第88話 デッドライン、再び
暗く、不気味な機械工場地帯を抜けた一行の目に、突如として眩い光が飛び込んできた。それは、まるで夜空に浮かぶ星のように、周囲の暗闇を強烈に照らし出している。光の源に近づくと、そこには白く輝く巨大な建造物が姿を現した。壁は分厚く、まるで要塞のようにそびえ立ち、その正面には「第五層ダイバーズオフィス」という無機質な文字が、蛍光塗料で力強く記されている。
その大きさは、一行が第一層で目にしたシティホテルに匹敵するほどだ。この危険な第五層において、これほど巨大で堅牢な建造物が存在すること自体が驚きだった。周囲は高い壁で完全に囲まれ、侵入を拒むように威圧感を放っている。
正面には、一台の戦車が辛うじて通れるほどの巨大なゲートが口を開けている。その前には、屈強な体格のガードマンが四人、仁王立ちしていた。彼らは、全身を重厚な強化鎧で覆い、手には禍々しい形状の銃器を携えている。その表情は一様に険しく、近づく一行を鋭い眼光で射抜いている。
一行がゲートに近づくと、ガードマンの一人が低い、しかしよく響く声で制止してきた。その声には、有無を言わせぬ威圧感が込められている。
「そこにいる者たち! これ以上、この先に近づくのなら、貴様らがダイバーであるという証明を見せろ! ダイバー以外の者は、一切ここへの立ち入りは認めん! 今すぐ引き返し、安全な第四層へ戻るんだ。それが、貴様らと我々双方にとって最善の道だ!」
彼の言葉は、この場所が容易に立ち入れる場所ではないことを明確に示していた。
メルは慌てて腰につけたダイバーズライセンスを取り出し、ガードマンに提示した。小さな手でやや大きめの金属プレートを掲げる姿は、どこか懸命で、その必死さが伝わってくる。ユラもまた、小さな体に似合わない無骨な指でライセンスカードを示し、警戒するガードマンたちに無言の圧力をかけた。
しかし、アモットの腕の中で抱えられたハルカは、ただ苦悶の表情を深めるばかりだった。ゾンビとしての衝動が彼女を蝕んでいる。喉からは低い唸りが漏れ、顔は歪み、ダイバーであることを示すどころではなかった。
ガードマンのリーダー格らしき男は、厳しい表情を崩さなかった。
「証明ができない者をこの中に入れることはできない!ここは第五層において、数少ない人間たちの砦なのだ。 ここの安全は最優先事項だ。」
彼の言葉は冷徹で、一切の例外を認めないという強い意志が感じられた。ハルカをこの危険な場所に置いていくわけにはいかない。アモットは無言で踵を返し、ユラとメルも諦めて後に続こうとした、その時だった。
「その人、ちょっと見せて欲しいのだけれど。」
ゲートの奥、強固な壁の向こうから、鈴を転がすような、しかしどこか落ち着いた声が響いてきた。警戒していたガードマンたちが、その声に一瞬動きを止める。
声の主は、ゆっくりとゲートに近づいてきた。現れたのは、年齢は20代前半だろうか、どこか神秘的な雰囲気を纏った女性だった。長く黒い髪には、幾つもの骨飾りや羽根飾りが編み込まれ、独特の装飾が施されたローブを身につけている。髪からはみ出て伸びる耳は長く、エルフのそれであった。その瞳は深く、吸い込まれるような魅力を持っていた。
「私のこと覚えてるかしら?以前会ったわよね?アザニンよ。」
と、女性は穏やかな口調で自己紹介した。そして、ハルカをじっと見つめ、憂いを帯びた表情で言った。
「その症状…、のっぴきならない状態のようね。私でよければ、治してあげられるかもしれない。いでよ【克海月】!このものの邪なる呪いを奪いとれ!!」
アザニンの言葉と同時に、周囲の空気が一変した。押し退けられたガードマンたちが体勢を立て直す間もなく、彼女を中心に眩いばかりの青い光が奔流し、床に複雑な紋様を描き出した。それはまるで、深海の底で静かに瞬く星々のようだった。
