10.さよならの時
『以前、僕は雛さんの世界に行ったことがあった』
僕自身そんな記憶は無いが、そうでないとこれまでの事の説明がつかない。まず雛さんの世界の人が僕の存在を認知できたこと。僕が雛さんの世界へ初めて行ったと仮定するなら、僕の持つ雛さんの世界の要素は強度が低いはずだ。すなわち雛さんの世界の人から僕が認知されるはずが無いのだ。だが実際認知されたということは、僕の持つ要素の強度が高かったということになる。となると『僕は以前に雛さんの世界に干渉したことがある』という結論に自然と至るのだ。
そしてもう一つ、雛さんの世界の病室の写真に僕であろう人物が映っていたこと。映画の世界とかでよくある『平行世界の自分』のような存在が映っていたのかと思ったが、むぎ曰くそのようなことはあり得ないそうだ。持っている世界の要素が違えど、同一個体が同じ世界、同じ時間に存在するとパラドックスが起こってしまう。世界のシステム上、同一個体の存在する世界には干渉することすらできないらしいのだ。今僕は雛さんの世界に干渉できている。この事実こそが『平行世界の自分』の存在を否定する根拠となる。つまりこの写真に映っている僕は紛れもない僕自身ということになるのだ。
いつだ、いつ僕は雛さんの世界に干渉したんだ。思い出せない。
そうこう考えているうちに、僕は現実の世界へと目を覚ますのだった。
「...と、ゆいとっ!!」
はっと気づくと、寝そべる僕を心配そうに見つめるふたりの見慣れた顔が視界に入った。雛さんとむぎだ。
そうか、何とかこっちに返って来れたんだな。
「雛さん、帰ってきました。ただいまです」
「うん。おかえり、ゆいとくん。これで全部終わったんだよね?」
「ああ、今回の干渉でゆいとは雛の世界の要素を得た。これでふたりとも双方の世界の要素を持っているはずじゃ。神の観測が行われて片方の世界が消滅しても、雛とゆいと、ふたりは残った世界で再び出会えるはずじゃ」
「あとはその時を待つだけじゃな。ふたりともお疲れ様なのじゃ!」
改めてむぎからの言葉を聞き、僕達は安堵の息を漏らした。
別世界に干渉するという一大イベントを無事終えたのだ。今にも声を大にして喜びを表したい気分だ。だがそれよりも僕は今、どうしても確かめたいことがある。
「ゆいとくん、ちょっと変なこと聞くかもだけどいいかな?」
「はい、どうしたんですか?」
雛さんの表情はいつになく真剣な顔だった。僕はそれに答えるべく、姿勢を正して雛さんの方へと向きなおす。
「ゆいとくんが幼い頃、病院に入院したことあったよね。そのときに起こった不思議な出来事について何か覚えてたりしないかな」
え、なんで雛さんがそのことを知っているんだ。確かに幼稚園か小学生低学年の頃、僕は1週間程病院へ入院したことがあると母から聞かされたことがある。でもこの話、雛さんにしたっけ?
それと不思議な出来事か。入院中の記憶はあまりないから不思議な出来事と言われても覚えてないな...
「いえ、ちょっと何も覚えてないですね」
「そっか、じゃあちょっと待ってね」
雛さんは後ろからノートらしき物を取り出し、表紙を表にして膝の上に置いた。
ん? この表紙どこかで見たことあるような...
