<第五話・戦時下の暮らし>
再び夫が召集されてからは、辛い日々でした。夫との幸せな生活の後だけに、余計辛く感じたのかもしれません。前の召集の時には畑仕事をしてくれていた義弟も、心の支えになってくれていた大姑も、今はいません。
さすがに私一人では畑は無理なので、姑も一緒に農作業をしました。その内に「勤労奉仕」が義務化されまして、男手を戦争に取られている農家に人手が派遣されるようになりました。
勤労奉仕というのは、職業を持っていない若者、主に学生や未婚女性が無償で工場や農村で働き、国に奉仕するというものです。要はボランティアなのですが、義務化されたので拒否はできません。
中には「タダ働きするくらいだったら」と慌てて工場に就職する若者もいました。普通に就職すればお給金を貰えましたから。
夫の妹は、学校を卒業して洋裁学校に通いながら姑の下で花嫁修業をしていたのですが、夫が出征したので洋裁学校をやめ留守家庭で農業をする、という名目で勤労奉仕を免除されました。
下の義弟はまだ国民学校の高等科に通っておりましたが、そちらは学徒勤労で軍需工場に働きに行かされました。
「自分の作った銃弾で、大兄ちゃんが鬼畜米兵を倒すんだ」なんて勇ましいことを言っておりましたが、私はそれを聞いて苦笑せざるを得ませんでした。だって、こんな子供が作った銃弾やら、飛行機やらで戦おうっていうんです。正気じゃありませんよね。
庶民の生活は日に日に苦しくなりました。ありとあらゆる物が配給になり、電気やガスは軍需工場が優先で、庶民は使用を制限されました。
金属類は武器兵器の製造のために、石炭やガソリンなどの燃料は軍艦や戦闘機へ、石鹸やマッチなどの生活必需品に食糧に衣類も、全ての物資は軍隊が優先でした。
そんなわけですから、一般人に配給される物資は充分な量ではなく、衣服はもちろん、靴下一足、タオル一枚、手に入れることさえ大変でした。家族の必要な生活物資を確保するには本当に苦労しました。
ガソリンも規制されていましたから、耕運機を使っている大きな農家では困っていたようですし、農耕具も売っていないので今使っている物をなんとか使っていこうと、農家も苦心していました。
ある日、婦人会の方がアルミの鍋を持って家にやって来ました。鉄製品回収だという。金属が不足しているので、家庭で要らなくなった鍋や鉄製品、貴金属類を差し出せということです。
我が家では既に刃の折れた鎌などを出してあります。それでもまた来るということは、姑が呼んだに違いない、と。
案の定、姑は言いました。
「千代さん、あんたの指輪、どうしたっけ?」
夫から頂いた結婚指輪のことです。ごく平凡な銀の蒲鉾型の指輪でしたが、夫の気持ちとして大切にしておりました。なくすといけないので普段は大切にタンスにしまって置いたのです。
「普段しまっていたので忘れていました。今取って来ます」
心の中では悔しくてたまりませんでした。ですが、姑にそれを悟られるのもしゃくです。澄ました顔をしてタンスを開け、指輪を取り出しました。奥には、姑には絶対知られてはならない、大姑から頂いたブローチがあります。私はそれには手を付けずに、もう一つ、嫁入りの時に母がくれた七宝焼きの帯留めを手に取りました。台に何かの金属が使われているはずです。
「ご苦労様です。些少ですが御国の為にお役立て下さい」
銀の指輪と帯どめが、カランと音を立てて鍋に滑り込みました。カランという音が、いつまでも耳の奥で響きました。私は泣きたい気持ちを堪え、頭を下げました。
姑の意図は解っておりました。その時私が少しでも躊躇しようものなら「非国民」と人前でののしるつもりだったのでしょう。指輪を提出したらしたで、後々夫が帰ってきた時に問題にして離縁を迫るつもりがあったかもしれません。
婦人会の方が帰られた後、言われました。
