<第七話・夫の戦死>
やがて戦争が終わって二度目の冬が来て、夫がいない寂しい正月も明けた頃、突然夫の訃報が届きました。昭和二十二年の一月のことです。
その時のことはあまり覚えていません。あまりにもショックで、何をどうしたやら全然。気がついたら、葬儀が終わった後、遺影の前に座っておりました。
私は夫が死んだことを信じられませんでした。だって、突然紙っぺら一枚で戦死を知らされたんです。「これが遺骨です」と届けられた白木の箱には、中は空っぽで名前の書かれた一枚の木片が入っただけの骨壺。どうしてそれを夫の遺骨だと思えます?
夫は終戦のほんの少し前、昭和二十年七月に太平洋の島で戦死したのだそうです。部隊が全滅し書類確認に時間がかかったということでした。
七月……。ああ、きっとあの日だ、と私は思いました。鏡の中の顔に皺を見つけた、あの日に違いない、と。
私は夫が戦地に行っている間ずっと、夫が帰ってくるまで私の時間を止めて欲しいと神様に祈っていました。その願いは、夫が生きている間は、神様が聞いてくださっていたのでしょう。でも、夫がこの世を去ったと同時に、その願いは必要なくなってしまった。それまで止まっていた私の中の時間が動き始めた、もう若くきれいな自分を保っておかなくてもいいのだと、神様が判断した、それが七月のあの日だったのかもしれません。
葬儀が終わると、私は熱を出し寝込んでしまいました。一、二日し、ようやく起きられるようになった頃、実家から両親が私を迎えに来ました。夫が死んだ時からわかっていたことです。夫が死んだ今、子供を持たない嫁など必要ないですから。もし子供でもいたなら、そのまま義弟と結婚して家に残ることもあったかもしれませんけれど。
今の方は驚かれるかもしれませんが、夫が死んだ後、夫の兄弟と結婚する、そういうことは、当時結構多かったんです。ただ、お姑さんに気に入られていたお嫁さんの場合に限りますので、私は元々姑とは気が合わなかったし、子供もいない、義弟は十以上も年下でしたから、実家に返されて当然でした。
私の両親を前に、姑は言いました。
「孝一の留守を守ってよくやってくれました。私も実家に帰すのは忍びないんですけどね、子供も出来なかったし、千代さんはまだ若い、他の方とやり直した方がいいんじゃないかと思いまして」
まあ、よく言うわ、と私はあきれました。
姑にはそういうところがありました。外面がいいというか、よその人に対しては自分の対面を気にするところが。
両親は、子を成さない役立たずな嫁で申し訳ないとひたすら謝っておりました。
「千代さんに世話になったから」と、姑は一対の着物と帯を出しました。
それには見覚えがありました。以前、東京から買い出しに来たご婦人が置いていかれた物です。ご婦人が帰った後、姑は、着物の生地が安っぽいだの、柄に品がないだの、ケチをつけていました。私はそれを横目で見ながら、姑は一生この着物を着ないだろう、いずれどこかへ売り払うつもりなのだろうと思っておりました。まさか、それが私に回ってくるとは。
そんなことも知らずに、両親は、思いもかけない姑の贈り物に恐縮しまくっています。
「こんな高価な物を」
「いえ、大した品じゃありませんけどね、気持ちですから」
ああ、姑は最後の最後までやってくれる、と溜息が出ました。たとえ私がその着物の出処を告げ口しても、姑の本性を知らない両親にしかられるに決まっています。せっかくの好意を何と考えるか、と。
そうして私は、両親に連れられて実家へ戻りました。嫁入り道具のタンスだけは、人を雇って運んでもらいました。
この家に嫁いで来た日、庭の柿の木の若葉が美しくて、これからここが私の家、一生ここで暮らすのだ、と思ったことが遠い昔のようです。それともあれは幻だったのかしら。嫁いだ日から九年半も経っていました。その間、夫と一緒に暮らしたのは四年半。たったの四年半。私の結婚生活は一体何だったのでしょう。
