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第13話 土砂降りの中で

 金曜日の最後の授業を終えるチャイムが鳴り響くと同時に、教室の空気が弛緩した。一週間の終わりを告げるその音は、生徒たちに解放感をもたらしたようだ。椅子の引かれる音、週末の予定を話し合う声、鞄に教科書を詰め込む音。様々な音が混ざり合い、教室は一気に放課後の喧騒に包まれた。


「よっしゃ、週末だ!」


 隣の席で、悠貴がわざとらしく大きな伸びをしながら叫ぶ。彼の、こういう裏表のない、ある意味単純な感情表現は、時として場の空気を和ませる効果がある。


「今日は部活か?」


「おう。まあ、この天気じゃ室内トレーニングだろうけどな。怜央は? また図書室?」


 悠貴の問いに、俺は首を横に振った。ここ二週間ほど、放課後は図書室で過ごすことが多かった。特に、天峰と。グループランチなどを経て、俺たちの距離は、確実に、そして計画通りに縮まっていた。以前のような、触れれば切れそうな緊張感は薄れ、自然な会話が増えた。もちろん、「友達」という枠組みは堅持している。だが、彼女の努力や夢に触れるたび、俺の中の「好き」という感情は、より深く、複雑な色合いを帯びていくのを感じていた。


 沙織は俺たちの関係を「青春まっしぐら」などと揶揄したが、あながち間違いではないのかもしれない。


 幼い頃から、俺は同年代とのこういう交流をどこか避けてきた節がある。だが、今は違う。沙織との幼馴染としての自然な関係性も戻り、悠貴や百合川、そして何より、天峰との時間が増えることに、素直な喜びを感じている自分がいる。


 LINEグループでのやり取りも増えた。天峰自身がグループ内で発言することも多くなり、彼女の、普段は見せないような一面――少し皮肉っぽい言い回しや、意外なところで笑いのツボが浅いことなど――を知るたびに、俺の心はさらに彼女へと傾いていく。


「いや、今日は真っ直ぐ帰る」


 鞄に必要なものを手早く詰め込みながら答える。窓の外を見ると、空はどんよりとした鉛色に覆われ、今にも泣き出しそうだ。傘を持ってきていないことを思い出し、眉をひそめる。


「そっか。じゃあ、俺は部活行ってくるわ!」


 悠貴が軽快に席を立つ。その瞬間、俺の視線は、無意識に天峰の席へと向かった。彼女は、すでに鞄を持ち、立ち上がっていた。そして、俺や悠貴に一瞥もくれることなく、さっさと教室を出て行ってしまった。……相変わらず、だな。だが、その素っ気ない態度も、最近では彼女なりの照れ隠しのように思えなくもない。勉強会での、ぶっきらぼうだが的確な彼女の解説。その真摯な姿は、多くの生徒を惹きつけていた。


 俺も席を立ち、教室を出る。廊下は、下校する生徒たちでごった返していた。窓の外の空は、さらに暗さを増している。急いで帰らなければ、雨に降られるのは確実だ。


「怜央」


 背後から、落ち着いた声がかかる。振り返ると、沙織が立っていた。


「沙織か」


「今日は図書室、寄らないの?」


「ああ。傘を忘れてな。降り出す前に帰ろうかと」


 俺が答えると、沙織は自分の鞄から小さな折りたたみ傘を取り出して見せ、「用意周到でしょ?」と悪戯っぽく笑った。


「澄香も、傘、忘れたって慌ててたわよ。私、貸そうか言ったんだけど、『別に、濡れても死なないし』って、すごい勢いで断られちゃって。急いで帰るって言ってたわ」


 天峰も、傘を忘れていたのか。そして、沙織の申し出を断った、と。……いかにも、彼女らしい。だが、気になる。無事に帰れるだろうか。


「そうか。まあ、あいつなら大丈夫だろう。じゃあ、俺も急ぐ。また来週」


「ええ、気をつけてね」


 沙織と別れ、階段を駆け下りる。昇降口は、予想通り、下校する生徒で混雑していた。傘を持っている生徒は躊躇なく外へ出ていくが、持っていない生徒たちは、雨雲を恨めしそうに見上げたり、友人に相乗りを頼んだり、迎えの電話をかけたりしている。


