てて弁当のおかずを口に詰め込む。二人の、探るような視線が痛い。
「……なるほどね。……そういう感じの、夢、ね」
沙織の、全てを見透かしたような呟き。その的確すぎる推察に、私はむせ返りそうになる。
彼との、あの甘すぎるキスの夢。鎖骨に残された、幻のキスマーク。……あんな夢を見たなんて、恥ずかしくて死にそうだ。そんな状態で、彼と普通に接することなんて、できるわけがない。
評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。