実家の玄関に足を踏み入れた瞬間、ああ懐かしい、と感じるのと同時に、不思議な違和感を覚えました。
「ここはお前の家なんだから、気兼ねしなくていいんだよ」と父は言いました。
「とにかく、お茶でも飲みましょう」と母が言い、私も母について台所へ行きました。
既に兄嫁が仕切っている台所は、棚の配置も変わり、見慣れぬ食器も増えており、まるで他人の家に来た気持ちにさせました。
私はこの家に帰ってきてはいけない人間なのだ、そう思いましたが、他に行く所もありません。まさかこんな形でこの家に戻って来るなんて、思ってもみなかったものですから、惨めな気持ちになりました。
母がお茶の準備をしているのをぼんやり眺めているうち、様々な思いが浮かんできました。
「私がこの家に住んでいた頃は、いつか訪れる幸せを思い描いて、希望に満ちあふれていたのに、なぜ今、こんな惨めな気持ちでここにいるのだろう。夢や希望も、若さも美しさも、夫の愛も全てなくしてしまった。何もかも失ってしまって、なぜ今、ここにいるのだろう。私がこの家を出てからの九年半の時間、それは私に絶望と虚無感を与える為だけのものだったのか。私は何の為に嫁ぎ、何の為に九年半暮らしてきたのか。私のあの時間は、一体何だったのか」
そう思った時、衝動的に私は、台所の土間の隅に置いてある農薬の瓶を手にしていました。父が以前から、一升瓶に農薬を入れて置いておくのは知っていましたから。
母から湯飲みを取りあげ、瓶から農薬を注ぐと一気に飲み干してしまいました。
「千代、何を飲んだ!」
母の悲鳴に近い声が聞こえました。
母の尋常でない声に、父が台所へ飛び込んできました。そして、農薬の瓶に気付き、すぐさま私から湯飲みを取り上げました。父は、激しく咳込んでいる私の口に指を突っ込み、無理矢理吐かせました。それから水を飲ませ、また指を突っ込み、それを何度かやりました。その時の父の行動の素早さ、的確な判断に、私は今でも感謝しております。後からお医者さんにも誉められていました。
目を覚ました時、私は病院のベッドにいました。父のお陰で一命を取り留めた私が、ぼんやり天井のシミなんぞを見ておりますと、病室の外から父の声がします。近所の人にでも会ったのでしょう。
「ええ、カルピスの瓶に入れておったもんで、間違えて飲んじまったんですよ。ええ、もう気をつけなきゃならんですよ」
私が自殺しようとしたなど、世間体が悪いからと、父が一生懸命言い訳を考えたのでしょう。私は余計惨めになりました。言い訳するくらいなら、助けてくれなければよかったのに、などと親不孝なことを思いました。
そんな父の言い訳にもかかわらず、村人には、私が戦死した夫の後を追おうとした、と噂されたようです。なんと貞淑な妻、と同情を買い、ご婦人方の涙を誘ったそうです。実際のところ、私は後追い自殺なんて全く考えていなかったんですけれど、まあ、人がそう言うならそれでもいいわ、と思いました。
父の処置が良かったせいで、特に後遺症もなく、直に私は家に戻ることができました。
実家には、両親と、私が嫁いですぐに結婚した長兄一家が一緒に住んでいました。父は既に定年退職しており、毎日、小さな畑で野良仕事をしておりました。村役場に勤めている長兄と、そのお嫁さんとの間には三人子供がいて、一番下の子はまだ三歳でした。次兄は、三年前に戦死したとのことです。両親は私の夫も出征中なのを気遣って、知らせてはくれなかったのです。二歳上の次兄は、子供の頃から私を大変かわいがってくれましたので、すごく残念でした。
そして末弟は、一度は兵隊に取られたものの、内地で訓練している最中に終戦を迎え無事復員し、今では別な所に所帯を持っているということでした。
