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第2話 始まりの一日

 二宮怜央にとって、あのゴールデンウィークは、人生で最も長く、そして濃密な時間だったかもしれない。


 窓から差し込む新緑の陽光が、部屋の埃をきらきらと照らし出す。机の上には、開かれたまま放置された参考書と、通知が溜まって画面が暗くなったスマートフォン。気づけば、時計の針はもう正午を回っていた。


 集中しようとしても、解説動画の音声は右から左へ抜けていく。ここ数日、勉強も、友人との他愛ない会話も、どこか上の空だった。世界から彩度が失われたみたいに、すべてが遠い出来事のように感じられる。


 原因は、痛いほどわかっている。気づけば、思考の中心にはいつも、隣の席の彼女、天峰澄香がいるのだ。


 机に向かえば、彼女の横顔が浮かぶ。黒板を見つめる真摯な眼差し、ノートをとる滑らかな指の動き、考え事をするときに無意識にペン先で下唇を軽くつつく癖。友人たちと馬鹿話をして笑っていても、ふとした瞬間に彼女の姿を探してしまう。まるで、見えない糸で引かれているように。そのたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、甘くて苦い感覚に襲われる。


 これが、恋というものらしい。俺にとって、初めての。


 自分の中に芽生え、日ごとに膨らんでいくこの感情の扱いに、正直、戸惑いを隠せない。経験のない感覚は、時として呼吸すら浅くさせる。しかも、相手はよりにもよって、あの天峰澄香だ。学年でも一、二を争う美貌を持ち、常に誰かの視線を集めている彼女。今でも週に一度は告白されている、なんて噂も耳にする。そのたびに、焦りと、言いようのない劣等感のようなものが胸をよぎる。恋愛経験もない俺が、釣り合うはずもない、と。


 それでも、彼女と交わす些細なやり取り――朝、通学路で偶然会った時の挨拶、教室での一瞬の視線の交錯、放課後の掃除当番で交わした何気ない会話――その一つひとつが、今はかけがえのない記憶として胸に刻まれている。この気持ちは、単なる憧れや気の迷いではない。そう確信していた。


 これまで何度か告白された経験はあるが、気持ちがない相手と付き合うことは、どうしてもできなかった。「恋愛は誠実であるべきだ」という、ある種の潔癖さにも似た価値観が、俺の中には根強くある。それは、いつも穏やかで仲の良い両親を見て育った影響なのかもしれない。


 だからこそ、今回も、自分の気持ちに嘘はつけない。見栄や一時的な衝動で行動することは、したくなかった。


 いきなり「付き合ってほしい」と告げるのは、あまりに一方的だ。俺のことをよく知りもしないのに、頷けるはずがない。それは彼女の気持ちを無視した、ただの自己満足だ。


 かといって、本心を隠して「友達になりたい」とだけ言うのも、違う気がした。結局のところ、俺は彼女を恋愛対象として見ている。その事実から目を背けて関係を始めても、いずれ歪みが生じるだろう。そんな不誠実な真似は、俺自身が許せないし、何より、彼女に対して失礼だ。


 だから――。

「まず、好きだという気持ちを正直に伝えよう」

 そして、その上で、関係を深めるための提案をする。それが、俺なりの誠意だと思った。この結論に至るまで、ゴールデンウィークの時間はほとんど費やされた。


 何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。告白の言葉、彼女の反応、その後の展開。柄にもなく鏡の前で練習までしてみた。「好きだ」という言葉を発するたびに、耳が熱くなる。本番を想像するだけで、心臓が嫌な音を立て始めた。


 そして、連休明け。決行の日。


 朝から心臓の鼓動が妙に大きく聞こえる。自分がこれほどまでに臆病だったとは、新たな発見だった。いつもより早く家を出たはずなのに、学校までの道のりがやけに長く感じる。見慣れたはずの通学路の景色も、どこか現実味がない。


 ホームルーム直前。まだ連休気分が抜けきらないクラスメイトたちの、どこか緩んだ喧騒が教室を満たしている。そのざわめきが、やけに遠くに聞こえた。


 自分の席へ向かうと、隣の席の彼女がふっと顔を上げた。


「おはよう」


 凛とした、けれど落ち着いた声。その響きに、思わず背筋が伸びる。いつもと同じ挨拶のはずなのに、今日に限ってはやけに鮮明に耳に残った。


「……ああ、おはよう」


 声が上ずっていないか、内心冷や汗をかく。平静を装うのに必死だった。天峰は相変わらず涼しい顔で、俺を真っ直ぐに見ている。朝日に透ける琥珀色の瞳が綺麗で、それだけで心拍数が上がるのを感じた。