 俺は、迷わず外へ飛び出した。まだ、雨は降っていない。だが、空気は重く湿り気を帯び、雨の匂いが鼻をつく。気温も下がり、半袖のシャツでは少し肌寒い。


 校門を抜け、通学路を早足で進む。このまま、降り出す前に家までたどり着ければいいのだが。


 期待も虚しく、校門から百メートルほど進んだあたりで、ぽつり、と冷たいものが頬を打った。


「……最悪だ」


 雨雲に愚痴を漏らし、さらにペースを上げる。だが、雨粒は瞬く間に数を増し、パラパラという音から、ザーッという激しい音へと変わった。


 鞄を頭上に掲げ、小走りに切り替える。だが、気休めにもならない。制服の肩が、あっという間に雨水を吸って重くなる。不快感が全身を包む。通りを行き交う人々も、傘を持たない者は皆、俺と同じように慌てていた。


 学校前の大通りを抜け、住宅街へと入る。雨脚は、さらに勢いを増していた。もはや、走っても無駄なほどの土砂降りだ。シャツは完全に濡れそぼり、肌に張り付く。髪からは絶えず水滴が滴り落ち、視界を遮る。


 いつもの道を、ただひたすらに進む。自宅のあるマンションが、ようやく雨に霞む視界の先に見えてきた。マンションの手前には、少し開けた公園がある。普段は、近道として公園の中の小道を通り抜けるのが常だった。今日も、無意識に公園へと足を踏み入れる。濡れた落ち葉を踏みしめ、小走りに進む。冷え切った身体が、早く温かいシャワーを求めていた。


 そんな時、公園の中央付近に立つ東屋に、人影があることに気づいた。雨宿りをしているのだろう。普段なら気にも留めずに通り過ぎるところだ。だが、そのシルエットに見覚えがあった。


 制服姿。肩までの黒髪が、雨に濡れて艶を帯びている。


 ――天峰だ。


 思わず、足が止まる。彼女は、こちらには気づいていない様子で、東屋の柱に寄りかかり、空を眺めている。いや、よく見ると、肩を抱き、小さく身を縮こませている。……寒いのか?


 迷いは一瞬だった。俺は、進路を変え、東屋へと向かった。


「天峰」


 声をかけると、彼女は驚いたように、びくりと肩を震わせて振り返った。その瞳が、俺を捉え、わずかに見開かれる。


「……二宮怜央?」


 彼女の姿は、俺の予想以上に、雨に濡れていた。制服の白いブラウスは、雨水を含んで肌の色を透かし、スカートも重く濡れて足にまとわりついている。完全に濡れた黒髪からは、絶えず水滴が流れ落ち、細い首筋を伝っていた。


「……何してるんだ、こんな所で」


 東屋の中に入りながら、努めて冷静に尋ねる。激しい雨音が、声をかき消そうとする。


「……見ての通り、雨宿りだけど」


 彼女は、少し拗ねたように、けれど、どこかバツが悪そうに答えた。その表情に、ほんの少しだけ、普段の彼女らしからぬ弱さのようなものが見えた気がして、胸が小さく締め付けられる。


「まあ、そうだろうな。俺もだ。傘を忘れて、このザマだ」


 自嘲気味に言いながら、自分のずぶ濡れの姿を示す。


「……ふふっ。お互い様、ってことね」


 俺たちの惨めな姿がおかしかったのか、彼女が、ふっと息を漏らすように笑った。その、ほんの一瞬見せた、力の抜けたような笑顔に、俺もつられて、思わず苦笑いが漏れた。馬鹿馬鹿しい状況だ。だが、この滑稽さが、二人の間の妙な緊張感を、少しだけ和らげてくれた気がした。


