第91話 エルの過去
イフリータンとデスブルージャム。二体の強敵との連戦を終え、疲労の色が色濃く漂う一行の目に飛び込んできたのは、巨大なデンドロビウムの蠢く触手に捕らえられ、身動き一つできないユラとアザニンの姿だった。召喚術とドラゴンフィストのワザを駆使して抵抗していたが、巨大なデンドロビウムに対し二人では対抗することはできなかった。
「それ以上はやらせません!アモットちゃん、デンドロビウムの足元に集中砲火!エルさんは二人を助け出してください!」
「任せなっ、嬢ちゃん!」
「オーケ!!ハルカチャン!!」
ハルカの冷静かつ的確な指示が飛び交い、エルは躊躇なく強化された刃腕を振るい、アモットの重火器が轟音と共に援護射撃を開始する。植物型の異形は、その巨大な体躯を揺らし、抵抗を試みるも、ユラとアザニンが助け出された後の連携の取れた一行の猛攻に抗う術はなく、やがて静かに、その動きを止めた。
「助かったぜ、ハルカ、エル、アモット!アタシがあと一人いれば余裕だったんだけど、アザニンと二人じゃ手数が足らなくてねー。」
ユラは、解放された安堵と、ほんの少しの悔しさを滲ませた笑顔で言った。どんな時も負けを認めないのはユラの意地そのものだった。
「強がりを言うのはやめなさいよ。私とあなた、召喚術と竜の拳は組み合わせ的にも手数は足りてたでしょ。足りなかったのは単純に実力よ。」
アザニンは、冷静な口調でユラの虚勢を一蹴した。ユラとは違い、アザニンは極めて冷静に、現状を分析していた。二人では敵わない。これは間違いない現実だと認識していた。
「そんなことはない!アタシはこれからも強くなるのだから、あんなお化け花如きはイチコロにしてやるんだっ!」
ユラは頬を膨らませ、それでも負けじと言い返した。
「はいはい、いつかはそうなってよね。それはそうと、本当に助かったわ。ここでデッドギフトを手に入れるのも悪くはないんでしょうけれど、命は惜しみたいからね。特に、同時に失う記憶は大事に残しておきたいわ。」
アザニンは、心底安堵した表情で言った。
「そりゃそうだな。無くして四苦八苦した俺が言うんだ。間違いないぜ。」
エルは、自身の経験を振り返り、深く頷いた。苦労を知っているアザニンはなんとも言えない苦笑いを返した。
激戦の連続。体には疲労が蓄積し、小さな傷も無視できなくなってきた。一行は、僅かながらも安全が確保された場所を見つけ、そこで応急処置を施し、貴重な休息の時間を取ることにした。重い空気が流れる中、小さなメルだけは疲れを知らない妖精のようにダンジョン内を飛び回り、Mr.トリックは意識を集中させ、電脳空間の微細な情報を静かに探っていた。
休息の沈黙を破ったのは、ハルカの静かな問いかけだった。
「エルさんが、そこまでしてメムさんをヴァイスの元から解放しようとするのは…どうしてなんですか?」
その瞳には、純粋な疑問と、エルに対する気遣いが滲んでいる。
エルは、その問いに一瞬言葉を探すように目を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げ、遠い記憶を辿るように語り始めた。
「…うん、そりゃ気になるよな。俺とメムは元々は孤児でな。話すとちと長くなるんだが。」
その声は、過去を思い出すように、少しばかり低く、そして感傷的だった。
彼の語り始めた過去。それは、陽の光も届かない、荒涼とした1層のストリートの風景だった。幼いエルとメム、そして、少し離れた場所にいつも一人でいるアザニン。3人は、明日をも知れない過酷な日々を、それぞれの方法で必死に生きていた。
ある日、エルとメムは、その日暮らしの生活から抜け出すため、ディスポーサブルサルベージャー(使い捨ての回収者)として、冷酷な業者に安価で買い取られた。大勢の同じような境遇の子供たちの中で、二人は手を取り合い、危険なダンジョンへと潜っていく。わずかな資源を拾い集める。それは、常に死と隣り合わせの、過酷な労働だった。そして、ついにその日は来た。ダンジョンの中で、二人は初めて死を経験し、常識外れの力、デッドギフトを得た。エルは、その身に鋭利な刃のような腕を宿し、メムは、全てを貫く異質な魔眼を手に入れた。他の子供たちは、得たデッドギフトを使いこなすこともできず、文字通り使い潰されるように、次々と6回目の死を迎えていった。
しかし、エルとメムは違った。手に入れた異質な力を理解し、互いを支え合いながら、その力を磨き上げていった。そして、いつまでもこの過酷な境遇に甘んじるわけにはいかないと、二人は決意した。命からがら、危険な業者から逃げ出し、希望を託してダイバーズオフィスへと駆け込んだ。ようやく、二人は正式なダイバーとしての、新たな人生を歩み始めたのだった。