私が退院してからというもの、両親は私に対して腫れ物に触るみたいに接しました。兄は、何事もないように振る舞っていましたが、それが尚更気遣いを感じさせられました。
私は何をするでもなく、半病人のように日々を過ごしました。部屋の中でぼんやり物思いに耽ったり、本を読んだり、気が向けば自分の着物をほどいて子供用の着物に仕立てたり、家の外には一切出ずに暮らしていました。たまに庭に出る時さえ、辺りに人がいないか気を使いました。だって、外に出れば昔の知り合いばかりでしょう。村一番の花嫁さんと言われていた私の、衰えた今の姿を見られたくなかったんです。
今だったら、三十三、四で「衰えた」なんて言わないでしょう。今の女性は、三十代なんてまだまだ若くて女盛りですもの。でも昔は三十過ぎたら立派なおばさんです。まあ、今にすれば、全然若かったのに、とは思いますけれど。
その頃の私は、若さと美しさを失ったことを、絶対他人に知られたくないと思っておりました。自意識過剰だと言われましょう。誰も、私を惨めだなどと思わないとお言いでしょう。人間誰も歳を取るのは当たり前だし、もしかしたら自分が思っているほど、私は美しさを失っていなかったかもしれません。
でも、たとえ他人がそう思わなくとも、私自身が嫌だったのです。私の自尊心が許さなかったのです。
農作業で日焼けした肌に加齢によってできた数々の皺、長い戦争中の苦労と心労ですっかりやつれた顔。これがかつて「マドンナ」と呼ばれた私の顔。もう決して二十代の顔には戻ることのない、人から美しいと言われることはない。この先、夫のように賛美してくれる人間が現れない現実を、どう受け入れていいのか、わからなかったんです。
家族は鬱陶しかったと思います。でも、自分でもどうしようもなかったんです。何をする気にもなれずにいました。私の人生に未来などないと思っていましたから。
そんな風に一年余り、のらりくらりと暮らしておりました。両親は私の行く末を心配しているものの、また自殺されるよりは、と何も言えないでおりました。兄は、たまに遠回しに再婚話を持ってきました。知り合いの誰々は、いい人だが未だ独り者だ、とか。戦争で奥さんを亡くした人が後添えを探している、とか。そんな時、私が「まだそういう気になれません」と言いますと、家族の者はそれ以上強く言ってきませんでした。
そんなある日、家族揃って夕食を食べていると、兄のお嫁さんが言いました。
「松本さんちのお嬢さん、ピアノの教室始めるんですって」
「松本さんちって女の子いたの」と兄が聞き返しました。
「そうよ、しばらく東京の音楽学校に行ってて、こっちにいなかったからね」
母が答えました。
「あのお嬢さんのことですよね、東京大空襲で大やけどしたっていう」とお嫁さんも言います。
「そうそう、東京に下宿してたから、えらい目に遭ったそうよ。大やけどして、何とか命は助かったものの、あの通り、顔に跡が残っちゃったでしょ。女の子なのにかわいそうにね」
「あ、時々見掛ける、頬に大きなケロイドのある人、松本さんちの子だったんだ」
「まだお嫁入り前なのに、ね」
私はそれらの会話を黙って聞いていました。
「命があっただけいいと、親御さんは言ってらしたけど」
「そうは言っても内心複雑だろうよ。あれじゃ、嫁の貰い手探すのも大変だろうよ」
私は兄の無神経な言葉に気分を害する一方、心の中にどろどろとしたものがわき上がって来るのを感じました。
それは彼女に対する嫉妬でした。
そのお嬢さんは、若いと言うだけで、まだ結婚前だというだけで、皆に顔の傷を残念られ同情される。まるで、彼女が顔の傷によって無くしたものが、大層なものであるかのように。私が戦争によって若さも美貌も失ってしまったことは、誰も気にしないのに。
私はその時、自分の立場を自覚致しました。私は一人の中年の戦争未亡人、それ以上でもそれ以下でもないのだと