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賛美者  作者: 桃園沙里
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<第八話・戦後>

 そんなことがあってしばらくしてのことでした。六月の土曜の午後、叔母のみっちゃんが訪ねて来ました。

 みっちゃんは父の一番下の妹で、叔母とはいっても私より七歳年上なだけでした。父の実家が近く幼い頃からよく行き来していて、私も姉妹がいなかったものですから、姉のように慕っていました。

 私がまだ嫁ぐ前、みっちゃんは、職業婦人になると言って家を飛び出し、音信不通になっていました。それが最近、ひょっこり父の実家に顔を出したそうです。その間、どこで何をしていたかは何も言わないそうですが、大層派手な身なりになって、両親は、悪いことでもしてなけりゃいいけど、と言っていました。

 そのみっちゃんが家を訪ねて来たのは、おそらく私に見かねた両親が、姉妹のように仲良かったみっちゃんに何とかしてもらおうと企んだのに違いありません。襟の開いた花柄のブラウスに派手な化粧で現れたみっちゃんは、歳は四十を過ぎているのに、とても華やかで綺麗でした。父に言わせると「下品」だそうですが、私はとても綺麗だと思いました。

「ちーちゃん、久しぶりね。あら、いやだ、辛気臭い顔をして。聞けばずっと家に閉じ籠もってるそうじゃないの。いい若いもんが家にいちゃ、ダメよ」

「みっちゃん。私、もう若くないわ」

「ちーちゃんが若くなかったら私はどうするの。私だってまだまだ若い気でいるんだから。そうそう、昔行った映画館が復活したのよ、今はアメリカの映画がやってるの。観に行かない」

「ううん、私はいい。他の人を誘うといいわ」

「やーね。せっかく久しぶりにちーちゃんと行きたいのに。ついでにお店もひやかして行きましょうよ。気分転換にもなるわよ」

「でも、私は」

「そんなこと言ってると、世の中から取り残されちゃうわよ。今、街がどんどん新しくなって、すごいのよ。戦争はもう終わったのよ」

 それでも後込みしている私に、母が言います。

「行ってらっしゃいな。みっちゃんだって忙しい中、来てくれてるんだし」

「でも、私、よそ行きの服がない」

 白いブラウスは戦時中みんな国防色に染めてしまいましたし、若い頃の服はいつの間にか古臭くなって着られなくなっていましたから。

「そんなことだろうと思って、持ってきたのよ。ジャーン」

 みっちゃんは風呂敷包みを解き、白いブラウスとチェックのスカート、さらに靴まで取り出して見せました。

「ちーちゃん、昔から私と同じ背丈だったでしょ。今だって着られるわよね」

 そこまでされてしまっては、私も断ることができませんでした。

 ベルトでウエストをキュッと締め鏡の前に立つと、やはり女ですね、心がときめきました。みっちゃんはそんな私を見透かしたか「これが今風の髪型よ」と、長い髪を大きく一つに束ね、手早くスカーフでまとめ上げてくれました。それから白粉をはたいて、真っ赤な口紅も塗ってくれました。白粉をはたいたのは、何年ぶりでしょう。こんなにきちんとお化粧をしたのは、あの結婚式の朝以来かもしれません。

 私は複雑な気持ちで鏡を見つめました。どんなにお化粧しても、以前のような美しさはやはりありません。鏡の中の自分に若い頃を重ね落胆しました。でも、ずっと化粧っ気なしで過ごしてきたのでとても興奮しました。実家に帰って来てからというもの、身なりにも全然気を遣わなくなっていたものですから。戦時中でさえも、あんなに夫の為に美しくあろうと心がけていた私が、自分でも気づかない間に、美しくあることを放棄していたのです。


 駅前へ出ると、みっちゃんの言う通り、街は随分変わっていました。

 あちらこちらに建設中の建物があり、通りには露店が軒を連ね、人がごった返し、活気にあふれています。何と言いましょうか、誰もが過去を振り返らず、新しい時代に向かって街を作っている、そんな気がしました。

