第21話 触れた指先、逃げ出した君
ホームルームが始まり、担任の声が教室に響く。だが、俺の意識は、隣の席の彼女に集中していた。天峰は、背筋を伸ばして前を向いているものの、どこか落ち着かない様子で、指先でペンを弄んでいる。いつもの、凛とした、揺るぎない彼女とは、明らかに違う。
何かがあったのは、間違いない。だが、それが何なのか、俺には見当もつかない。そして、この状況で、どう接すればいいのかも。下手に話しかけて、さらに彼女を追い詰めてしまうのは避けたい。だが、このまま、ぎこちない空気の中で過ごすのも、耐え難い。
一時間目の数学の授業が始まった。俺の得意科目だ。いつもなら、余裕を持って授業に臨めるはずなのに、今日は全く集中できない。頭の片隅で、常に隣の彼女の挙動を気にしてしまっている。彼女は、真剣な表情で黒板を見つめ、ノートを取っている。授業態度自体は、いつもと変わらないように見える。だが、よく見ると、ノートを取る姿勢が、わずかに俺から距離を取るように、不自然に傾いている気がした。気のせいだろうか?
二時間目、三時間目。授業が進むにつれて、彼女との間の見えない壁は、ますます厚くなっていくように感じられた。
三時間目が終わり、次の授業への移動時間。俺が教科書を鞄にしまおうとした時、手が滑り、消しゴムが床に転がり落ちた。それを拾おうと身を屈めた瞬間、隣の天峰も、ほぼ同時に同じ動作をした。狭い机の間で、二人の身体が、予期せず接近する。
そして――俺たちの手が、ほんの一瞬、触れ合った。彼女の指先の、柔らかく、少しだけ冷たい感触。
「あっ……!」
彼女が、息を呑むような、小さな悲鳴に近い声を上げた。そして、まるで感電でもしたかのように、勢いよく手を引っ込めた。驚いて顔を上げると、彼女の顔は、信じられないほど真っ赤になっていた。頬だけでなく、首筋まで赤みが広がっているのがわかる。瞳は潤み、動揺を隠しきれていない。
「ご、ごめん……っ」
それだけ言うと、彼女は脱兎のごとく席を立ち、ほとんど走り出すような勢いで教室を出て行ってしまった。その背中は、明らかにパニックを起こしていた。
……これは、一体、どういうことだ?
床に落ちた消しゴムを拾い上げ、呆然と立ち尽くす。周囲のクラスメイトたちの、好奇と訝しみが入り混じった視線が、痛いほどに突き刺さる。これは、単なる「意識しすぎ」というレベルを超えているのではないか? まるで、俺に触れること自体を、極度に恐れているかのような……。嫌われている? いや、それならば、もっと冷たい態度を取るはずだ。あんな風に、顔を真っ赤にして、動揺するだろうか?
続く授業も、当然ながら、全く身が入らなかった。天峰は、休み時間が終わると、何食わぬ顔で教室に戻ってきたが、俺との接触は、徹底的に避けているようだった。目が合いそうになると、瞬時に逸らされる。ノートを取る時も、プリントを受け取る時も、決して俺の領域に触れないように、細心の注意を払っているのがわかった。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、彼女は、弾かれたように席を立った。友人から声がかかったわけでもないのに、鞄を掴み、足早に教室を出て行こうとする。
このまま、何も聞かずに終わらせるわけにはいかない。誤解があるなら解きたいし、もし俺が何かしたのなら、謝罪しなければならない。
「天峰、待ってくれ。少し、話せないか?」
勇気を振り絞り、彼女を呼び止める。心臓が、早鐘のように打っている。
彼女は、ドアの前で足を止め、ゆっくりと振り返った。その表情には、明らかな動揺と、そして、何か言いたげな、複雑な色が浮かんでいた。
「あの、お昼、もし予定がないなら……」
俺が言いかけた、その時だった。
「すみかー! お昼! 行こー!」
