第18話 甘く、切ない夢を見た
けたたましい声で喚く妹をなんとか振り切り、濡れた制服を無心で手洗いし、洗濯機の乾燥モードに放り込む。借り物の、サイズの合わないフーディとハーフパンツを整え直し、ようやく自室へと逃げ込むことができた。
ドアを背中で閉め、鍵をかける。途端に、張り詰めていたものが切れたように、どっと疲労感が押し寄せてきた。壁にずるずると背中を預け、床に座り込む。静寂が、耳に痛いほどだ。
自分の部屋。いつも通りの、散らかった机。読みかけの参考書。ベッドの上に無造作に置かれたクッション。見慣れた風景のはずなのに、何かが決定的に違う。
(……彼の服。彼の、匂い)
その事実に気づくと、また心臓が嫌な音を立て始める。フーディの袖を掴み、鼻先に持っていく。清潔な柔軟剤の香りの奥にある、微かな、けれど確かに存在する、彼自身の匂い。……なんで、こんなものに、心が揺さぶられるんだ。馬鹿みたいだ。
「……なんで、こんな……」
声にならない声が漏れる。公園の東屋。彼の部屋。ソファ。フードを直された時の、あの近すぎる距離。思い出そうとしなくても、勝手に脳裏に焼き付いて離れない。
立ち上がり、姿見の前に立つ。そこに映っているのは、いつもの私ではない、見慣れない誰かだった。ぶかぶかのフーディに埋もれるようにして、顔だけが覗いている。熱でもあるかのように頬が上気し、瞳は妙に潤んでいる。……最悪だ。こんな顔、誰にも見られたくない。
(二週間前までは、ただのクラスメイトだった。気に食わない、ライバルだったはずなのに)
それが今、こうして彼の服を着て、彼の匂いに動揺して、鏡の前で意味不明な赤面をしている。滑稽だ。あまりにも、滑稽すぎる。
ふらふらとベッドに歩み寄り、力なく腰を下ろした。
「……疲れた……」
身体的な疲労よりも、精神的な疲労の方が大きい。雨に濡れたこと、慣れない状況に置かれたこと、そして何より、自分の中に芽生え始めた、この厄介な感情と向き合うことに、ひどく消耗していた。
そのまま、ベッドにごろりと横になる。彼のフーディが、ふわりと身体を包み込む。サイズが大きいせいで、まるで毛布にくるまっているようだ。それが、不覚にも、妙に……安心する。
(……彼の服……)
自嘲するように呟き、思わず自分の身体を抱きしめる。馬鹿げた感傷だ。まるで、彼自身に抱きしめられているみたいだなんて……。そんなセンチメンタルな思考は、私らしくない。
それでも、鼻腔をくすぐる彼の匂いが、思考を鈍らせる。この匂いに包まれて、彼は眠り、目覚め、日常を送っている。その事実が、なぜか胸の奥を締め付ける。
「……二宮くん……」
無意識に、彼の名前を口にしていた。途端に、心臓が大きく跳ねる。
また、やってしまった。指が勝手に、フーディの襟元を掴み、顔を近づけてしまう。深く、息を吸い込む。彼の匂い。落ち着く。けれど、同時に、どうしようもなく心が乱される。
「……はぁ」
熱い息が漏れる。恥ずかしい。軽蔑すべき行為だ。なのに、やめられない。この匂いを、もっと、感じていたいと思ってしまう。
「……まさか、……好き、とか……?」
その言葉が、囁き声となって、部屋の静寂に溶けて消えた。
ありえない。断じて。恋愛感情なんて、私には必要ない。興味があるのは事実だ。彼の真面目さ、努力、誠実さ。それは認める。けれど、それはそれだ。それ以上ではないはずだ。
頭までフードを深く被る。視界が暗くなり、彼の匂いがより強く感じられる。温かくて、柔らかくて、奇妙な安心感。心が、少しずつ、溶かされていくような……甘い、けれど危険な感覚。
「……こんなの、私じゃない……」
冷静な自分が、警鐘を鳴らす。屋上で、あの馬鹿正直な告白を聞いてから、何かが狂い始めた。勉強と、目標と、わずかな友人。それだけで完結していたはずの世界に、彼という異物が侵入してきた。それが、恐ろしくて、鬱陶しくて、けれど……どこかで、無視できない引力を感じてしまっている。
彼の家のソファ。フードを直された時の、あの息が止まるような近さ。彼の腕。彼の匂い。そして、「かわいいな」という、あの最悪な言葉。それらが、断片的に、けれど鮮明に蘇る。そのたびに、心臓が煩わしく脈打つ。
