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第15話 彼の、匂い

 シャワーの湯が止まり、蒸気で白く曇った浴室に、不自然なほどの静寂が訪れた。


(……何やってるんだ、私は)


 鏡に映る自分の顔は、熱のせいか妙に赤らんでいる。……いや、熱のせいだけではないことは、自分でも嫌というほどわかっていた。深呼吸を一つ。落ち着け。乱れた心臓の鼓動が、やけに耳障りだ。


 タオルで身体を拭きながら、この非現実的な状況を反芻する。


 土砂降りの雨。忘れた傘。公園の東屋での、ありえないタイミングでの再会。そして、二宮怜央の「うち、寄って行くか?」という、予想外の提案。まるで、出来の悪いドラマか何かだ。


 髪から滴る水滴をタオルで吸い取りながら、彼の「親切」に、居心地の悪さと、ほんの少しの……いや、認めたくないが、確かな動揺を感じていた。シャワーを貸し、着替えまで用意する。……まあ、合理的に考えれば、濡れたまま帰すよりはマシ、という判断なのだろう。彼が私に「好きだ」と告白してきた事実は重いが、だからといって、今この状況で何か下心があるとは思いたくない。……思いたくない、だけかもしれないが。


 棚の上に置かれた、畳まれた服。それに手を伸ばす。


 赤い、大きなフーディと、紺色のハーフパンツ。……男物の服。こんなものを着るのは、当然ながら初めてだ。


 ためらいがちに、フーディに袖を通す。思った以上に生地は柔らかく、そして、まだ微かに温かい気がした。頭から被り、身体に滑り落ちてきた瞬間、ふわりと、ある香りが鼻腔をくすぐった。


(……この匂い)


 清潔な、おそらくは柔軟剤の香り。だが、その奥に、もっと個人的な、説明のつかない匂いが混じっている。心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。


 これは……二宮怜央の、匂いだ。


 先日、図書室で隣り合った時、ふと感じたのと同じ。石鹸やシャンプーの香りとは違う、彼自身の、もっと本質的な……。


 気づけば、フーディの襟元を掴み、無意識に顔を近づけていた。


 息を吸い込む。彼の匂いが、肺を満たす。温かくて、少しだけ甘いような、それでいて落ち着くような……。胸の奥が、じわりと熱くなる。


(……何やってるの、私! 変態みたいじゃない!)


 慌てて顔を離す。けれど、抗いがたい引力に引かれるように、また、襟元に顔を埋めてしまう。


 深く、深く、息を吸い込む。彼の匂いで、頭がいっぱいになる。思考が、溶けていくような感覚。この感情は、何? いつから私は、彼の匂いに、こんなにも……。


 早鐘を打つ心臓を押さえつけ、乱暴にハーフパンツに足を通す。当然、ぶかぶかだ。ウエストの紐を、これでもかというほどきつく縛り上げる。


 洗面台の棚にあった、男性用の化粧水。これも、彼のものだ。手に取り、顔に軽くパッティングする。いつもとは違う、少しだけスパイシーな香りが、また彼を連想させる。肌がひんやりと引き締まる感覚だけが、現実感を繋ぎ止めてくれた。


(……早く、出ないと)


 彼を待たせている。これ以上、この空間にいては、本当にどうかしてしまいそうだ。もう一度、深呼吸。心を無理やり落ち着かせ、浴室のドアを開けた。


 リビングへと足を踏み入れた瞬間、ソファに座っていた彼と視線がぶつかった。彼は、わずかに目を見開き、動きを止めた。


「あ……」


 掠れた、小さな声が漏れる。彼の視線が、私の姿を、上から下へと、ゆっくりとなぞるのを感じる。その視線に、まるで肌を焼かれるような感覚を覚えた。部屋の中を見回す余裕は、ほとんどなかった。ただ、男の一人暮らしにしては、驚くほど整然としていることだけはわかった。本棚に並ぶ本の背表紙。テーブルの上に置かれたノートとペン。すべてが、彼の几帳面な性格を物語っているようだ。


