<第三話・復員>
そうこうしているうちに冬が来て、また家族全員揃わない正月を迎えるのかと覚悟していたところ、突然夫が帰ってきたのです。
私が庭の畑で仕事をしていると、向こうから兵隊姿が歩いて来るのが見えました。あの歩き方は、紛れもない懐かしい夫だと思い胸が高鳴りました。一方、もし違っていたらガッカリするから期待してはいけないと自制し、その姿が近づいて来るのを目を凝らして待っていました。
夫だ、そう確信した途端、私は駆け出しました。私は既に泣いていました。夫はそんな私を見て「せっかくの別嬪さんが台無しだぞ」と言いながら目を潤ませていました。私は夢かと思い、夫の腕に何度も触れては確認しました。それまで幾度となくそんな夢を見たのですもの。
家の中はまさに盆と正月が一度にやって来たような状態、みんな泣きながら喜びました。
夜、ようやく落ち着いた夫が私に言いました。
「千代は全然変わらないなぁ。結婚した時のそのまんまだ。こうしてると戦争に行ったことが嘘みたいに思えるよ。ずっと千代の顔を見るのを楽しみにしてた。これからずーっと一緒にいような」
私はその言葉に、また涙しました。
夫は戦地でのことは何も言いませんでしたけど、さぞ辛かったことでしょう。戦後ずいぶん経ってから、当時の戦地では略奪や虐殺が多く行われたと聞きました。優しい性格の夫には耐えられないことばかりだったに違いありません。
もちろん当時はそんなことを知る由もありません。ニュースでは、政府にとって都合のいいことだけを報道していましたから。
そうして私たち一家は、というか、夫と私は、結婚して以来初めて、皆揃った正月を迎えたのです。普段は雑炊にして大切に食べていたお米ですが、この時だけは白米だけのご飯でした。私は、戦時中にもかかわらず、幸せを感じました。
夫が帰ってきたので、私は戦争が終わった気分になっておりましたが、実際にはまだ戦争は続いていました。中国とはあちこちで戦いが続いているのだ、と夫は言いました。中国は思ったよりしぶとい、このまま長引くと、アメリカが出てくるかもしれない、と。
当時、一般家庭は新聞を取っていないのが常でした。新聞を取っているのは比較的裕福な家で、夫の家でも取っていませんでした。
では、情報源は何かというと、ラジオが主でした。あとはほとんどが口コミです。新聞やラジオで得た情報を、八百屋の店先や銭湯などで交換します。口コミって案外すごいんです。噂話でもあっと言う間に広がります。いついつにソ連が攻めて来るだの、相模湾からアメリカ兵が上陸するだの、まあ、情報は不確実で、多くのデマが飛び交っていましたけど。
私は戦争のことは何もわかりません。早く平和な世になって、夫と仲良く食べる物に不自由せずに暮らせれば、とただそれだけを願っていました。
私は新婚当初のように、夫と畑仕事に精を出しました。夫が日焼けしないようにと買ってくれた麦わら帽子も既に古くなっていました。
「新しいのを買ってやりたいけど、売ってないもんな。もうしばらくそれで我慢してくれ。戦争が終わったらとびきりいいのを買ってやるからな」と夫は暗い気持ちを吹き飛ばそうと笑いました。
日中戦争が始まってからは、商店に並ぶ品物はどんどん少なくなり、私たち一般人は欲しい物がなかなか手に入らない状態でした。やがて配給制度ができると、商店は配給所となって、商品の販売はほとんど無くなりました。
夫が復員して間もなく、夫の弟が満州へ渡ると言い出しました。夫の留守中、畑仕事をやってくれていた弟です。夫が留守の間に徴兵検査を受け甲種合格だったのですが、運良く今まで徴兵されずに済んでいたのです。
その頃、日本は、中国大陸に満州国を作り本国からの移民を募集していました。特に農業移民を、政府は大々的に募集していました。
私も含め、家族全員が猛反対です。
姑が懇願に近い口調で言いました。
「わざわざそんな遠くに行かなくても、船に乗って行かなきゃ会えないような所に。まだ結婚もしていないのに」
「もう申し込んできた。青年団の加藤さんと一緒に」
「何だってそんな勝手なこと」
夫は非難しました。