 目を丸くしている私に、みっちゃんは「ね、言った通りでしょ」と言って笑いました。

 私たちは電車に乗って、近隣では一番大きな映画館へ行きました。幸い空襲の被害もなく、以前のままの姿でした。

 映画の内容は忘れてしまいましたが、外国の喜劇だったと思います。皆で大きな口を開けて笑って、自由とはこういうものなんだろうと感じました。

 帰り際、みっちゃんと駅前の商店街を歩きました。

 久しぶりに行った商店街は、大変魅力的でした。まだ半分建設中ながらも営業している店々の姿は、まるで新しい時代の波に乗り遅れまいとするかのようでした。

 その中で、私一人が旧時代に取り残された人間みたいな気がしました。

 みっちゃんは、あれこれ見はするものの、結局買ったのはストッキング一枚だけでした。

 ひと通りひやかして、そろそろ帰ろうとした所で、みっちゃんが「やっぱりさっきの店に行って来る」と、戻ってしまいました。

 いつの間にか、辺りは夕闇が迫っていました。路上には、軒先に裸電球を灯す店、慌ただしく片付けを始めている店が、雑然としていました。

 目の前の街灯には、小さな蛾が集っています。

 私が道端でぼんやりそれを眺めて待っていると、突然背後から呼びかけられました。

「千代子さん」

 驚いて振り向きました。同時に、知り合いに会いたくなかったのに、咄嗟に振り向いたのを後悔しました。

「ああ、やっぱり。健二んとこの千代子さんでしょ。俺、覚えてるかな。健二の同級の木村一男」

 健二というのは次兄の名です。その方は、同じ村の出身で、兄たちと同じ青年団でしたので、お顔くらいは存じ上げていました。

「ええ、青年団の」

 私は、目尻に皺が寄らないよう慎重に微笑みながら、心の中でみっちゃんに感謝しました。きれいにお化粧をしていて良かった、夕闇の中でなら多少ごまかせられるかもしれない、と思いました。

「ご主人のことは聞いたよ。大変だったね」

「その節はいろいろお世話になりました」

「ご両親はお元気」

「ええ、おかげさまで」

「こんな所で千代子さんと会えるとは思わなかったよ。結婚する前は、村のマドンナだったものな。結婚した時は、随分たくさんの男が泣いたんだよ。いやぁ、昔と何にも変わらない、相変わらず綺麗で。今はご実家にいられるんだって?」

「はい」

「俺も、母ちゃんと子供、空襲で亡くしちゃってね、今、独りで工場の寮に住んでるんだ」

「まあ……、木村さんも、大変でしたね」

「みんな、大変だったよね。そういう時代だったからね」

「そうですね」

「そのうち、健二にお線香上げさせてもらいに行くよ。良男さんにもよろしく言って下さい。健二の思い出話でもしましょう」

 そう言って、木村さんは片手を挙げて去って行きました。私は何の感情もなく、後ろ姿に会釈しました。

 それを待っていたかのように、横からみっちゃんが寄って来ました。

「ねえ、今の方、どなた」

「やだ、みっちゃん、見ていたの?健兄のお友達よ」

「結婚してるの」

「してたけど、空襲で奥さんとお子さんを亡くして、今はお独りなんだって」

「今の人、ちーちゃんに気があるわよ、絶対」

「何言ってんの。こんなおばさんに」

「ううん、顔見てればわかるわよ。嬉しそうだったもの。どうなの?ちーちゃんは」

「どうって、何がよ」

「お付き合い、してみれば」

「まさか。木村さんだってそんなつもりはないわよ」

「そうかしら。絶対うまくいくと思うわ、私」


 その後どうなったかというと、結局木村さんとはそれきりお会いすることはありませんでした。というのも、それから一ト月と立たないうちに、私は家を出て、住み込みで働き始めてしまいましたので。