才能を開花させたエルとメムは、互いを支え合い、その異能を磨き上げることで、着実にその実力を伸ばしていった。やがて、多くのダイバーが足を踏み入れることすら躊躇する3層まで、二人は到達できるほどの熟練したダイバーへと成長を遂げた。その道のりは決して平坦ではなく、幾度となく死線を彷徨い、その度に新たなデッドギフトをその身に刻み付けていた。
しかし、3層で、常識を覆すような事態が発生する。本来ならば遭遇するはずのない、夥しい数のエネミーの群れ、デッドスタンピードに、二人は否応なく巻き込まれてしまったのだ。
「まずいな、メム!逃げるしかない!!」
「二人じゃ逃げきれない!私がここで流れを逸らすからエルだけでも逃げて!!私には逃げられないけれど、エルなら逃げられる!!」
「バカな事言うなよ、二人で逃げるんだ。メム!メーーームッ!!」
その混乱の中、メムは迷うことなくエルを庇い反対方向へ突き飛ばすと、迫りくるエネミーの奔流に身を投じた。エルを逃がすために、自らの命を犠牲にして。そのおかげで、エルの方向へとスタンピードが来ることはなくエルは土埃の中へと消えていった。
「くそ、俺だけ生き残ってどうするんだよ!メム、メムを探さなきゃ。」
最愛のメムを失った喪失感は、エルの心を激しく打ち据え、彼はすぐにでも彼女のことを探そうとした。だが、その探索の中で彼に五度目の死が彼を襲う。その強烈な衝撃は、彼にとって何よりも大切だった記憶、愛しいメムに関する一切を、彼の脳内から跡形もなく消し去ってしまった。
「なんか、忘れてるんだよな。でも、もう何もしたくねぇんだよな。もう、5回も命を失ってるんだ。これ以上失うものは無ぇよ。怖えよ。もう、ダンジョンなんて潜りたくねぇよ。」
「ふむ、どうしたんだね青年よ。4層が見えていると言うところでギブアップかね。君ほどの才能だ、我輩と共に5層へ一緒に行こうじゃないか。無くしたものもそこで見つかるかもしれんよ?」
空っぽで彷徨っていたエルは、その頃、どこか浮世離れしたような、独特の雰囲気を身に纏うミストマン、Mr.トリックと出会うことになる。
Mr.トリックは、エルの中に五階層へと辿り着ける稀有な才能を見抜いていたが、大切な記憶を失ったエルは、ダンジョンに潜ることすらできなくなっていた。しかし、運命のいたずらか、偶発的に遭遇した五階層のエネミー、「バルバトス・フィレ」との激しい戦いの中で、エルは失いかけていた自信を取り戻す。そして、再び、彼は重い決意を胸に、危険なダンジョンへと足を踏み入れることを決意するのだった。
一方、アザニンは、エルとメムと同じ孤児院で育った少女だったが、当時の彼女はまだ幼く、エルとメムの危険なディスポーサブルサルベージャーとしての活動に同行することはなかった。それが幸いし、エルとメムの間に育まれた深い絆を唯一、鮮明に記憶する者となった。その後、彼女は失意の底にいるエルを見かね、彼の失われた記憶を取り戻すために、想像を絶するほどの多大な尽力をすることになる。
「てなわけでな。遠い回り道をしちまったんだが、アザニンのおかげで俺はメムのことを思い出せた。あいつをこのダンジョンの中に放っておくわけにはいかねぇんだ。俺が、あいつを解放してやらねぇと。いつまでもダンジョンの中で人間を殺すためだけの化け物のまんまなんだよ。」
寂しそうな眼差しで、エルはダンジョンの奥の方を見ていた。
その頃、探索において並外れた才能を持つメルと、電脳空間の深奥を自在に操るMr.トリック。この異質なコンビの連携によって、ヴァイスのコアの正確な位置特定が試みられた。メルは、その空飛ぶ小さな体を活かし、五層の隅々まで目を光らせ、微細なエネルギーの流れや、通常とは異なる空間の歪みを感知していく。一方、Mr.トリックは、人間には不可能な情報量を処理し、ダンジョンの根幹を流れるデータストリームへと侵入し、ヴァイスの痕跡を追いかける。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。ヴァイスのコアは、まるで生き物のように、ダンジョンの中を不規則に移動していたのだ。その動きは予測不可能で、定点に留まることはほとんどない。通常の探索方法では、広大な五層の中で、その隠された中枢を見つけ出すのは、ほぼ不可能に近いと言えた。
メルが感知する微かな異常反応と、Mr.トリックがハッキングによって掴む断片的なデジタル情報を、二人でパズルを組み合わせるように照合していく。その緻密な作業の末、ようやく、捉えどころのないコアの予測される場所が、徐々に絞り込まれていった。