「まあ、孝一の贈った大切な結婚指輪を、あんなに簡単に出してしまうなんて、あきれた」
私も負けておりません。
「孝一さんが戦地でがんばっているんですもの。この指輪がせめて孝一さんの助けになれば、と思いまして。孝一さんもわかってくれます」
私の中には、それくらいで夫の愛は変わらない自信がありましたから。姑は、苦々しい顔をしていましたが。
物不足に苦しめられている日本国民に、更なる苦難が襲いかかりました。アメリカ軍による本土空襲です。
ラジオからは、どこそこで日本軍がアメリカ軍を撃墜したというニュースが毎日のように流れてきて、日本軍が優勢のはずなのに、なぜ本土を攻撃されてしまうのでしょう。ただ、当時は深く考える余裕もなく、何かの間違いだ、くらいにしか思っていませんでした。それに報道では、日本軍が迎撃し、ほとんど撃ち落としたと言っておりましたから。後にそれは真実ではなかったと知りましたけれど。
世間では、やがて日本の秘密兵器が出てきて戦争は終わるのだと言われていました。世界一の軍艦がもうじき出来上がる、と子供たちが噂しておりましたし、大人たちも、その軍艦が出動すればあっという間に戦争は終わる、と希望を寄せていました。子供の噂を真に受けるほど、私たち大人の心にも余裕が無くなっていたんでしょうか。
本土空襲があってからは仕事が増えました。
まず、畑の隅に防空壕を掘りました。空襲警報がなったら、部屋の明かりを消して防空壕に駆け込むんです。
それから、婦人会の防災訓練が強化されました。空襲で火事になった時の為にバケツリレーの消火訓練です。
竹槍の訓練もありました。アメリカ兵が上陸してきたら、女性たちが竹槍で戦うのです。笑っちゃいますよね。銃を持ってる相手に、竹槍でどう戦えというのでしょう。私は、身体を動かしていれば少しは恐怖や不安を紛らすことが出来ると思ってやっていたのですが、皆さんはどうだったのでしょう。本気で竹槍で戦う気でいたのでしょうか?
戦地に行った家族の身も心配、残った家族の食糧や生活用品の調達にも苦労し、更に空襲で自分の命さえも危険にさらされる。気が狂いそうな毎日でした。
ある日、雨降りで畑に出掛けられない日がありました。その日は外に出る用事もなく、家の中にいるからと私は白いブラウスを着ていました。
その頃、白いブラウスは禁止で「国防色」に染めなければならなかったんです。白いブラウスは目立って敵に見つかりやすいからと。国防色っていうのは、茶色やカーキなどの自然の草木に馴染む色のことです。我が家では、タマネギの皮を煮てそれでブラウスを染めていました。今で言う草木染めです。
自分で言うのもなんですが、私、白いブラウスがとても似合っていたんですよ。子供の頃から言われていました。白いブラウスを着ると顔が映える、と。
そんな私でしたから、白いブラウスを全部染めてしまうのは忍びなく、気に入った物は残して置いたんです。戦争が終わって夫が帰って来る時には、絶対白いブラウスで迎える、とも思っておりましたし。
で、毎日国防色のブラウスにもんぺで、ウンザリしておりまして、家の中でならいいだろうと、その日は白いブラウスを着ていたんです。
朝食の支度を終え私を見た姑が、ものすごい剣幕で言いました。
「あんた、何着てんの!誰かに見られたらどうすんの」
「はい、今日はどこにも出掛ける用がないので、家の中だけならいいかと思いまして。せっかくあるブラウスですし」
「いつ、誰が訪ねて来るかもしれないだろ!家の中だけって言ったってね、じゃ、それを洗濯した後どこに干すの。物干しに白いブラウスなんて、敵に白旗揚げてんのかって怒られちまう」
私はハッとしました。姑の言う通り、干すことまで考えなかったのです。確かに姑の言うことは正しいと思いましたので、素直に謝りました。