 授業中も、ノートをとる手は動かしながら、意識の半分は昼休みのことで占められていた。数式を目で追いながらも、視界の端には常に彼女の存在があった。どうやって誘い出すか。できるだけ自然に、けれど、真剣さが伝わるように。


 そうこうしているうちに、昼休みを告げるチャイムが鳴る。その音が、まるで合図のように心臓を打ち鳴らした。普段ならつるんでいる友人たちと食堂へ向かうところだが、今日はそんな余裕はない。「怜央、食堂行こうぜ」という声が聞こえたが、今はそれに応えることすら億劫だった。


「天峰、ちょっといいか?」


 意を決して、隣の席の彼女に声をかける。昼食のために席を立つ生徒たちのざわめきの中、自分の声だけが妙に浮いて聞こえた気がした。


「……なに?」


 彼女が小さく首を傾げる。その何気ない仕草に、不意にどきりとする。普段のクールさとのギャップに、また心臓が跳ねた。周囲の視線が突き刺さるのを感じる。特に女子たちの好奇心に満ちた目が痛い。だが、ここで退くわけにはいかない。今、躊躇してしまえば、もう二度とこの想いを口にする勇気は出ないかもしれない。


 他の誰にも聞こえないように、少しだけ身を乗り出して、声を潜めた。


「少し……話したいことがあるんだ。屋上まで、来てくれないか」


 何度も練習した台詞のはずなのに、声がわずかに震える。心臓が喉元までせり上がってくるような感覚。


 天峰は、一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それから小さく、けれどはっきりと頷いた。その表情に、戸惑いと、ほんの少しの興味が混じっているように見えたのは、俺の願望だろうか。


 二人で教室を出る背中に、クラスメイトたちの囁き声が追いかけてくる。「え、二宮が天峰さん誘ってる……?」「マジかよ、告白じゃね?」「うわー、どうなるんだろ……」。その一つひとつが、緊張を煽る。


 屋上での出来事は、今でもスローモーションのように思い出せる。五月の爽やかな風。緊張でうまく回らない舌。それでも、言葉を選び、誠実に気持ちを伝えたこと。そして、「まずは友達から」という、自分なりに出した答えを告げたこと。拒絶されるかもしれない恐怖と戦いながら発した言葉に、彼女は、予想外にも「わかった」と応えてくれた。あの瞬間の、全身から力が抜けるような安堵感は、忘れられない。


 教室に戻ると、案の定、突き刺さるような視線が待っていた。先ほどまでの喧騒とは違う、妙な緊張感が漂っている。


「おい、怜央。さっきの、あれ……」


 友人が心配と好奇心の入り混じった顔で近づいてくる。


「ああ、ちょっと中間テストの範囲について相談してただけだよ。もうすぐだろ?」


 努めて普段通りの声色で答える。内心の動揺を悟られないようにするのが、精一杯だった。ちらりと視線を送ると、天峰も何人かの女子に囲まれていたが、いつものクールな表情を崩さず、最小限の言葉で応対しているようだった。そして、すぐに自分の荷物をまとめ始めた。まるで、何事もなかったかのように。


「それじゃ、私、友達と約束してるから」


 そう言って、彼女は一人、教室を出ていく。その背筋の伸びた凛とした姿はいつも通りなのに、なぜか、ほんの少しだけ、纏う空気が柔らかくなったように感じた。去り際に、一瞬だけこちらに向けられた視線。それは、朝の挨拶の時よりも、ずっと穏やかな色をしていた気がした。その視線に、これから始まる何かへの確かな予感を覚える。


「……よし」


 誰に言うでもなく、小さく呟く。そこには、安堵と、決意と、そしてわずかな期待が込められていた。まだ、恋人同士になったわけではない。友達として、これからどう接していけばいいのか、正直、戸惑いの方が多い。どこまで踏み込んでいいのか、どうすればこの距離を縮められるのか。考え出すと不安は尽きない。


 それでも、大きな一歩を踏み出せたのは確かだ。『友達になる』という約束は、俺の想いを受け止めてもらえた証でもある。


 焦らず、一日一日を大切に、彼女のことをもっと知っていこう。そして、いつか、この気持ちが本物だと、胸を張って伝えられる日が来ることを信じて。


「おーい、怜央。やっぱりここにいたか。さっき、天峰さんと一緒に出てったろ? 何かあったのかって、噂になってるぞ」


 悠貴の屈託のない声に、思考の海から引き戻される。


「ああ。ちょっと話してた。屋上で」


 席を立ちながら、先ほどの天峰の背中を思い出す。自然と、口元が緩むのを感じた。


 俺の初恋は、こうして始まったばかりだ。五月の風が、これから始まる日々のページを、静かにめくっていくような気がした。

評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。

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