第17話 彼の服と彼の傘と
雨上がりの、湿った空気の中を歩く。彼の傘が、まだ残る雨粒から私を守ってくれる。そして、彼の大きな赤いフーディが、私の身体を優しく包み込んでいる。まるで、彼自身に守られているような、そんな錯覚。
袖が長すぎて、指先しか見えない。時折、風が吹くと、ふわりと、彼の匂いが漂ってくる。歩くたびに、ぶかぶかの裾が揺れる。本来なら、動きにくいはずなのに、今は不思議と、このだぶついた感覚が心地よい。彼の温もりが、まだ残っているような気がして。
偶然の雨宿り。彼の部屋。シャワー。彼の服。彼の匂い。フードを直してくれた、彼の指先。「かわいい」という言葉。すべてが、鮮明に、何度も頭の中で繰り返される。心臓が、うるさいくらいに鳴り続けている。
この感情は、いったい何?
「友達」として始まったはずの関係。それが、いつの間にか、こんなにも……。
認めたくない。けれど、無視することもできない。この、複雑で、厄介で、それでいて、どこか甘美な感情。
「……二宮くん……」
彼の名前を、声に出さずに、そっと呟く。それだけで、胸が締め付けられるように、きゅっとなる。
そんな自分が嫌だ。こんな、甘ったるい感情に、流されている自分が、嫌だ。
自宅の玄関が見えてきた。傘を閉じ、ドアの前に立つ。家に入る前に、もう一度だけ、フーディの襟元に顔を埋める。深く、息を吸い込む。彼の匂い。今夜は、この匂いに包まれて眠れる……。そう思うだけで、顔が熱くなる。
スマホを取り出し、震える指で、約束のLINEを送る。
『無事、帰宅。傘と服、ありがとう。……迷惑かけた』
送信ボタンを押すと、ほとんど間髪入れずに、返信が来た。
『よかった。気にするな。また月曜』
短い、けれど、温かいメッセージ。何度も読み返してしまう。
深呼吸一つ。鍵を開け、玄関のドアを開ける。
「ただいま……」
静かな家の中に、私の声が響く。……はずだった。
「おかえりー! お姉ちゃん! 遅かったじゃん!」
廊下の奥から、中学一年生の妹、朱里が、パタパタと軽い足音を立てて駆け寄ってきた。
そして、私の姿を見るなり、目を丸くして、固まった。彼女の視線が、私の着ている服を、上から下まで、じろじろと舐めるように見ている。……嫌な予感が、背筋を走った。
「……え? 何その服……。お姉ちゃんのじゃないよね? しかも……男物の、ぶかぶか……?」
朱里の目が、好奇心と疑念で、キラキラと輝き始めている。
「……っ! ち、違う! これは、その……友達の……!」
「えーーー!? 友達って、男の子!? もしかして、もしかして……彼氏、できたの!?」
妹の、甲高い声が、家中に響き渡る。
「違うって言ってるでしょ! ただのクラスメイト! 雨に降られて、制服が濡れたから、貸してもらっただけだってば!」
必死で弁解するが、朱里は全く聞く耳を持たない。
「やっぱり彼氏だー! お姉ちゃんに、ついに彼氏が! やったー!」
私の腕を掴み、ぶんぶんと振り回しながら、嬉しそうに飛び跳ねている。
「だから、違うってば! いい加減にしなさい!」
「どんな人? イケメン? 背高い? 優しいの? ねぇ、どこで知り合ったの? いつから付き合ってるの?」
質問の嵐。頭が痛くなってきた。
「本当に、ただの友達だって言ってるでしょ!」
「ふーん? ただの友達の服着て、そんなに顔、真っ赤にしてるんだ?」
妹が、ニヤニヤしながら、私の顔を指差す。はっとして頬に手を当てると、確かに、燃えるように熱い。
「……っ! あんたが、変なこと言って、からかうからでしょ!」
そう言い返した瞬間、また、ふわりと、フーディから彼の匂いが漂ってきた。その香りに、私の心臓が、また大きく跳ねたのを、妹は見逃さなかっただろう。
「……やっぱり、何かあったんだね? お姉ちゃん」
朱里の、確信に満ちた、意地悪な笑顔。
(……本当に、最悪……)
私は、もう反論する気力もなく、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。彼の匂いに包まれたまま。
「お姉ちゃん、今度その人、家に連れてきてよ!」
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