第20話 週明け、彼女の異変
週末に降り続いた雨は、月曜の朝にはすっかりとその痕跡を消し去っていた。代わりに広がっていたのは、洗い流されたような澄んだ青空。俺は、いつもより少しだけ早い時間に家を出た。
朝の光を浴びてきらめく街路樹の葉。湿り気を帯びつつも爽やかな初夏の風。鳥のさえずり。すべてが、週末の鬱屈とした気分を振り払うかのように、清々しい。だが、俺の胸の内は、その快晴とは裏腹に、どこか落ち着かないでいた。
金曜日の、あの土砂降りの中での出来事。公園の東屋での、天峰との予期せぬ再会。「うちに寄って行くか?」――今思えば、かなり大胆な提案だった。そして、俺の部屋で過ごした、二人きりの時間。あれから、三日が経った。
彼女と、あのような形で二人きりになったのは、もちろん初めてだった。教室や図書室とは全く違う、プライベートな空間。そこで見た彼女の、普段とは違う表情や仕草が、週末の間、何度も頭の中で再生されていた。濡れた髪、俺のぶかぶかの服を着た姿、そして、時折見せる戸惑いや、微かな照れのようなもの。
彼女から送られてきた、「無事に帰りました。傘と服、ありがとう」という、短いが律儀なLINEメッセージ。それに「よかった。また月曜に」と返信して、会話は終わった。もっと何か、気の利いた言葉を返すべきだったか? いや、今はまだ、その段階ではない。焦りは禁物だ。
校門が見えてくる。すでに登校している生徒たちの姿がちらほらと見える。月曜の朝特有の、少しだけ重い空気。俺は、ふと足を止め、思考を巡らせた。
今日は、グループランチの日ではない。つまり、彼女と自然に話せる機会は限られている。授業の合間、昼休み、放課後。隣の席なのだから、挨拶くらいはできるだろう。だが、何を話すべきか? 金曜日のことを、どう切り出すべきか? あるいは、何も触れない方がいいのか?
「お、怜央じゃん! はよ!」
思考を遮るように、背後から能天気な声が飛んできた。振り返ると、悠貴が息を切らしながら走ってくる。いつもより、ずいぶんと早い。
「おはよう。珍しいな、お前がこんな時間に」
「おう! ちょっと提出物があってさ、朝イチで出さないとヤバくてな。お前こそ、早いじゃん。いつもギリギリなのに」
悠貴の屈託のない声に、少しだけ肩の力が抜ける。こういう単純明快な友人の存在は、時に救いになる。
「……まあ、なんとなくな」
特別な理由はない、とだけ答えておく。そして、二人で校門をくぐった。
歩きながら、悠貴が、周囲を窺うように少しだけ声を潜めて言った。
「なあなあ、聞いたぞ。金曜の放課後、天峰さんと一緒に帰ったんだって? しかも、なんか、いい雰囲気だったって噂だぜ?」
思わず、足がもつれそうになる。誰が見ていた? そして、どんな尾ひれがついているんだ? 緊張が、背筋を冷たく駆け上がる。
「……いや、それは違う。雨宿りで、偶然会っただけだ」
嘘ではない。だが、真実の全てでもない。家に招き入れたことまでは、さすがに話せない。「偶然出会って、家に連れ込んで、シャワー浴びさせて、服まで貸した」などと口にすれば、この男の想像力が、どんな方向に暴走するか分からない。
「へぇー? そうなんだ? でも、『相合傘で帰ってた』って話になってるけどな」
「それは完全にデマだ。俺も彼女も、傘は持っていなかった」
事実だけを、冷静に訂正する。だが、「相合傘」という具体的なワードが妙に引っかかる。どこかで、誰かに見られていたのは間違いない。しかし、俺が天峰に傘を貸したのは、マンションを出てからだ。とすると……。まさか、マンションの前で?
