第16話 静かな部屋、揺れる心
パタン、と浴室に続くドアが閉まり、シャワーの音がかすかに聞こえ始めた瞬間、私は、ようやく詰めていた息を、大きく吐き出した。全身の力が、どっと抜ける。
(……なんなの、今の……)
普段の私なら、ありえない。こんなにも簡単に、動揺して、言葉を失って。まるで、自分じゃないみたいだ。
ドライヤーのスイッチを入れ、半乾きの髪に温風を当てる。ブォォ、という機械的な音が、少しだけ現実感を取り戻させてくれる。鏡に映る自分は、まだ頬が赤い。
(……『かわいいな』……)
彼の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。たった一言。それなのに、私の心をこんなにもかき乱す。
彼が「好きだ」と言ってきてから、何かがおかしい。グループランチ、勉強会。彼との接点が増えるたびに、彼の真面目さ、努力、そして、時折見せる不器用な優しさに触れるたびに……。
(……違う。意識なんて、してない。ただ、少し、ペースを乱されてるだけ)
そう結論付け、ドライヤーを止める。髪は、まだ少し湿っているけれど、もういい。
キッチンへ向かい、戸棚を開ける。コーヒー、紅茶、緑茶……そして、ココアのスティックを見つけた。迷わずそれを手に取り、マグカップにお湯を注ぐ。甘い香りが、ふわりと立ち上った。温かいマグカップを両手で包み込み、ソファに深く腰を下ろす。膝を抱え、部屋全体を見回す。本当に、綺麗に片付いている。彼の性格が、そのまま空間に表れているようだ。
ココアを一口飲む。甘く、温かい液体が、緊張で強張っていた身体に、ゆっくりと染み渡っていく。見知らぬはずの空間なのに、なぜか、妙な居心地の良さを感じてしまう。フーディの、長すぎる袖口から覗く指先で、マグカップをそっと持ち上げる。その瞬間、また、あの匂い。彼の匂い。
――また、やってしまった。無意識に、フーディの襟元に顔を近づけていた。
「……二宮、くん……」
掠れた声で、彼の名前を呟いてしまっていたことに、自分自身で驚愕する。この服は、彼が普段、身につけているもの。この服に包まれて、彼は日常を送っている。そう想像するだけで、胸の奥が、きゅっと締め付けられるような、甘い痛みを覚える。
浴室からは、まだシャワーの音が聞こえている。彼が出てくるまで、もう少し時間がある。この静かな、一人きりの空間で、私は、自分の心と向き合わざるを得なかった。
彼との距離は、確実に縮まっている。それは、認めるしかない事実だ。「友達として」。その枠組みの中で、彼の真剣さ、誠実さ、そして、不意に見せる弱さのようなものに触れてきた。
屋上での告白。雨の中での再会。そして、今、この彼の部屋で、彼の服を着て、彼の匂いに包まれている……。何かが、変わってしまった。もう、以前のようには、彼を見られない。
最悪だ。
シャワーの音が止んだ。浴室のドアが開く気配。心臓が、また大きく跳ねる。私は、慌ててマグカップを口に運び、平静を装った。
「……待たせたな」
浴室から出てきた彼は、まだ髪が濡れていた。Tシャツの肩も、水滴で少し色が濃くなっている。タオルで乱暴に髪を拭いながら、彼は私の向かいに、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「ううん、別に……」
彼とまともに目を合わせられない。視線が、自然と手元のマグカップに落ちる。
「……服、サイズ、大丈夫か?」
「あ、うん……大きいけど、……暖かい、から」
しどろもどろな返事になってしまう。
「それにしても、ひどい雨だったな」
彼は、窓の外を見やりながら言った。ガラスを叩く雨音は、先ほどよりは、少しだけ弱まっているようだ。
「うん……。まさか、あんなに降るとは……。傘、忘れるなんて、ほんと、どうかしてた」
「俺もだ。普段なら、天気予報くらい確認するんだが……今日は、どうも、浮かれていたらしい」
彼は、少しだけ自嘲するように笑った。その言葉に、どきりとする。浮かれていた? 何に?