「おっしゃる通りでした。私の考えが及びませんでした。申し訳ありません」
私は本当にそう思ったのですが、姑は素直に謝られたことが、却って馬鹿にされているように感じたのか、余計に怒りました。
「そう言って、心の中じゃ反省なんてしてないんだろ。昔っからそうだ。ちょっとくらい綺麗だからって甘やかされてきたんだろうよ。顔が綺麗なんて、そんなのクソの役にも立たないんだよ。女はね、子供を産んでこそ価値があるの。子供を産まなきゃ、虫けらも同じだよ。牛や豚以下だ、あんたは」
さすがの私も傷つきました。確かに私は甘やかされて育ったかもしれません。姑からみたら生意気だったかもしれません。ですが、人として言って良いことと悪いことがあります。いくら憎いとはいえ、こんな言葉を言う姑の神経が信じられませんでした。姑も長い戦時下の暮らしで憂さがたまっていたのでしょう。でもそれは皆一緒です。
私はこの時初めて実家に戻りたいと思いました。夫が戻ってきても、この姑と暮らしていく自信がなくなりました。
この時、実家に戻らなかったのは、私のいじわるな理性が働いたからです。今、実家に戻ったら、出征中の夫の留守を守れなかった悪嫁と言われるでしょう。夫が帰ってきたら、きっとあることないこと言って、私を悪者に仕立て上げるでしょう。
私は、どうせ実家に戻るのなら、夫が戻ってきてから、夫の目の前で姑に言いたいことを言ってからにしよう、と思いました。私一人が悪者になって、私一人が嫌な思いで実家に戻るなんて気はさらさらなかったんです。それで夫の愛が冷めてしまったとしても、姑に言いたいことを言ってすっきりできればいい、と決意しました。それまでは、何とか我慢しよう、と自分に言い聞かせまして、前にも増して夫の帰りを待ちわびるようになりました。
とはいえ、姑とは年がら年中いがみ合っていたわけではありません。一応子供らの手前、普通の嫁姑を演じておりました。私が粗相さえしなければ、姑も何も言いませんでしたし、心の中はどうであれ、表面上は仲良くしておこうと心がけておりました。
姑も同じだったに違いありません。私がいなくなっては畑仕事をする人間が減りますから、姑も心得ていたのでしょう。夫の出征中、実家へ帰れとは一度も言いませんでした。
そんな生活の中でも私は、美しさを失わないよう気を付けました。といっても、化粧品も充分にある時代じゃありませんから、気持ちの問題です。苦労は顔に出ますでしょ。ですからなるたけ苦労を苦労と思わないよう、気持ちだけは若くいようと思っておりました。
それは容易ではありませんでした。日焼けしないようにと夫が買ってくれた麦わらはとっくにぼろぼろになって使い物にならなくなっていましたので、どうしても毎日の農作業で日焼けし、肌は荒れてしまいます。
配給の化粧品は、一家庭に年に一つか二つ、嫁として当然姑に優先的に回しましたから、戦時中、私が化粧品を手に入れたことはありませんでした。姑は、せっかく手に入れた化粧品を使うことはほとんどなかったんですが、それでも決して私にくれようとはなさいませんでした。
私は、夫が帰って来るまでは、自分の時間が止まりますよう毎日祈っておりました。
そりゃあ確かに私はバカですけれど、人間いつかは若さを失い美貌が衰えることくらいわかっております。でも私は、若くて美しい時間を、夫と存分に楽しみたかったのです。もう充分、というくらいに夫の賛美を聞き、そして歳を取りたかったのです。浦島太郎じゃありませんけど、自慢の嫁が戦争から帰ったらおばさんになっていた、では夫もかわいそう。せめて夫が帰って来るまでは、時間を止めて変わらぬ私でいられたら、と思っておりました。夫が帰って来た時にまた、千代は相変わらず綺麗だ、と言って貰いたい。それで夫の戦場での辛かった時間を忘れさせることができれば、と。そして、再び夫と二人一緒に歳を取り始めることができれば、と思っていたのです。