雛さんはノートの表紙をめくり、最初のページに視線を向ける。
「今から話すのはある少年の物語なんだ。ちょっと変だなと思うかもだけど、最後まで聞いて欲しいな」
僕に微笑みかけた後、雛さんはその少年の物語を語り始めた。
「ある少年は入院先の病室で不思議な出来事を経験しました──」
そこから雛さんが語る物語は何か既知感のあるような無いような、そんな感覚に見舞われるようなものだった。そしてまた、語られた物語に出てくる少年とお姉さんの関係がどうも僕達の関係に似ているなと思えてくる。まあ気のせいだと思うけど。
物語の展開は終盤を迎え、少年がお姉さんの回復を祈る場面に移った。不思議な物語だなぁ...と思いながら聞いていたが、ある展開にだけ異様に強い既知感を覚えた。
「少年はお姉ちゃんが良くなることを願って千羽鶴を作り始めました」
千羽鶴...千羽鶴。僕が幼い頃、どこかで同じように千羽鶴を折った記憶がある。でも千羽には達せず二百羽くらいで終えたんだったよな。確かその千羽鶴、いや、ここはニ百羽鶴とでも言っておこうか。二百羽鶴はクローゼットの奥にしまってたはずだ。以前母にクローゼットの掃除をされてニ百羽鶴を捨てられそうになった時、大事なものだからと言って捨てずに残しておいてもらった覚えがある。
大事なもの...そういや何が大事なんだ? というかこのニ百羽鶴は僕がどこで何のために折ったものなんだ? 折ったという事実、それが大事な物だということは覚えているのにその先が一向に思い出せない。あともう少しなのに、もう少しで思い出せるのに。記憶の一部分にだけぽっかりと穴が開いているようで、非常に心地の悪い感覚に見舞われる。
ここで雛さんの読み上げるノートにふと目がいった。表紙をじっと見つめる。『にっきちょう』、表紙の上部にそう書かれていた。これノートじゃなくて日記だったのか。表紙の下部には『おおつら ゆいと』と書かれている。ゆいと、おおつら、いやおおうらか。これは僕の...日記帳。
...
......
空いた記憶のピースが綺麗に埋まった。
そうか、そういうことだったんだ。
「そして少年は最後にお姉ちゃんにこう言ったの。「またいつか元気になって帰ってきてね、ひ」」
雛さんの声に被せるように僕が言葉を発した。
「ひなおねえちゃん」
雛さんは日記を閉じ、僕の方へと視線を向けなおす。
「こんな形でだけど、一応約束は果たせたみたいだね。ただいま、ゆいとくん」
「おかえりなさい、ひなおねえちゃん」
僕達は互いに笑顔を向け合い、約束の再会を果たせた喜びにしばらく浸った。
「まさか、あのゆーれいくんがゆいとくんだったなんて、こんな偶然もあるものなんだね。でもよかった、ずっと気がかりだった約束の人がゆいとくんでほんとよかった」
「僕もあのお姉ちゃんが雛さんだなんて思いもしなかったです。もしかしたら僕たちの間には切っても切れない運命的で強固な関係があるのかもしれないですね」
「案外そうなのかもね」
でもなんで忘れていたのだろうか。こんな大切なことを忘れていた自分が嫌になってくる。これも世界の干渉絡みの要因なのだろうか。
「なあむぎ、この僕の記憶が消え...え、むぎ?」
目を向けたその先には、瞳に溢れんばかりの涙を浮かべたむぎの姿があった。
「むぎ、どうしたんだ!」
「よかった、雛とゆいとを守れてよかった。むぎの選択は何も間違ってなかったのじゃ」
涙は頬をつたい、部屋の床にポタポタと零れ始める。むぎは零れる涙を手で拭いながら言葉を漏らした。
「でも、やっぱりお別れは寂しいのじゃ」
「むぎちゃん、お別れってどういうこと? まさか世界の干渉を故意に起こしたから...」
「そうじゃな。ちょっと神様からお呼び出しを食らってしまったのじゃ。でも心配することはないのじゃ、ちょっと怒られるだけなのじゃ」
今のむぎを見ていれば、事態が神様にちょっと怒られるとかそんな生易しいものでないことは容易に理解できる。
「むぎ、本当のことを話してくれないか?」
「何を言っているのじゃ、むぎはいつだって本当の...」
僕と雛さんはむぎを真剣な眼差しで見つめ、こちらの想いを伝えようと試みる。むぎは途中で言葉を止め、肩の荷を下ろすようにため息を吐いた。
「やっぱりふたりには敵わないな。分かった、正直に話すのじゃ」
むぎは滴る雫を手で拭い、瞳に溜まっている雫も一緒に拭う。むぎの目元は赤く腫れあがっていた。
「むぎは神の世界で禁忌とされていることを犯してしまった。当然禁忌を犯した者には神から罰が下されるのじゃ。禁忌の中でも故意な世界への干渉は特に重い罪とされている。でもそんなこと分かってむぎは禁忌を犯したのじゃ、罰なんかいくらでも食らってやるのじゃ」
むぎが禁忌を犯したのは間違いなく僕たちのためだ。僕たちが神の観測の後でも僕と雛さん、そしてむぎが一緒に過ごせるようにするためにむぎは世界への干渉を故意に起こしたはずなんだ。
あれ、むぎ、最初になんて言った。お別れは寂しい...って言ったか?