廊下から、タイミング良く、百合川の声が響いた。天峰は、その声に、明らかに安堵したような表情を浮かべ、そちらへ駆け寄っていった。
「ご、ごめん! また、後で……!」
小さな声でそれだけ言い残し、彼女は百合川さんと共に、逃げるように廊下の向こうへと消えていった。残されたのは、またしても、行き場のない俺の言葉と、重苦しい疑問だけだった。
(……完全に、避けられたな)
胸が、鈍い痛みを感じる。
「おい、怜央、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
いつの間にか隣に来ていた悠貴が、心配そうに声をかけてきた。
「……ああ、いや……」
「とりあえず、飯行くか? 学食、まだ空いてるだろ」
悠貴の言葉に、力なく頷く。今は、一人で考え込むよりも、誰かと話した方がいいのかもしれない。
学食へ向かう途中、悠貴の「で、結局、天峰さんと何かあったんだろ?」という、核心を突く問いに、俺は観念して、今朝からの出来事を、そして金曜日の雨宿りの一件を、簡潔に説明した。家に招き入れ、シャワーを貸したところまで正直に話した。さすがに服のことまでは言えなかったが。
「へえー、家に? シャワーまで? そりゃ、天峰さんも意識するわな」
悠貴は、意外にも冷静に、俺の話を聞いていた。
「それで、今日のあの態度は……やっぱり、俺のこと、嫌いになった、ってことなのか? 俺、なにかやってしまったか?」
学食のテーブルで、注文したカレーライスを前に、俺は弱音を吐露した。
悠貴は、スプーンでカレーを一口運び、少し考え込むようにしてから、言った。
「……いや、それは、たぶん違うと思うぞ」
「え?」
「むしろ、逆だろ。……めちゃくちゃ、意識してる。それも、かなり、ポジティブな意味で」
「……どういうことだ?」
「だからさ、嫌いな相手に、あんな露骨に動揺したり、顔赤くしたりするか? 普通。あれは、どう考えても、『好き避け』ってやつだろ」
「好き、避け……?」
聞いたことのない言葉だった。
「そう。好意があるからこそ、どう接していいか分からなくて、逆に避けちゃう、みたいな。俺の妹が、昔そんな感じだったぞ。好きな男子の前だと、ガチガチに固まっちゃって、目も合わせられない、みたいな」
悠貴の言葉に、一筋の光明が見えた気がした。確かに、彼女の今日の態度は、「嫌悪」というよりは、「極度の緊張」や「混乱」のように見えた。手が触れただけで、火傷したかのように飛びのくなんて、普通の反応ではない。
「急に距離が縮まりすぎて、自分の気持ちが追いつかなくて、パニクってるだけじゃないか? お前らが『友達から』なんて、回りくどい始め方したから、余計に混乱してるんだろ」
悠貴の指摘は、的を射ているのかもしれない。俺たちの関係は、あの雨の日を境に、確実にステップアップした。その急激な変化に、彼女自身が戸惑っている……。
「……そうか。……そう、かもしれないな」
「だろ? だから、今は下手に動かない方がいい。そっとしておいて、彼女が自分の気持ちを整理するのを待ってやるのが、一番なんじゃないか?」
悠貴の、意外なほど的確なアドバイス。普段のお調子者ぶりからは想像もつかないが、こういう時の彼は、妙に頼りになる。
「……ああ。そうだな。……少し、様子を見てみる」
カレーを口に運びながら、少しだけ、心が軽くなったのを感じた。嫌われているわけではない。むしろ、意識されている。そう思えるだけで、十分だった。
「……あ、でもな、怜央」
悠貴が、何かを思い出したように言った。
「学年の女子の間では、もう『二宮くんの家に天峰さんがお泊まりしたらしい』って噂になってるぞ」
「……はあっ!?」
思わず、スプーンを取り落としそうになる。お、泊まり!? なぜ話がそこまで飛躍する!?