「……だめだ。考えるな……」
そう命令しても、思考は言うことを聞かない。むしろ、逆らおうとすればするほど、彼の存在が色濃くなっていく。
「……なんで、私なんだ……」
問いかけても、答えはない。彼のような人間が、なぜ、私のような捻くれた人間に、興味を持ったのか。いつから? どこを見て? 理解できない。理解したくもない。
天井をぼんやりと見上げる。窓の外では、まだ雨が降り続いているようだ。静かな部屋に、雨音と、自分の呼吸音、そして、早鐘を打つ心臓の音だけが響いている。
彼の匂いに包まれたまま、私はゆっくりと目を閉じた。疲労が、思考を鈍らせていく……。
――どれくらいの時間が経ったのか。うとうとと微睡んでいた意識が、不意に沈んでいく。
気がつくと、私は見知らぬ場所に立っていた。どこか現実離れした、静かで、柔らかな光に満ちた空間。
目の前には、二宮怜央がいた。現実よりも、もっと鮮烈で、もっと近づけないような、そんな存在感を放っている。心臓が、現実と同じように、いや、それ以上に激しく脈打っている。
彼は、すぐ目の前にいる。手を伸ばせば、触れられる距離。深い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。その瞳の中に、私が映っている。
「澄香」
彼が、私の名前を呼んだ。苗字ではなく、名前で。その響きが、鼓膜を震わせ、胸の奥を甘く締め付けた。
「……え?」
自分の声が、まるで他人のもののように、か細く響いた。
「澄香……すまない。……友達から、なんて言ったが……もう、限界だ」
真剣な、切実な響きを帯びた彼の声。その瞳には、何の迷いも、計算もなく、ただ純粋な、剥き出しの感情だけが映し出されていた。私の心も、もう、限界だったのかもしれない。築き上げてきたはずの壁が、音を立てて崩れていく。理性が、本能に道を譲る。
「……別に、構わないけど」
自分でも驚くほど、素直な、けれど捻くれた言葉が口をついて出た。甘えたい気持ちと、それを許せない気持ちが、ない交ぜになったような、そんな言葉。
彼は、一歩、距離を詰めた。そして、彼の温かい手が、私の両肩に、そっと置かれた。強すぎず、弱すぎず、けれど、決して離さないという意志を感じさせる、確かな重み。息が詰まるほどの近さ。彼の呼吸が、私の肌にかかる。
「……ずっと、こうしたかった」
彼の掠れた声が、鼓膜を震わせる。胸が、痛いほどに締め付けられる。私も、同じだったのかもしれない。気づかないふりをしていただけで。本当は、ずっと……。
ゆっくりと、彼の顔が近づいてくる。抵抗は、できなかった。いや、する気もなかった。
唇に、柔らかく、温かいものが触れた。ほんの、一瞬。軽く触れるだけの、キス。それなのに、全身の血液が沸騰したかのように、身体が熱くなる。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打つ。
唇が離れる。言葉を失い、ただ、見つめ合う。彼の瞳が、潤んで、揺れている。私の中の、硬く閉ざされていた何かが、音を立てて溶けていくような感覚。
再び、唇が重ねられる。今度は、少しだけ、長く。深く。唇の感触、彼の息遣い、すぐそばにある体温。すべてが、初めての感覚。甘くて、切なくて、どうしようもなく、心を揺さぶられる。
「……怜央……」
気づけば、彼の名前を呼んでいた。熱い雫が、頬を伝う。悲しいわけじゃない。ただ、感情が溢れて、抑えきれなくなっていた。彼は、何も言わずに、親指で、そっと私の涙を拭った。その指先の優しさに、また涙が込み上げてくる。
「……ずっと、好きだった」
その言葉が、最後の楔を打ち砕いた。強がりも、皮肉も、冷静さも、すべてが崩れ落ち、剥き出しの感情だけが残る。
「……私も……」
声が、震える。初めて口にする、認めたくなかった言葉。
「……私も、……好き、……かも、しれない」
