第19話 家族の心配、母の言葉
リビングのドアを開けると、すでに食卓には家族が揃っていた。父、母、そして、あの厄介な妹、朱里。平日にも関わらず、珍しく全員が揃って夕食を待っている。……嫌な予感がする。
「……おかえり」
テーブルに向かいながら、努めて平静を装い、小さな声で挨拶をする。夢の残滓が、まだ頭の中にこびりついていて、現実感が薄い。平静を保たなければ。いつも通りに。
「ただいま、澄香。ずいぶんぐっすりだったみたいね」
母が、いつもの優しい声で迎えてくれる。だが、その声色に含まれる、ほんのわずかな好奇心を、私は聞き逃さなかった。
「あら?」
案の定、母の視線が、私の服装に注がれる。ぶかぶかのフーディとハーフパンツ。明らかに私のものではない、男物の服。
「その服は……?」
「あ、いや、これは……」
言い訳を考えようとした瞬間、横から甲高い声が割り込んできた。
「彼氏の服だよ! お姉ちゃん、ずーっとこれ着てる!」
「朱里っ!」
思わず、鋭い声が出てしまう。顔に、カッと血が上るのがわかる。この妹は、本当に、人の神経を逆撫でする天才だ。
「彼氏?」
父の、低く、そして重い声。眉間に刻まれた皺が、深い。普段は温厚な父だが、こと娘のこととなると、途端に警戒心が強くなる。医者としての冷静さとは裏腹な、過保護な一面。
「違うってば! だから、彼氏じゃないって言ってるでしょ!」
必死で否定する。両手を大げさに振って、全力で誤解を解こうと試みる。だが、焦れば焦るほど、墓穴を掘っているような気がしてくる。
「友達! ただのクラスメイトの服を、借りただけだってば!」
「へぇー? ふーん?」
朱里は、全く信じる気がないようだ。ニヤニヤと、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、こちらを見ている。本当に、腹立たしい。
家族全員の視線が、私一人に集中している。まるで、法廷に立たされた被告人のような気分だ。居心地が悪すぎる。
「まあまあ、とりあえず座って。ご飯にしましょう」
母が、場を収めるように言った。けれど、その目も、隠しきれない好奇心でキラキラと輝いている。娘の、それも普段はガードの固い長女の色恋沙汰に、興味津々なのが見え見えだ。
渋々、自分の席に着く。いつもの食卓。いつものメニュー。なのに、今日は空気が重く、料理の味もよくわからない。
「いただきます」
形式的な挨拶の後、食事が始まる。だが、誰もが、次の展開を窺っているような、妙な静寂が支配している。箸が食器に当たる音と、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
沈黙を破ったのは、やはり母だった。
「それで、澄香……。どういう経緯で、男の子の服を借りることになったのか、聞かせてもらえるかしら?」
優しい声。穏やかな口調。けれど、その裏にある探求心は隠されていない。詰問ではない。ただ、知りたいのだ。娘の秘密を。
……仕方ない。話すしかないか。私は、一度、箸を置き、小さく息を吸い込んだ。
「……今日、学校の帰りに、急に雨が降ってきて。傘、持ってなくて……ずぶ濡れになって、公園の東屋で雨宿りしてたんだけど……」
あの時の、冷たい雨の感触。心細さ。そして、彼の姿を見つけた時の、驚きと、ほんの少しの安堵。思い出すだけで、また頬が熱くなる。
「そしたら、偶然……クラスメイトが通りかかって。……彼も傘、持ってなくて。でも、彼の家がすぐ近くだったから……」
言葉を選びながら、事実だけを、淡々と話そうと努める。けれど、「彼」という言葉を使うたびに、声がわずかに震えてしまうのを、止められない。
「それで……まあ、シャワーと着替えを、貸してもらった。……それだけ」
「へえー? ほんとーに、それだけー?」
朱里が、またしても、茶々を入れてくる。その、人をからかうためだけに存在するような声に、殺意すら覚える。
「本当に、それだけだってば! しつこい!」
語気を強めて睨みつけるが、妹は全く意に介さない。
この状況で、もしあの夢のことを知られたら……想像するだけで、身の毛がよだつ。
「その子の家に上がった時、親御さんはいらっしゃったのかい?」
父の、静かだが鋭い質問。医者らしい観察眼で、私の反応を窺っている。
「え……あ、それは……」
言葉に詰まる。嘘はつけない。だが、真実を告げれば、父の心配を煽るだけだ。
「……彼は、一人暮らしだから」
慎重に言葉を選び、事実を告げる。その瞬間、父の表情が、わずかに険しくなったのを、私は見逃さなかった。