「いや、俺も聞いた時、耳疑ったんだけどさ。『公園で雨宿りしてたら、二宮くんが迎えに来て、そのまま彼の家に連れて行かれて……朝まで一緒だった』みたいな感じで、かなり具体的に広まってる」
「……誰だ、そんなデマ流してるのは……!」
これは、さすがに看過できない。天峰に、これ以上の迷惑がかかるのは避けたい。
「まあ、どっちにしろ、噂の的になってるわけだからな。今日の天峰さんの様子は、そのせいもあるかもな。周りの視線が気になって、お前と距離を取ろうとしてる、とか」
それも、十分に考えられる。真面目で、周りの目を気にする彼女のことだ。根も葉もない噂に、心を痛めているのかもしれない。
昼食を終え、教室に戻る。午後の授業開始前、天峰は友人たちと話していたが、俺が教室に入ると、一瞬だけ視線をこちらに向け、すぐに逸らした。やはり、まだぎこちない。
席に着くと、彼女が、小さな声で、「……さっきは、ごめん。ちょっと、バタバタしてて」と、謝ってきた。その声には、まだ緊張が残っている。
「いや、気にするな」
俺も、できるだけ穏やかに返す。悠貴のアドバイス通り、今はプレッシャーをかけず、普通に接することを心がけよう。
午後の授業中、彼女の態度は、朝よりは少しだけ、落ち着いているように見えた。だが、やはり、俺との間に、見えない壁が存在しているのは確かだった。時折、目が合っても、すぐに逸らされてしまう。
最後の授業が終わり、終礼のチャイムが鳴る。天峰は、誰よりも早く荷物をまとめ、逃げるように教室を出て行った。追いかけるべきか? 一瞬、迷った。だが、今はやめておこう。彼女には、時間が必要なのだろう。それに、俺自身も、少し頭を冷やす必要がある。
(……中間テストも、近いしな)
そう、今は勉強に集中するべき時期だ。彼女との関係を進展させるのは、テストが終わってからでも遅くない。
「……今日は、図書室に寄って帰るか」
独り言を呟き、俺も鞄を手に取った。
放課後の図書室は、テスト期間が近いこともあり、多くの生徒で賑わっていた。いつもの、窓際の席へ向かう。道すがら、無意識に彼女の姿を探してしまう自分がいた。だが、やはり、彼女は来ていなかった。少しだけ、胸に空虚感を覚えながら、俺は自分の席に着き、数学の問題集を開いた。だが、なかなか集中できない。方程式の記号が、彼女の戸惑った表情と重なって見える。
(……好き避け、か)
悠貴の言葉を反芻する。もし、本当にそうだとしたら……。それは、俺にとって、決して悪い状況ではないはずだ。むしろ、大きなチャンスと捉えるべきなのかもしれない。だが、どうすればいい? 下手にアプローチすれば、彼女をさらに追い詰めてしまうかもしれない。かといって、何もしなければ、このまま距離ができてしまう可能性もある。
気づけば、窓の外は夕暮れの色に染まっていた。時計を見ると、二時間近くが経過している。隣の席には、いつの間にか別の生徒が座り、黙々とペンを走らせていた。
(……そろそろ、帰るか)
ノートを閉じ、鞄にしまう。その時、金曜日に返してもらった、洗濯済みのフーディが入った袋が目に入った。丁寧に畳まれたそれに触れると、彼女の不器用な優しさが伝わってくるような気がした。やはり、嫌われているとは思えない。今日の彼女の態度は、やはり、戸惑いと、そして、過剰なまでの自意識から来るものなのだろう。ならば、俺が取るべき行動は一つだ。
(……今は、待とう。彼女が、自分の気持ちと向き合えるまで)
焦る必要はない。俺たちの関係は、まだ始まったばかりなのだから。それに、俺たちには、グループランチや勉強会という、自然に接触できる機会が、計画的に設定されている。
頭の中で、今後の対応策を整理する。無理に距離を詰めようとしない。だが、完全に無視するわけでもない。あくまで自然体で、友達として接する。そして、彼女の反応を注意深く観察し、タイミングを見計らう。
荷物をまとめ、図書室を出る。西日が差し込む廊下を歩きながら、窓の外に広がる校庭を眺める。サッカー部が練習に励んでいる。悠貴も、今頃、汗を流しているのだろう。
下駄箱で靴を履き替え、校門を出る。夕暮れの通学路は、長く伸びた影で覆われていた。
明日は、火曜日。グループランチの日だ。彼女は、どんな顔で現れるだろうか。少しだけ、緊張する。だが、それ以上に、彼女に会えることが、今はただ、待ち遠しかった。屋上での告白から始まった、この厄介で、けれど、かけがえのない感情。それは、日増しに、俺の中で大きく、そして確かなものへと育っている。
(……明日、また一歩、進めるといい)
そう願いながら、俺は、少しだけ軽くなった足取りで、自宅への道を歩き始めた。
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