魔法陣の中央、光の奔流が収束した場所に現れたのは、息をのむほどに美しい存在だった。【克海月】と名付けられたそれは、透き通るような青い傘を持ち、無数の繊細な触手をゆらめかせている。まるで生きた宝石のようでありながら、どこか神秘的で、この世のものとは思えない幻想的な雰囲気を漂わせていた。その動きは緩やかで優雅であり、見ている者の魂を静かに洗い流すような力を持っていた。
克海月は、アザニンの意志に応えるように、ゆっくりとハルカへと近づいていく。その青い光を帯びた触手が、まるで意思を持つかのように、ハルカの熱を失った頬へとそっと触れた。接触した瞬間、ハルカの身体から黒く淀んだオーラのようなものが、まるで煙のようにゆっくりと吸い上げられていくのが見える。それは、彼女を蝕んでいたであろう苦痛や不調の具現化のように見えた。
アザニンの表情は真剣そのものだった。彼女の瞳もまた、克海月の青い光を映し出し、深い青色に染まっている。
「…この召喚術で一時的な回復なら、私にもしてあげられるわ。だけど…。」
彼女の声は、先ほどの緊迫した状況とは打って変わって、穏やかで慈愛に満ちていた。しかし、その言葉の最後は、何かを憂うように、静かに区切られた。彼女の視線は、回復していく様子のハルカから、アモットたち一行へとゆっくりと移り、その瞳には複雑な感情が宿っていた。彼女は言葉を区切り、一行を静かに見つめた。
「完全に元に戻すことは、残念ながらこの召喚術じゃ無理ね。完全に回復するには、そのゾンビ化を施した人物に直接訊くのが、おそらく最も確実な方法だわ。」
アザニンの言葉は、一行に新たな希望の光を灯すと同時に、重い課題を突きつけた。その言葉は、ハルカの心に重く響いた。差し伸べられた一時的な救済は、まるで砂の城のように脆く、刻一刻と崩れ落ちる運命にある。
「この回復で保てる理性は一週間程度。その次は四日前後、二日、一日、半日、その次は残念だけど…。」
彼女の静かな口調が、事態の深刻さをより一層際立たせる。
ハルカは、自身の体に起こっている異変を冷静に受け止めようとしていた。辛うじて繋ぎ止められた理性で、状況を分析する。
「その間に私はこの体の問題を把握して、取り除かねばならないということですね。アザニンさん。」
アモットに支えられた彼女の声は、わずかに震えているものの、決意を宿していた。
アザニンは、ハルカの言葉に深く頷いた。
「ええ、その通りよ。そして、そのカギを握るのはおそらく…ヴァイス。」
彼女の視線は、遠い一点を見つめるように、どこか憂いを帯びている。「彼を倒すというのなら、私たちも同行しましょう。この第五層で、あなた方が単独で動くのはあまりにも危険ですわ。ついてきてください。私の連れがこの先のホテルに泊まっています。」
そう言うと、アザニンは優雅な身のこなしで歩き出した。彼女の長い黒髪からはみ出た長耳が静かに揺れる。その後ろを、アモットがハルカを抱え、ユラとメルが警戒しながら続く。ダイバーズオフィスの堅牢な壁の中に、束の間の安息を得た一行だったが、ハルカに残された時間はわずかしかない。
アザニンに導かれた一行が足を踏み入れたのは、この砦の中の一室だった。部屋の中のソファに座り込んでいたのは、まさしく重装備の戦士だった。全身を覆うくすんだ白銀のパワードスーツは、滑らかな曲線を描きながらも、各部に無数の装甲板が配され、鉄壁の守りを誇っている。その素材は、現代の技術では再現不可能と思われるほど洗練されており、失われた古代文明の遺産を彷彿とさせる。