「……そうか」
父は、それ以上は何も言わず、黙って味噌汁を啜った。だが、その沈黙が、かえって重い。高校生の娘が、男子生徒の一人暮らしの部屋に上がった。その事実を、父がどう受け止めているかは、想像に難くない。
「まあ、大変だったのね。でも、親切な子で良かったじゃない」
母が、努めて明るい声で、場を和ませようとする。
「どんな子なの? そのクラスメイトさん」
その問いに、私は少しだけ考える。二宮怜央。彼は、一体、どんな人間なのか。友達? ライバル? それとも……。
「……別に、普通。……成績は、まあ、いい方だけど。首席で入学して、テストも、今のところ全部、総合一位、らしい」
言いながら、無意識に、フーディの袖口をきつく握りしめていた。この服の持ち主について語る。それが、妙に、特別なことのように感じられた。
「それと……中学までは、競泳をやってたとか。……ジュニアオリンピックにも、出たことがあるって、言ってた」
「ジュニアオリンピック!? すごっ!」
朱里が、素っ頓狂な声を上げる。
「……まあ、本人は『大したことない』って言ってたけど」
彼の、あの妙に謙虚な態度を思い出す。決して驕らず、けれど、確かな実力と自信を持っている。そのアンバランスさが、また、私の心をざわつかせる。
「へえー! 文武両道ってやつ? しかもイケメンなんでしょ!?」
朱里が、興奮気味に畳み掛ける。
「……別に、私はそうは思わないけど」
嘘だ。かっこいい、とは思っている。けれど、それを認めるのは、なんだか癪だった。
「それで、澄香とは、仲がいいの?」
母の、核心に迫る質問。その瞳の奥に、「応援してるわよ」というメッセージが見える気がして、居心地が悪い。
「……二年から、同じクラスで、席が隣になっただけ。……最近は、まあ、グループで、昼に集まったり、勉強を教え合ったり……そういうことは、あるけど」
隣の席。毎日、すぐそばにある、彼の存在。それだけで、心拍数が上がる。
「……付き合ってる、とかでは、ないのね?」
母の確認に、一瞬、言葉に詰まる。付き合ってはいない。それは、事実だ。けれど、心の中では……。
「……違う」
短く、否定する。
「入学以来、学年一位をずっとキープしてるのか。あの学校で、それは並大抵のことじゃないな」
父が、少しだけ感心したように言った。成績に関しては、父も認めるところがあるらしい。
「……医者になるのが目標なんだって。……小さい頃、喘息で苦しんでた時に、助けてくれた先生に憧れて……」
彼の、あの真剣な眼差しを思い出す。自分の夢を語る時の、真っ直ぐな瞳。同じ目標を持つ者として、共感し、そして、少しだけ……尊敬する気持ちもあった。
「あら、医者に……」
母が、優しく相槌を打つ。娘と同じ夢を持つ少年に、親近感を覚えたのかもしれない。
「……それで、その子は、信用できる子なのか?」
父の、低い声。心配の色が濃い。親として、当然の懸念だろう。
「……誠実な、人だと思う」
その言葉だけは、迷いなく、はっきりと答えることができた。
「少なくとも、下心だけで、近づいてくるような……そういうタイプじゃない、と思う」
屋上での告白。「好きだ」という言葉。そして、「友達から」という、あの不器用な提案。それら全てが、彼の誠実さを証明している、と私は思っていた。
「付き合っているわけではないけれど……何か、特別な関係ではあるのね?」
母の、穏やかだが、核心を突く問いかけ。嘘はつけない。けれど、正直に話すのも、ためらわれる。
「……付き合っては、ない。……けど……」
言葉が、濁る。自分でも、この関係をどう定義すればいいのか、わからなかった。
「けど?」
母が、優しく先を促す。
「……『好きだ』とは、……言われた」
静かに、事実だけを告げる。
その瞬間、あの屋上の光景が、鮮明に蘇る。風、太陽の光、彼の真剣な瞳、そして、彼の声。
「えーーっ! やっぱり告白されてたんだ!?」
朱里が、目を爛々と輝かせ、身を乗り出してくる。
「それで!? OKしたの!? 付き合うことにしたの!?」
どう説明すればいい? あの、「友達から」という、奇妙な提案を。
「まさか……断ったのに、しつこくされてるとか、そういうことじゃないのよね?」
母の表情が、一変して険しくなる。父も、鋭い視線を私に向けている。
「違う! そうじゃないってば! 誠実な人だって、さっき言ったでしょ!」
思わず、声が大きくなる。彼が、そんな卑劣な人間ではないことを、必死で伝えたかった。
「……彼は……その……『お互いをよく知らないまま付き合うのは違うと思うから、まずは友達として、お互いを知る時間を作りたい』って……」
