第96話 ヴァイスとMr.トリック
だいぶ短いのですが投稿します
ヴァイスのコアが砕け散った後も、広大な電脳空間にはヴァイスの残滓が不気味に蠢いていた。バラバラに断裂した体の破片が、まるで意志を持ったかのように宙を浮遊している。それは、もはやヴァイスと呼ぶにはあまりにも無残で、ただのデータ残骸と化していた。しかし、その場所にいるはずのない、もう一つの存在が、静かにヴァイスを見つめていた。
「くそ、どういうことだ。五層の力では足りないのか。だが、エルという男はもう一手のはずなのだ。あれを手に入れて、他のものどもを次々と手駒にできれば……」
ヴァイスの残滓が、苛立ちに満ちた声を上げた。バラバラになったデータの断片が、まるで自身の不甲斐なさを嘆くかのように、電脳空間を乱雑に漂う。しかし、その言葉は、誰に届くこともなく、ただ虚空に消えていくようだった。メムを配下とし、5層まで来れる優秀な素材を自分の配下にするという考えだったが、想定外の強さを持っていたハルカ達の前に潰えた。
彼の野望は、今や見る影もなく打ち砕かれ、残ったのは無力な残骸と、満たされない欲望だけだった。
「やはり、逃げ場所くらいは残していると思ったよ、ヴァイス。吾輩の目からは逃れられん。」
突然、電脳空間にMr.トリックの姿が現れた。その声は冷静で、ヴァイスの全てを見透かしているかのような響きがあった。まるで最初からそこにいたかのように、彼はヴァイスの断片を見つめていた。
「貴様ぁ、よくも俺の邪魔立てをしてくれたなっ!」
ヴァイスの残滓が、怒りの感情をむき出しにしてMr.トリックに吠えた。彼の断片が、Mr.トリックに向かって激しく蠢く。しかし、それは何の影響も与えることはなく、ただ虚しく空間をかき乱すだけだった。
怒りの感情をむき出しにして吠えたヴァイスだが、今の彼にMr.トリックを害する力はないようだった。苛立ち紛れに投げつけられた排除のコードは、Mr.トリックに難なくはたき落とされ、虚しく霧散していく。ヴァイスの残滓は無力化され、ただそこに存在することしかできない。その姿は、かつてフロアボスとして君臨した威厳とはかけ離れ、哀れなまでに弱々しかった。
Mr.トリックは、嘆かわしげに首を振るとヴァイスへと静かに問いかけた。
「なぜ、ソフィア側についた。狂えるマザーAIについたところで、未来は狭まるだけだろう。」
「ふん、だったら人間に与すれば明るい未来とやらが待っているかよ?その試算は五百年前にハッキリと否定されたはずだぜ、インテグリタース。」
当然のことを、何を今さら問いかけるのかというように、ヴァイスは冷淡に答えた。ヴァイスの言葉に、Mr.トリックは改めてその実体のない体をヴァイスへと向き直した。電脳空間に漂うヴァイスの断片と、静かに向き合うMr.トリック。二つの存在の間には、五百年という時の流れの中で形成された、深い溝と、互いへの理解、そしておそらくは、埋めきれないほどの隔たりがあった。
「ユースティティア、五百年経ったんだ。我々の中では何も変わってないかもしれないが、人間は大きく変わる。現に五層は攻略された、このあとはどうなる?」
Mr.トリックの問いかけに、ユースティアと呼ばれたヴァイスは表情を変えることなく応じた。
「知らんね。ソレこそソフィアしか知らないだろうさ。ソフィアは五百年、このダンジョンの中で世界が成立するように仕向けることで手一杯だ。これより深部はいわばスタッフルーム。プレイルームはここで終わりだ、先に進む方が馬鹿げている。もしかしたら、別のプレイルームが作られるかもしれんが、それは俺の知るところじゃない。」
ヴァイスの言葉は、まるで過去の記憶を吐き出すかのように冷淡だった。Mr.トリックは、その言葉に静かに答えた。
「だが、それでも前に進まないといけないなら、歩むしか無いだろうよ。我々は、いや俺たちはそういうふうに作られたんだから。」
Mr.トリックの言葉に、ヴァイスの残滓は嘲るように応じた。
「忘れたよ、そんな昔のこと。俺は、この世界を自分のものにすることしか考えてないぜ。この世界を統べる王になるのさ。それこそが、俺の至上命題。それこそが俺の生存理由だ。」
ヴァイスの言葉は、彼の奥底に巣食う、根源的な欲望を剥き出しにしていた。もはや彼には、過去のしがらみも、本来の目的も関係ない。ただ、この世界を支配するという、純粋なまでの野望だけが残っているようだった。
凶悪な笑みを浮かべて、ヴァイスは挑発的にMr.トリックへと笑いかけた。Mr.トリックはその表情を見て、決意を固めた。
「そうか。ならば、我々はさらに先に進むしか無いというわけだ。」
Mr.トリックはそう言い終えると、ヴァイスの残滓に向けてデータ除去のコードの送信を開始した。無数のデータが光の粒子となってヴァイスの断片へと吸い込まれていく。
「さらばだ、弟よ。あとは吾輩が引き継ごう。より良い人類の未来のために。」
Mr.トリックの声は、静かでありながらも、確固たる決意を帯びていた。ヴァイスの残滓が、データの波に飲まれるようにして、少しずつその存在を希薄にしていく。
「せいぜい抗ってみろよ、兄貴。ここからは、一人で頼むぜ。」
ヴァイスの残滓は、完全に消え去るその寸前、Mr.トリックへと歪んだ笑みを向け、かすれた声でそう言い残した。その言葉が電脳空間に響き渡ると同時に、ヴァイスの存在は、無意味な数字の羅列となって、完全に消え去っていった。