その姿は、テックパラディンのジョブと思われた。しかし、パワードスーツの無骨な装甲には、無数の傷跡が刻まれていた。抉られたような深い傷、擦り切れたような浅い傷、そして何か高熱で焼き焦げたような痕跡。それは、彼がこれまで幾度となく死の淵を彷徨い、激しい戦闘を繰り広げてきた生々しい証だった。その傷跡は、彼の強靭さを物語る一方で、決して傷つかない存在ではないという現実を静かに主張していた。
滲み出る異様な雰囲気は、その身に宿る【デッドギフト】の数によって、さらに際立っていた。通常、死から蘇る際に一つ得られるはずの異能が、彼にはまるで勲章のように、明確に五つも視認できたからだ。
まず目を引くのは、彼の左足に発現している力だろう。それは、まるで地面を這う黒い蔦のような模様として浮かび上がり、常に微かに蠢いている。次に、パワードスーツの右腕部分。パワードスーツの装甲の隙間から覗く肌は鋭利な刃物のような形状をした黒い突起物が無数に生え並び、まるで捕食者の牙のように異様な威圧感を放っている。それは、近接戦闘において絶大な破壊力を生み出すための武装であることは一目瞭然だった。
対照的に、彼の左腕は生身の皮膚ではなく、冷たく無機質な金属製の義手に置き換えられていた。その表面は滑らかで光沢を帯び、継ぎ目一つない完璧な造形は、失われた腕の代わりというよりも、むしろ高度な機能を持つ機械的な兵器のような印象を与える。その素材の硬質さからは、強靭な握力と防御力が想像できた。
そして、彼の肌そのものにも二つの異なる力が宿っているのが見て取れた。一つは、皮膚の表面に細かな鱗のような模様が浮かび上がり、光を鈍く反射させている。これは、常人離れした防御力を持つことを示唆しているだろう。もう一つは、顔にまで覆う幾つもの金属線。ただの皮膚ということはなく、強化された硬質版が薄く張られている。
ここまでデッドギフトを得てしまった彼はつまり、既に蘇生能力を使い果たしている。デッドギフトを五つも持つということは、少なくとも五回は死線を乗り越えてきた証であり、同時に、もう後がないという極限の状態を示唆していた。
そのような状況で、危険極まりないダンジョンの深層に自ら足を踏み入れる。それは、生半可な覚悟では到底なしえない行為だ。
彼はおもむろにパワードスーツのヘルメットを脱いだ。男の素顔は、第一印象として凡庸という言葉がぴったりだった。黒々とした髪は手入れもされず伸び放題で、顎には無精ひげが粗野な陰影を落としている。一見すると飄々とした、掴みどころのない雰囲気だが、時折細められる眼光は鋭く、獲物を射抜くような力を持っていた。しかし、その顔の輪郭にも、眉尻のあたりや頬骨のわずかな場所に、小さな傷跡が刻まれていた。それは、パワードスーツで守りきれなかった彼の過去の戦いの記憶を静かに語っていた。
男は、視線を一行の一人一人にゆっくりと走らせた。まるで値踏みをするかのように、その奥には確かな観察眼が宿っている。そして、片方の口角をニヤリと持ち上げた。それは、挑発的な笑みというよりも、友人との再会を楽しむような、どこか含みのある笑みだった。
「よぅ、アザニンから連絡は受けてたぜ。久しぶりだな、嬢ちゃん達。5階層まで来てるとは驚いたぜ。俺の名前を覚えてるか?デッドラインのエルさ。」
その声は、パワードスーツの厳めしい外見や顔の傷跡からは想像できないほど、気さくで落ち着いた響きを持っていた。長年の経験からくる自信と、多少の皮肉やユーモアが混ざり合ったような、独特のトーンだった。
「あんた達が良いなら、俺たちも同行させてもらおうか。ま、俺たちもアイツに用があるんでね。」
エルの言葉には、明確な目的意識と、それを達成するための揺るぎない自信が滲み出ていた。そして、「アイツに用がある」という言葉は、彼らが単なる通りすがりではなく、この地に何らかの目的を持ってやってきたことを明確に示していた。その口調からは、困難な状況も乗り越えてきたであろう、歴戦の戦士の風格が漂っていた。