 その方と結婚すればよかったじゃない、とお思いになるかもしれません。

 でも私は、木村さんと会ったことで、過去を捨て家を出る決心がついたのです。

 木村さんを含め、近所の人たちは、私が一番美しかった時を知っている。木村さんは、あの時は夕闇の中でわからなかったでしょうけど、再び日の光の下で会えば、私が若さを失い美貌が衰えたことにに気づき、失望したはずです。私はそれだけはあってはならぬ、と思ったのです。私は、木村さんの中にある美しい私の姿を壊したくなかったんです。ばかばかしいとお思いになるかもしれませんが、私は、一番美しかった時の私が、せめて誰かの中で、その誰かが木村さんでも誰でもよかったんですけれど、生き続けて欲しいと思ったのです。私の「美」に対する最後のこだわり、といったものかもしれません。それで私は、もう二度と木村さんとは会うまいと心に決め、家を出ることを決意したのです。

 本当に私の戦後が始まったのは、この時だったと思うんです。それが昭和二十三年の夏でした。


 そうして私は、みっちゃんのつてで横浜の会社社長のお宅で住み込みの家政婦として働き始めました。

 出発の朝、横浜まで電車で送ってくれたみっちゃんが、別れ際に言いました。

「立ち止まっていちゃだめ。立ち止まってても時間は容赦なく過ぎていくのよ。ちーちゃんはまだ若いんだから、どんどん前に進んで行かないともったいない」

 私は、いろいろお世話になったお礼に、亡き大姑の形見で、大事にしまってあったブローチを、みっちゃんにあげました。

 実家に戻ってきて以来、そのブローチを一度もタンスから出すことはありませんでした。美しくもなく、心さえも醜く歪んでしまった私には、ブローチを取り出して眺める気持ちがなくなってしまったんです。自分自身の「美」を失ってしまった者にとって、もはや他の「美」を愛することはできないのだと、その時は思っておりました。もうこのブローチが似合う私はいない。私は、みっちゃんにブローチをあげることで、過去の美しかった自分と訣別し、新しい人生を受け入れる決心をしたのです。


 それからの人生は、過去を振り返らず、ただ働いてその日その日を生きました。そうしているうちに、ご縁がございまして二度目の結婚をしまして、夫も二度目の結婚だったのですが、夫と共に幸せを感じる平和な生活を手に入れました。

 夫は優しい方で、美しい花や景色を見たり周りの人たちと仲良く楽しく過ごすことが、何よりの幸せなのだと教えてくれました。お陰で私も、以前とはまた違った意味で「美」を愛でる心が芽生えてきました。その夫にも十年前に先立たれましたけれど、今も心穏やかに暮せるのも夫のおかげだと思っています。


 終戦から何十年も経ち、あの忌まわしい時代のことをなるべく思い出さずに生きてきましたが、最近、ふと思い出して口惜しくて眠れないことがあり、気持ちを整理するためにお話しすることにした次第です。私たち、戦争を体験した世代は、あの時代のことを語ろうとしません。平和な生活を手に入れた今、辛かった経験を思い出したくないのです。

  今、振り返って、私にとって戦争とは何だったのか、考えても考えても何も思い浮かびません。何か一つ言葉を挙げてみろと言うのなら、それは虚無でございます。虚無という暗黒が、私の全てを飲み込み消し去ったのです。あの戦中戦後、何も得る物はありませんでした。全く何もです。ええ、竹槍訓練がいったい何の役に立ったと言うのでしょう。

 終戦によってそれまでの教科省が墨で黒く塗りつぶされたように、美しかった私も若い時代の思い出も全て真っ黒く塗りつぶされてしまった。私の若く美しい時代が無かったことにされたのです。こんなに虚しいことがあるでしょうか。

 「美」とは賛美してくれる人間がいて初めて価値を持つ物です。賛美してくれる人間がいなければ、なんの価値も持ちません。私の若さと美と希望ある未来は、私を賛美してくれた夫が死んだ時に一緒に葬り去られたのです。私の人生から最大の賛美者を奪った戦争を、今でも憎んでいます。

 それが私にとっての戦争です。

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