「なあむぎ、むぎは神の観測の後、この世界に帰って来れるんだよな。僕たちとまた一緒にこれまでみたいな日常を送れるんだよな?」
むぎは俯き、言葉を返さなかった。
「むぎちゃん?」
ぼろぼろと大粒の雫がむぎの頬から零れ落ち、床を濡らす。むぎは涙を拭わずそのまま顔を上げ、涙でぐしょぐしょの顔を僕たちに向けた。
「......ごめんなのじゃ」
なんでだよ、なんで重い罰が下ることを分かっていながらそんなことしたんだよ。僕たち3人で一緒に過ごすことが目的じゃなかったのか。むぎが欠けたら...欠けたら意味が無いんだよ!
こんな結末が訪れることを分かっていながらそれを厭わずに計画を実行したむぎに対する怒り、そしてむぎが悩まされていることに気づけず何もできなかった無力な自分に対する怒りがこみあげ、自然とこぶしに力が入る。またこみあげてくるものは怒りだけではない。これまでずっと一緒だった家族同然と言ってよい程の仲であるむぎとの別れ、想像するだけでも瞳の奥から無数の涙が溢れ出そうになる。
「こんな結末になることは分かってたはずなんじゃ。でもやっぱり、雛とゆいととの別れを目前にすると悲しくて、寂しくて」
「むぎちゃん!!」
雛さんが正面からむぎを優しく抱きしめる。むぎは雛さんの胸に顔をうずめ、感情のダムが決壊したかの如く声を上げて泣き出した。
「むぎちゃんがひとりで抱え込んでたことに気づいてあげられなくてごめんね。私、ほんとダメなお姉ちゃんだ」
雛さんは涙声でむぎに語り掛ける。
むぎは雛さんの胸元で首を左右にぶんぶん振りながら何かを言っていた。
突如、むぎの体の一部が薄れ始め、むぎの向こうにあるものが透過して見えるようになっていく。
むぎは深呼吸をして雛さんの胸元から離れ、僕たちふたりの前に立った。
「どうやら時間のようじゃな。神様から強制帰還命令が下されたのじゃ」
「むぎ、嘘だ。嘘だと言ってくれ。僕はむぎと雛さんと、これからもずっとずっと一緒にいたい。あの日常を一緒に過ごしたいんだ!」
「ああ、それはむぎも同じなのじゃ。むぎはゆいとと雛のことが大好きなのじゃ。むぎだって、こんな形でゆいとと雛とお別れするのは嫌だ。でも、これはもう、揺らぐことのない定めなのじゃ」
「むぎちゃん、私もむぎちゃんとゆいとくんと3人で一緒に過ごした日々がとっても楽しかった。こんな日々がずっと続けば良いのにってずっと思ってた。でもそれはもう、叶わないんだね」
むぎが唇を噛みしめ、今にも声を上げて泣きそうな顔で静かに頷く。
「私、むぎちゃんとゆいとくんと3人で一緒に過ごす未来を絶対に諦めない。ほんの僅かでも希望があるなら私はそれを願い続ける。毎日神様にお祈りしてむぎちゃんがこっちに帰って来れるようお願いする。私にできることならなんだってする。ねえ、聞こえてるんでしょ神様! いつか絶対、私が思い描く未来を掴み取ってみせるから」
「ああ、僕も雛さんと同じ考えだ。そんな定めなんて、いつか絶対覆してやる。だからそれまでの間、ちょっとだけお別れだな!」
僕は溢れそうな涙を必死に押し殺し、精一杯の笑顔でむぎに笑いかけた。
「雛、ゆいと。ありがとう、ふたりの気持ちだけでむぎはもう幸せでおなか一杯なのじゃ。でももし奇跡が起こったとしたら、そのときはまた一緒にお話ししたり、お出かけしたり、いっぱいユウジョウして欲しいのじゃ」
「もちろんだ、その時はまたいっぱいユウジョウしような!」
「うん、私たちむぎちゃんの帰りを待ってるから!」
むぎの全身が薄れていき、やがてむぎの向こうにある物が完全に視認できる程にまで透過し始めた。
「ありがとう。ゆいと、雛。またいつか」
むぎはとびっきりの笑顔を僕たちに向け、消えゆく灯の如くこの世界から去っていった。むぎの居た場所の床には、黄色いフリージアの髪飾りだけが残されていた。
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