夫が戦地へ行って二年が過ぎても、戦争は終わらず、夫も帰って来ません。時折葉書を出してはみるものの、返事は一年以上前に届いた葉書を最後にそれきりです。
本土空襲も激化して、東京大空襲があり、続いて横浜や、大阪など大都市が次々やられていきました。
銀座も空襲に遭ったと聞き、大姑が生きていたらどんなに悲しんだことでしょう、と思いました。
皇居も少し焼けたそうですが、天皇陛下はご無事でした。アメリカは天皇陛下を狙っているのだ、天皇陛下を亡き者にすれば戦争に勝てると思っているのだ、と言う人もおりました。
私たちの時代、子供たちは学校で、天皇陛下は神だと教えられていました。天皇陛下がいらっしゃるからこの国があり、陛下のために命を捧げるのが国民の義務であると、幼い頃から教えられてきました。今思うと洗脳というのでしょうか、生まれた時からそう教育されてきましたから、何の疑問も反発も覚えませんでした。
子供の教育って大事だと思っています。子供の頃に覚えたことや体験は、一生身体に染みついていると思います。兵隊さんにあこがれた世代、夫の一番下の弟がそうでしたが、彼らは幼い頃から軍国主義を叩き込まれ、戦地に旅立つ兵隊さんの姿を憧れの眼差しで見ておりました。
「大にいちゃんが帰って来たら、今度は僕が少年兵に志願する」と始終言っておりました。
私なんかの年代になりますと、実際、夫も戦場にいっておりますし、戦時中の生活苦や、戦争の悲惨さを知っております。戦争というものを、現実的に考えることができます。
でも子供たちは、違います。自分が戦闘機に乗って勇ましく敵を打ち落とす姿や、無敵戦艦の甲板で敬礼する姿を思い描き、現実味のない空想を戦争だと思い込んでいます。死というものを美化し、神風特攻隊として敵の軍艦に体当たりする自分の死の瞬間を、うっとりと想像するのです。その空想を抱いたまま大人になったら、ああ、恐ろしいこと。
話がそれましたが、東京大空襲の後、防火訓練はなくなりました。
聞くところによると、東京では火を消そうとして逃げ遅れ、何万もの方が亡くなられたそうです。雨霰と降り注ぐ焼夷弾の前には、バケツリレーの消火など、文字通り焼け石に水でさえなかったと聞きました。以後、政府から、空襲の時はとにかく逃げるべしとの通達が出されました。私は、そのような空襲の状況を想像し、背筋がぞっとなりました。
それまで、私の村でも数回空襲警報が出されましたが、実際の空襲はありませんでした。近くの市に大きな軍事工場があるので、そこを狙って来ているようでした。もし、夜間の空襲で敵が目測を誤ったら、この村だってどうなるかわかりません。そう思うと夜も安心して眠れませんでした。実際に夜中に空襲警報のサイレンが鳴り響いたこともあります。その度に飛び起きて、日頃準備してあった防災袋を持ち、防災頭巾を被って防空壕に駆け込んでいました。中に入ったらトタン板で蓋をし、警報が解除されるまで蒸し暑く息苦しい壕の中でじっとしているのです。その時間はただ神様に祈るだけです。どうか、爆弾が落ちてきませんように。それだけです。
昭和二十年の夏のことです。
ある朝、鏡に向かって驚きました。私の顔の口元にクッキリと線がはいっているのです。今まで皺一つなかった顔に、です。指で皮膚を引っ張ってみたりしましたが、線は消えませんでした。人形のようだとほめられていた白い肌は、毎日の農作業ですっかり日に焼けてきめが荒くなっていました。生きることに精一杯で、歳を取ったことに気づかなかったのです。
私は涙が出そうになりました。早く夫が帰ってこないと、この皺はもっと深くなってしまう。今すぐにも帰ってきて、私は心の中で叫びました。毎日、早く、早くと祈っておりました。