身体が熱くなり、脚に力が入らなくなるのを感じた。すると、彼の唇が私の唇を離れ、頬を撫で、耳元を過ぎて首筋へと降りてくる。
「ぁ……」
彼の唇が肌に触れるたび、小さな甘い感覚が背筋を走る。首筋をゆっくりと辿り、彼の唇は鎖骨の辺りまで降りてきた。
「怜央……」
彼は何も答えず、鎖骨の辺りを軽く吸い上げる。じんわりとした甘い痛みが私を支配する。
彼が残そうとしているのはキスマーク。明日になっても残っているのだろうか。そんな考えが頭をよぎり、恥ずかしさと嬉しさが混じり合う。
身体から力が抜け、立っているのがやっとだった。彼の腕が、そっと私の身体を支え、強く抱きしめる。
「……あったかい……」
彼の胸の中で、呟く。身体だけじゃない。凍てついていたはずの心まで、温められていくような感覚。涙が、止まらない。もう、何も考えられない。ただ、この温もりに、身を委ねていたい。
唇が、再び求め合う。今度のキスは、もっと深く、もっと熱く、お互いの存在を確かめ合うように、貪るように。舌が絡み合い、思考が溶けていく。甘い痺れが、全身を駆け巡る。夢なのに、現実よりも、ずっと鮮明で、ずっと強烈な感覚。
「……澄香……俺だけのものに、なってほしい」
彼の、熱っぽい囁き声。その言葉が、私の奥深くに響き、身体の芯を疼かせる。彼のものに……。
そう、なりたい、と……思った、瞬間――。
「お姉ちゃーん! ご飯だってばー! 聞こえてるー!?」
階下からの、妹の現実的な、そしてけたたましい声。
「……っ!!」
全身が硬直し、意識が一気に現実へと引き戻される。
慌ててベッドから飛び起きる。心臓は、まだ激しく鼓動を続けており、全身が汗ばんでいる。目を見開き、荒い息をつきながら、見慣れた自室を見回す。夢……。そう、あれは、夢だったのだ。けれど、あまりにも生々しい感覚が、まだ身体に残っている。
「……夢……?」
震える声で、自分に問いかける。唇に、まだ彼の感触が残っているような錯覚。頬が、熱い。慌ててパジャマの首元を確認する。……当然、キスマークなんて、あるはずもない。けれど、確かに、あの夢の中で感じた甘い疼きが、まだ残っているような気がした。
「……なんなのよ、あの夢……」
呟き、両手で顔を覆う。恥ずかしさと、動揺と、そして、夢の中の甘美な記憶が、ぐちゃぐちゃになって押し寄せてくる。あんな、あんな大胆な夢……。
「……どうして、今……」
自分でも、信じられない。ただの「友達」のはずの相手と、あんな……。頭を抱え、ベッドの上で膝を抱える。夢の中での幸福感が、現実に戻った今、深い喪失感となって胸を締め付ける。
(……別に、あんなこと、望んでたわけじゃ……)
そう否定しようとしても、夢の中の自分が、あまりにも素直に彼を受け入れていたことを思い出す。
「……疲れてるんだ、きっと。……そうよ、雨に濡れたし、慣れないことばかりだったし……」
必死で、言い訳を探す。
「お姉ちゃん! 寝てるのー?」
階下から、再び妹の怒鳴り声が響く。
「……っ! 今、行くってば!」
苛立ちをぶつけるように叫び返し、深呼吸を繰り返す。落ち着け。普通の顔をしろ。いつもの私に戻るんだ。けれど、どうすれば? この動揺を、どう隠せばいい?
「……月曜日、……あの人に会ったら、どうしよう……」
学校で、彼と顔を合わせた時、私は、どんな顔をすればいいのだろう。あの夢のことを、思い出さずにいられるだろうか。彼の目を、真っ直ぐ見つめ返すことができるだろうか。
ベッドから立ち上がり、ドアへと向かう。その途中、ふと、着ているフーディの襟元を、また無意識に掴んでいた。彼の匂い。それは、夢の残滓のように、甘く、そして切なく、私の心を掻き乱す。
「……ほんと、……どうかしちゃったんだ、私……」
熱い頬を自覚しながら、私は、重い足取りで階段を下りていった。心も身体も、まだ、あの生々しい夢の余韻から、抜け出せずにいた。
「……二宮くん……」
彼の名前を呼ぶたびに、胸が痛むのは、なぜなんだろう。
評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。