「俺、机に座って帳簿とにらめっこする仕事は苦手なんだ。身体動かしてる方が性に合ってる。俺は次男だし、家には分家できるほどの畑もない。それならいっそ満州に渡って、広い土地で農業をして暮らそうと思う。満州開拓団の人間は兵隊に取られないって聞いたし」
夫は黙り込みました。弟に分けるほどの田畑がないのは事実でしたから。何より弟は畑仕事が好きでした。
夫は一家の主として、弟の満州行きを許可しました。
「嫁さんはどうすんだ?誰か連れて行く人が決まってるのか?」
「いいや。でも大丈夫だ。加藤さんの話だと、移民には若い女もいっぱいいるらしい。一家全員で行ってる家もあるって。だから向こうで見つけるさ」
弟はそう言って晴れやかに笑いました。
この時、私たち家族全員が弟の前途を明るいものと信じていました。持ち前の頑張りで広い田畑や家屋敷を持ち、まだ見ぬ妻と幸せに暮らす弟の姿を思い浮かべていたのです。数年後に満州に訪れる地獄を、一体誰が予想したでしょうか。
一ト月後、弟は移民船に乗りました。
翌年の春まだ浅い頃、大姑が亡くなりました。風邪をこじらせ、それが元で呆気なく逝ってしまいました。
幼少の頃から一番かわいがってもらっていた夫は大層悲しがりました。私も、好きだった大姑の死が悲しくてたまりませんでした。
葬儀の時、涙を流す姑を見て、ああ、この人でも泣くことがあるのだ、と思いました。もしかしたらうれし涙かもしれない、と意地悪に思いもしました。でも、姑の心が開放されたのは事実だと思います。
ある日の夕食時に、突然姑が言い出しました。
「孝ちゃん、子供はまだ出来ないの?」
夫が復員して半年、妊娠の兆候は全く現れませんでした。
「跡取りが生まれないと私も安心できないわ。それとも、産まず女じゃないだろうね」
私が下を向いていると夫が言いました。
「こんな時期だから、コウノトリもなかなか飛んで来ないんだよ。戦争が終わって落ち着いた世になれば、幾らでも出来るさ」
姑のこういった言葉は、これが初めてではありませんでした。夫が戦地に行って留守の間、ことある毎に言われていましたから。子供が出来ていれば徴兵されなかったのに、と。子供や家の事情なんて徴兵には関係ないと、私は思っていましたけれど。
当時「産めよ増やせよ国のため」という標語をを政府が掲げていました。確か、初めて人口増加率が減少したからだったと思います。
最近も少子化が進みつつあると言われていますけれど、当時の場合は生まれる子供は多かったのですが、死ぬ人が多かったのです。今より医療事情も悪く病死する人も多かったし、戦争が始まると戦死者も増えました。
そうこうしている内に物資不足が深刻になっていきました。日中戦争が思ったより長引き、戦争によって、それまで輸入していた物が入ってこなくなったのです。ですから、それらを全部国内で賄わなくてはならなかったんですが、工場は戦争に必要な物資を優先的に生産していて、一般人の生活物資は後回しでした。また、働き手である成年男子の多くを戦争に取られているので、生産効率も上がりません。
農作物の種や肥料は値上がりする一方でしたし、鉄不足で鍬や鋤も手に入らず、とにかく全ての物が不足していました。
それで政府は更なる節約を勧めました。贅沢品の購入は控え、質素な食事にし、廃品回収を盛んにし、倹約すべし、と。
それまでだって質素な生活なのに、これ以上質素とは何を言うのか、と思いました。
やがて、ほとんどの生活用品や食糧を国が管理することになり、配給という形で国民に配られるようになりました。お米や調味料、魚、野菜など食料品、日用品は配給制になりました。
大概の米作農家は、自分とこで食べる分以外のお米を売って生計を立てているんですが、それが許されなくなりました。取れたお米は残らず国に買い取られるんです。それまで仲買業者に安い価格で買い叩かれたことを考えれば、国がそれなりの価格で買い取ってくれるのはありがたいことです。ですが、自分とこで食べる分も全部取られるんです。配給されるお米を食べるんです。せっかく自分でお米を作ってるのに配給されなきゃならないなんて、納得いきません。しかも配給は、満足いく量じゃないときてる。
農家はみんな、床下やらに隠していました。でも、それは厳しく取り締まられました。お役人がやって来て、畳を剥がして家中調べられた家もあるらしいです。自分の食べる分を取っておくのが何が悪いんでしょうか。それを闇で高く売ろうって訳じゃないんですから。