「大丈夫か? 温まったか?」


 彼の、少しだけ硬い声が、私の思考を現実へと引き戻した。見れば、彼も着替えを済ませていた。Tシャツにスウェットパンツという、ラフな格好。学校の制服姿とは全く違う、無防備な姿。濡れた髪を後ろに流し、額が出ているせいか、普段よりも大人びて見える。その姿に、またしても、胸の奥が不規則に脈打つのを感じた。


「……うん。おかげで。……ありがとう」


 できるだけ、普段通りの、素っ気ない口調を心がけたつもりだったが、声が少し震えてしまったかもしれない。


 彼はソファから立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。彼の視線が、私の顔から、肩へ、そして、ぶかぶかの服全体へと注がれているのがわかる。居心地が悪くて、視線を逸らしたくなるのを、必死で堪えた。


「そのフーディ、やっぱり大きいな。フードが重くて、後ろに引っ張られてる」


 彼の視線が、私の背後へと向けられる。言われてみれば、確かにフードの重みで、服全体が後ろにずり下がっているような感覚があった。


「ちょっと、触ってもいいか? フード、直してやる」


 突然の申し出に、心臓が跳ね上がる。触る? 彼が? 私の服を?


「え……あ、……別に、いいけど……」


 返事をするのに、数秒かかった。その間が、永遠のように長く感じられた。


 彼は、私の正面に立った。身長差があるため、自然と見上げる形になる。彼は、何も言わずに、両腕を伸ばし、私の顔のすぐ横から、フードに手をかけた。



 瞬間、時間が止まった。



 彼の腕が、まるで私を囲むように、すぐそばにある。抱きしめられているわけではないのに、それに近い錯覚。彼の体温が、熱として伝わってくるような、息詰まるほどの近さ。そして、また、あの匂い。柔軟剤の清潔な香りの奥にある、彼自身の、甘く、落ち着く匂い。


 心臓が、狂ったように暴れ出す。この音が、彼に聞こえてしまったら……。


「首の後ろあたりで、こう、内側に折り目をつけて……それを、フードの縁に沿って、手前まで……」


 彼は、落ち着いた、低い声で説明しながら、器用にフードの形を整えていく。その声は耳に入ってくるのに、内容は全く頭に入ってこない。ただ、彼の声の響きだけが、私の身体に直接、伝わってくるようだった。


 彼の腕の内側に、私の顔がすっぽりと収まっている。こんな至近距離で、彼の匂いに包まれたことはない。呼吸をするたびに、彼の存在が、私の中に流れ込んでくるような、奇妙な感覚。頬が、燃えるように熱い。きっと、真っ赤になっているだろう。


 最悪だ。こんな無様な姿、彼に見られているなんて。


「……これで、シルエットが崩れにくくなるはずだ」


 説明を終え、彼はゆっくりと腕を下ろし、一歩後ろへ下がった。その表情には、どこか満足げな、そしてほんの少しだけ、悪戯っぽい笑みが浮かんでいるように見えた。


「……ん。かわいいな」


 その、唐突な、そして予想外の言葉に、私の思考は完全に停止した。……かわいい? 何が? この格好が? 私が?


 何か言い返さなければ。皮肉の一つでも言ってやらなければ。そう思うのに、頭の中は真っ白で、言葉が出てこない。ただ、彼の顔を見つめ返すことしかできなかった。


 彼は、そんな私の混乱ぶりを察したのか、すぐに話題を変えた。


「ドライヤー、使うか? そこに置いてある」


 彼は、洗面所の方を指差す。


「ケトル、沸いてるから。インスタントだけど、コーヒーとか、紅茶とか、ココアとか、適当にあるから、好きなの飲んでてくれ」


 キッチンの方を示し、彼は続ける。


「じゃあ、俺もシャワーを浴びてくる。……すぐ戻るから」


 そう言い残し、彼は足早に浴室へと向かっていった。

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