顔を上げると、真正面から、彼と目が合った。柔らかな部屋の照明の下で、彼の瞳が、何か強い意志を宿して、こちらを見つめているように見えた。たまらず、視線を逸らす。
「……でも、本当に、助かった。ありがとう」
今度こそ、ちゃんと言えた、はずだ。感謝の気持ちは、本物なのだから。
「……いや。むしろ、俺の方こそ……偶然、天峰を見つけられて、……良かった、と思ってる」
彼の言葉には、やはり、何か含みがあるように感じられた。偶然。けれど、それは、彼にとっては、ただの偶然ではなかったのかもしれない。
「……でも、悪いから、そろそろ……雨、少し弱まったみたいだし……」
帰りたくない、という気持ちと、これ以上ここにいてはいけない、という気持ちが、せめぎ合う。
「もちろん、引き留めるつもりはない。……家族には連絡したのか? 心配しているかもしれない」
その問いに、はっとする。そうだ、連絡。
「……してない。……両親、今日は帰り、遅いから、たぶん……」
医者である両親は、多忙だ。私が多少遅く帰っても、気づかないことの方が多い。妹は……まあ、大丈夫だろう。
「そうか。なら、もう少し、ゆっくりしていけばいい。無理に帰る必要はない」
彼の言葉に、甘えてしまいたい気持ちが湧き上がる。この、奇妙に居心地の良い空間に、もう少しだけ、身を置いていたい、と。
「……部屋、綺麗にしてるんだね」
話題を変えるように、部屋を見回しながら言う。
「そうか? 俺は、普通だと思っているが」
「いや、普通じゃないでしょ。男の子の一人暮らしって、もっと……こう、雑然としてるイメージだったから」
彼は、少し照れたように、後頭部を掻いた。
「まあ、親がいない分、自分でやらざるを得ない、というのもあるが……。それに……」
彼は、わずかに言葉を濁した。
「それに?」
「……いや。……整理整頓されていると、思考もクリアになる気がするんだ。勉強も、集中できるしな」
「……ふーん。やっぱり、あなたらしい、って感じ」
思わず、くすりと笑みが漏れる。彼の、そういうどこまでも真面目で、ストイックなところが、彼の魅力の一つなのかもしれない。……いや、別に、魅力的だなんて、思ってないけど。
「あ、そうだ。腹、減ってないか?」
彼は、突然立ち上がり、キッチンへと向かった。
「え? いや、別に……」
「俺は、少し小腹が空いた。確か、何かあったはずだ……」
彼は、戸棚や冷蔵庫を探り始めた。その後ろ姿を眺めていると、それまで忘れていた空腹感が、じわじわと込み上げてきた。確かに、シャワーを浴びて体が温まると、お腹が空く。
「……あった。昨日、コンビニで買ったクッキーが残ってた。食べるか?」
彼が取り出したのは、未開封のクッキーの箱だった。
「甘いの、平気か?」
「……うん。まあ、嫌いじゃない」
彼はパッケージを開け、中のトレイごと、私の前に差し出した。
「どうぞ」
「……どうも。いただきます」
勧められるままに、クッキーを一つ手に取る。口に運ぶと、サクサクとした食感と、バターの香ばしい風味が口の中に広がった。思ったよりも、美味しい。
「……美味しい」
「そうか。なら良かった」
彼は、どこか嬉しそうに、そして安心したように微笑んだ。その、年相応の、無邪気さすら感じさせる笑顔に、またしても、私の心臓は、不覚にも、小さく跳ねた。
他愛のない会話を続けながら、クッキーを齧る。最初はぎこちなかった空気も、少しずつ和らいでいくのを感じる。彼と二人きり。彼の部屋で。こんな状況は初めてのはずなのに、不思議と、嫌な感じはしなかった。むしろ……。
窓の外を見ると、雨脚は、かなり弱まっていた。厚い雲の切れ間から、うっすらと夕方の光が差し込んでいる。……そろそろ、本当に帰らなければ。
「……雨、だいぶ、小降りになってきたみたい」
名残惜しさを隠すように、窓の外を指差しながら言う。
「……ああ、そうだな……」
彼の声にも、ほんのわずかに、残念そうな響きが混じっているように聞こえたのは、私の願望だろうか。
「……家に着いたら、LINE、してくれるか?」
彼が、唐突に言った。
「え?」
「いや、その……暗くなってきたし、まだ雨も降ってるし。……無事に着いたか、少し、気になるから……」
「あ……うん。わかった。……連絡、する」
LINE。彼と、個人的にメッセージをやり取りする。グループではなく、一対一で。そのことが、なぜか、とても特別なことのように感じられ、胸が温かくなる。
「……それと、その服」
「え?」
「返すのは、後で、いつでも構わないから」
彼の服を着て、帰る? そんな……。
「で、でも、それは……」
「選択肢は、それしかないと思うが。まさか、ここで乾くまで待つわけにもいかないだろう?」
彼の指摘は、至極真っ当だ。冷静に考えれば、それが一番合理的だ。けれど……。
「……じゃあ、……言葉に、甘えさせてもらおうかな……」
「ああ、それがいい」
彼は、どこかほっとしたように、頷いた。
「あ、そうだ。傘も、これ、使ってくれ」
彼はそう言って立ち上がり、玄関の傘立てから、シンプルな黒い傘を取り出した。
「これ、持っていけ」
「え、でも、二宮くんの……」
「いいから。俺は、もう家だからな」
「……ありがとう」
差し出された傘を受け取る。その手が、微かに震えているのに気づかれただろうか。彼の服を着て、彼の傘を差して、帰る。その事実が、現実味を帯びて迫ってくる。
玄関で、自分の濡れた靴を履く。彼から借りた傘を、しっかりと握りしめる。
「……本当に、ありがとう。助かった。……迷惑、かけた」
「気にするな。……また……」
「……また?」
「……いや、なんでもない。……気をつけて、帰れよ」
彼は、少しだけ照れたように、視線を逸らした。
「連絡、待ってるから」
「……うん。わかった」
ドアを開け、廊下に出る。エレベーターが来るまでの短い間、彼はドアの前に立ち、黙って私を見送ってくれた。
「……じゃあ、また月曜に」
「ああ。……また、月曜」
エレベーターに乗り込み、閉じていくドアの隙間から、彼の姿が見えなくなるまで、なぜか目が離せなかった。
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