昭和十六年十二月にアメリカとの戦争が始まると、庶民の生活に対する規制がますます強化されていきました。
思想や言論もそうです。
前々から規制はされていたんですが、日中戦争が始まってからは、隣組制度を作ってさらに厳しく取り締まるようになりました。隣組とは、近隣の世帯と組になって配給や防災活動などを組単位で行うとともに、罪を犯すと近所の人と連帯責任となり、お互い見張り合うようにさせた制度です。
当時、国や軍部を批判する言動はもちろんのことですが、戦争に積極的に協力しない、というだけでも非国民扱いされたのです。戦争に協力して、減私奉公するのが日本国民の義務。異論を唱える人間は非国民とされ、憲兵に捕まり罰を受けます。
それがどんどん拡大していきまして、新品の着物を着ている、節約生活をしていない、など、生活のほんの些細なことでも、皆と違うことをすれば非国民扱いになってしまうという世の中になっていきました。ですから人々は、何も言わず考えず逆らわず、周りの人々と同じようにしていることで身を守っていました。おそらくは皆「自分が我慢しているのに他人が我慢しないのは許せない」という気持ちだったんだと思います。裕福な人間や自分が気に入らない人間を敵国のスパイだとして憲兵に通報する、そんなこともあったようです。
戦争による貧困や、言論統制によって締め付けられ続けたことが、人々を思考停止に陥れ、人の心を貧しくしたのです。自分たちがしていることは正しいのか、何が正しいことなのか、わかりません。日本人全員、心が病んでいたんです、きっと。
おかしなことですが、当時私を含めほとんどの日本人が「戦争が終わりさえすれば、生活が良くなる」と思っておりました。
この戦争が終わる、というのは戦争に勝つことです。我慢していればやがて日本はこの戦争に勝ち、景気が良くなり楽になるのだ、と皆信じて疑わなかったのです。
私も子供の頃から「日本は神の国だから戦争に負けることは決してないのだ」と教わってきました。日清戦争も日露戦争も日本は勝ってきましたし、戦争に負けることがあるなど、誰も考え無かったのです。
戦時中、私が嫌だったのはおしゃれの禁止でした。新しい服は買うな、髪にパーマネントをあてるな、とか、やがては国防色のブラウスに、もんぺの強要です。もんぺで電車に乗るなんて、考えるだけでもぞっとします。
もちろん、夫や大勢の方々が戦地で戦っている時に、華美に着飾りたい気持ちはありませんよ。でもね、女性としての最低限の身だしなみってありますでしょ、それさえも許されないご時世になっていくのは悲しく感じました。そんなこと、戦争に関係あるのかしら、そんなに余裕が無くて戦争に勝てるのかしら、と疑問に思いました。もちろん口には出しませんけど。
政府のお役人はみんな男性だから美に関して無頓着なところもあったんでしょうが、こんな世の中だから、時には美しい物を見て心を慰めたいと思いますのに。
ですが、世の中の「美」の基準が、明らかに私の思っているものとは違う方向へ向かっていました。質素、倹約が「美」。或いは勇壮な兵隊姿が「美」。国の為に命を捧げることが「美」。
優美なもの、華麗なものは排除され、罪悪と言われる。ああ、なんて嫌な時代になってしまったんでしょうか。
そんな生活の中でも、夫は相変わらず優しく、また私の最大の賛美者でした。
「千代ほどに色が白くて、すべすべの肌を見たことがない」とよく頬ずりされました。
「千代の目は観音菩薩様の目だ」とも言われました。
幼い頃から誉め言葉には慣れている私でしたが、その私でもさすがに照れるほどに、夫は賛美してくれました。夫の賛美は、私の自尊心を充分すぎるほど満足させ、私はこの人の妻になるために生まれてきたのではないかと思っていました。
夫がいてくれさえすれば幸せだと私が思っているのと同様に、夫もまた思ってくれているようでした。雨で農作業が出来ない日など、私のすることをじっと見とれて、厠へ立とうものならついて来ようとさえしました。おのろけで、ごめんあそばせ。
戦時下でしたけれど、そんな風に私は小さな幸せを感じて暮らしていました。