その言葉を思い出すだけで、また胸が温かくなる。彼の、不器用なまでの誠実さ。
「……それを、あなたは了承した、と」
母が、静かに確認するように言った。
「……うん」
短い肯定。けれど、その一言に、この二週間の、様々な出来事と、揺れ動く私の感情が、凝縮されていた。
「まあ……変わった子ね。でも、ある意味、とても真面目なのかしら」
母は、少し呆れたように、それでいて、どこか感心したように言った。
「あ、そうだ。あと、沙織の幼馴染なんだって。沙織も、『彼なら大丈夫』って言ってた」
沙織の名前を出す。親友からの保証は、両親を安心させるための、有効なカードになるはずだ。
「あら、沙織ちゃんの……」
母の表情が、少し和らぐ。沙織は、両親も知っている、信頼できる友人だ。
「……ふむ。それならば、人となりは、ある程度信頼できるのかもしれないな。……だが、一度、会って話してみたいものだな」
父が、まだ少しだけ、警戒心を解かずに言った。
「……まあ、機会があれば、ね」
曖昧に答え、私は食事を再開した。二宮くんを両親に紹介する? そんなこと、まだ考えられない。私たちは、まだ、「友達」なのだから。
その後、食事は比較的、穏やかに進んだ。朱里が時折、ニヤニヤしながら視線を送ってくる以外は。
食事が終わり、父は書斎へ、朱里は風呂へと向かった。リビングには、私と母の二人だけが残された。食器をキッチンへ運びながら、母の視線を感じる。
「澄香」
「……なに?」
皿をシンクに置きながら、ぶっきらぼうに答える。
「……あなたは、どうしたいの?」
母の、静かだが、真っ直ぐな問い。手が、止まる。
「友達から、って言っても……いずれは、その先を考えることになるんでしょう? その彼が、あなたをどう思っているかは、もう明らかみたいだし」
……そう、なのだろうか。この関係は、いずれ、「友達」ではいられなくなるのだろうか。
「……わからない」
正直な気持ちだった。彼の気持ちは、たぶん、そうなんだろう。けれど、私自身の気持ちが、まだ定まらない。
「あなたは、どう思ってるの? その子のこと……好き、なの?」
母の問いが、胸に突き刺さる。好き? 私が、彼を?
「……恋愛感情は、ない、……はず。……たぶん」
自分の言葉なのに、確信が持てない。「はず」「たぶん」。そんな曖昧な言葉でしか、自分の気持ちを表現できない。
「最初は、本当に、何とも思ってなかった。でも……最近は、……意識、してるんだと思う」
認めたくないけれど、それが事実だった。
「今日の、雨宿りの時も……彼の家にいる間も……。今、こうして、彼の服を着てる時も……」
言葉にするのが、ひどく恥ずかしい。視線を、床に落とす。
「……なんでか、わからないけど……落ち着かない。……彼の匂いがするだけで、胸が、苦しくなるみたいで……」
言いながら、また、フーディの袖口を、強く握りしめていた。
母は、何も言わずに、そっと私の隣に来て、肩を抱いてくれた。
「……そう。……ゆっくりで、いいんじゃないかしら。焦って結論を出す必要なんて、ないんだから」
母の温かい腕の中で、なぜか、涙が込み上げてきそうになるのを、必死で堪えた。この、ぐちゃぐちゃな感情を、母は、ただ受け止めてくれようとしている。それが、ありがたくて、そして、少しだけ、悔しかった。
「……ふふ。澄香も、もう、そんなことを考える歳になったのね。……私も、年を取るはずだわ」
母は、少しだけ寂しそうに、けれど、優しい声で笑った。
「……まだ、何も、決まってないってば」
照れ隠しに、ぶっきらぼうに言う。けれど、心の中では、何かが大きく変わり始めていることを、もう否定できなかった。
屋上での告白から始まった、この奇妙な関係。グループランチ、勉強会、図書室での時間、そして、今日の雨宿り。一つ一つの出来事が、私の中で、二宮怜央という存在を、少しずつ、けれど確実に、特別なものへと変えていっている。それが「恋」なのかどうか、まだわからない。けれど、もう、「ただのクラスメイト」「ライバル」ではいられない。それだけは、確かだった。
母の腕の中で、私はそっと目を閉じた。週明け、学校で、彼にどんな顔をして会えばいいのだろう。あの夢のことを、思い出さずにいられるだろうか。
不安と、戸惑いと、そして、ほんの少しの……期待。それらが入り混じった、複雑な感情の波に、私はただ、静かに揺られていた。
評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。