「ふーん、まあ、噂なんてそんなもんか。お前ら、目立つからなぁ」
幸い、悠貴はそれ以上、深く追求してこなかった。助かった。朝から、恋愛に関する尋問を受ける心の準備はできていない。
下駄箱で靴を履き替え、階段を上る。廊下で数人のクラスメイトと挨拶を交わす。特に変わった様子はない。だが、何人かの女子生徒が、こちらを見てひそひそと話しているのが、やはり気になる。噂は、確実に広まっているのだろう。天峰は、大丈夫だろうか。詮索好きな連中に、何か嫌なことを言われていなければいいが……。
わずかな不安を抱えながら、教室のドアを開ける。
中は、すでに半分ほどの生徒で埋まっていた。朝の、雑然とした、けれど活気のある空気。プリントを配る係の声、窓際で談笑するグループの笑い声。そして――俺の視線は、吸い寄せられるように、隣の席へと向かった。
天峰は、もう席に着いていた。背筋を伸ばし、参考書か何かを開いて、ペンを走らせている。朝の柔らかな光が、彼女の黒髪を淡く照らし、輪郭を縁取っている。集中しているのか、その横顔は真剣そのものだ。いつもの、クールで、近寄りがたい、天峰澄香の姿。
高鳴る心臓を抑えつけながら、自分の席へと歩み寄る。
「……おはよう、天峰」
できるだけ、いつも通りの、平静な声色で。
彼女は、ペンを走らせる手を止め、一瞬だけ、こちらに視線を向けた。「……おはよう」と、小さな、ほとんど聞き取れないような声で呟いた。そして、次の瞬間には、もう視線を参考書へと戻してしまった。
……え?
予想外の、あまりにも素っ気ない反応に、俺は一瞬、言葉を失った。いつもなら、もう少しだけ、ほんの少しだけ、目を合わせてくれるはずだ。金曜日の一件を経て、むしろ距離は縮まったと思っていたのに。この、あからさまな拒絶にも似た態度は、一体……? 先週までの、グループランチや勉強会での、和やかな雰囲気はどこへ行ったんだ?
困惑しながらも、俺は自分の席に着き、鞄から教科書を取り出した。何か、気に障るようなことをしただろうか? 金曜日の、俺の言動に、何か問題があったのか?
「あ、……あの」
不意に、隣から、小さな声がかかった。見ると、天峰が、わずかに身体を強張らせながら、こちらを見ている。……いや、見ていない。視線は、俺の肩のあたりを彷徨っている。彼女の手が、鞄の中から何かを取り出そうとしている。その指先が、微かに震えているのに、俺は気づいた。そして、彼女が取り出したのは、綺麗に畳まれ、ビニール袋に入れられた、俺のフーディとハーフパンツだった。
「……これ。……ありがとう。……洗濯、しておいたから」
彼女は、顔を俯かせたまま、袋を俺の机の上に、そっと置いた。その頬が、耳まで真っ赤に染まっているのが、横からでもはっきりとわかった。
「あ、ああ……。いや、こちらこそ、すまなかったな。サイズ、合わなかっただろう」
袋を受け取りながら、努めて平静に言う。だが、彼女は、俺の顔を一切見ようとしない。まるで、何か、とてつもなく恥ずかしい秘密を抱えているかのように、固く口を結び、床の一点を見つめている。
「……ううん。……助かった、から」
それだけ言うと、彼女は逃げるように、再び参考書に視線を落としてしまった。
……何かが、おかしい。これは、単なる素っ気なさではない。明らかに、何かを、強く意識している。そして、それを隠そうとしている。金曜日の出来事が、彼女の中で、何か大きな変化を引き起こしたのだろうか? 俺が、何か決定的な間違いを犯してしまったのだろうか?
頭の中で、金曜日の記憶を必死で再生する。シャワー。着替え。飲み物。会話……。フードを直した時の距離感? いや、あれは……。傘を貸したこと? それも、ただの親切のはずだ。俺としては、最大限の敬意を払い、紳士的に接したつもりだったが……。
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