 しかし、次の瞬間、彼女が小さく「……くしゅん」とくしゃみをするのを聞き、俺の表情から笑みが消えた。


「……大丈夫か? 寒いのか?」


「……別に。ちょっと、冷えただけ」


 彼女は、強がるように答え、再び両腕をきつく抱いた。だが、その肩が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。このままでは、確実に風邪を引く。


「家は、まだ遠いのか?」


「……まあ、ここからだと、歩いて十分、いや、十五分くらい……かな」


 彼女は、少し困ったように視線を彷徨わせる。彼女の家は、この先にあるのか。俺のマンションは、もう目と鼻の先だというのに。


 思考が、高速で回転する。この激しい雨の中、濡れた身体で、さらに歩かせるわけにはいかない。体調を崩されたら、後味が悪い。何より、心配だ。


 決断に、時間はかからなかった。


「……うち、寄って行くか?」


 言葉は、自分でも驚くほど、自然に口から滑り出た。


「……は?」


 天峰が、驚きと疑念が混じったような目で、俺を見返す。


「俺のマンション、ここからすぐそこなんだ。シャワーくらいなら貸せる。タオルも、着替えも……まあ、俺のでよければだが、ある。雨が止むまで、少し休んでいけばいい」


 言いながら、自分の提案がいかに突飛であるかを自覚する。だが、これは合理的な判断だ。純粋に、彼女の体調を慮ってのことだ。下心など、断じてない。……いや、全くない、と言えば嘘になるかもしれないが、今はそれが最優先事項ではない。


 天峰は、戸惑った表情で、じっと俺の目を見ていた。何かを値踏みするように。俺の言葉の真意を探るように。無理強いするつもりはない。彼女が嫌だと言うなら、それまでだ。だが……。


「……本気で言ってる?」


 彼女が、ようやく、小さな声で尋ねてきた。その声には、まだ警戒心と、ほんの少しの……期待のような響きが混じっているように聞こえた。


「ああ。もちろん、無理にとは言わない。……その、一人暮らしの男の部屋に上がるのは、抵抗があるかもしれないしな。もし、気になるなら、俺は外で待ってるか、別の部屋にいるから」


 できるだけ、彼女を安心させられるように、冷静に、事務的に伝える。ここで下心を見せるのは、最悪の選択だ。


 天峰は、しばらくの間、雨音に耳を澄ませるように黙り込んでいた。そして、やがて、小さく、しかしはっきりとした意志を持って、頷いた。


「……じゃあ、……お言葉に甘えさせてもらう。……別に、あなたのこと、そこまで信用してないわけじゃないし」


 その、いかにも彼女らしい、素直じゃない返事に、俺は安堵と、そしてほんの少しの可笑しさを感じた。


「よし、決まりだな。じゃあ、行こう。……走れるか?」


「……うん」


 東屋を飛び出し、再び激しい雨の中へ。俺が先導し、天峰が少し遅れてついてくる。


 公園を抜け、マンションのエントランスへ駆け込む。オートロックを解除し、ロビーに入った瞬間、ようやく雨の暴力から解放された。


「……ここだ」


 エレベーターホールへ向かい、ボタンを押す。到着したエレベーターに乗り込むと、狭い空間に、俺と彼女、二人きり。濡れた服から立ち上る湿気と、お互いの息遣いが、妙に生々しく感じられる。天峰は、俯きがちに、自分の腕をさすっている。やはり、相当冷えているのだろう。


 目的の階で降り、廊下を進む。慣れた手つきで鍵を開け、自宅のドアを開放する。


「どうぞ」


 彼女を中に促す。


「……お邪魔、します」


 小さな声で呟きながら、彼女は躊躇いがちに一歩、足を踏み入れた。濡れた靴を脱ぎながら、床が汚れるのを気にしている様子が見て取れた。


「気にするな。どうせ後で拭く」


 俺も靴を脱ぎ、彼女を促してリビングへと続く廊下へ。床に点々と残る水滴の跡など、今はどうでもよかった。

評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。

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