第87話 5層へ
薄暗い回廊を歩く姿が見える。大きな影に抱えられた小さな影。魔導ゴーレムのアモットの硬質な腕に抱きかかえられたハルカは、まるで壊れかけた人形のようだった。かつては鮮やかな光を宿していた瞳は、今は濁った灰色に染まり、焦点を結ぶことがない。その顔は苦悶に歪み、時折、意味不明な言葉が乾いた唇から漏れ出る。それは言葉というより、喉の奥から絞り出される獣の唸りのようだった。
細く白い指先は、まるで枯れ枝のように不自然な角度に曲がり、絶えず何かを探し求めるように痙攣している。それはかつて、繊細な動きで魔法を紡ぎ出した手とは似ても似つかぬ、捕食者の爪だった。肌は生気を失い、微かに青みを帯び、アモットの感覚にはおよそ体温とよべる温度が伝わってこなかった。
時折、ハルカの体はびくりと痙攣し、まるで見えない何かに怯えているかのようだ。その度に、アモットの金属でできた腕が小さく震える。彼女は、かつて共に笑い合った仲間が、今や理性のかけらさえ失いかけ、ゾンビとしての本能に蝕まれていく様を、ただ静かに見守ることしかできなかった。ハルカの口元からは、乾いた、掠れた呼吸音だけが聞こえてくる。それは、生命の灯が今にも消え入りそうな、痛ましい音色だった。
こんな時に自分に出来ることは多くない。他のメンバーを襲わないようにハルカの動きを制限してあげるのが精一杯だった。
第五階層。その名は、熟練のダイバーたちの間でも、畏怖の念を抱かせる場所だった。上層のそれまでとは対照的に、ここでは生きた人間の気配は極めて稀薄だ。吹き荒れる奇妙な風の音、不気味な機械の唸り、そして未知の生物の気配だけが、この階層の異質な静けさを際立たせている。
かろうじて機能しているダイバーズオフィスでさえ、その運営は人的損失を最小限に抑えるため、無数の無感情なロボットたちに委ねられている。彼らは、決められたプログラムに従い、淡々と業務をこなすのみ。その無機質な光景は、この階層の危険度を静かに物語っている。
かつては、深層への探求こそがダイバーの誉れだった。しかし、第五階層の圧倒的な危険度を前に、多くのダイバーたちは考えを改めた。今や、この深層に足を踏み入れたという事実だけで、十分な箔がつく。命を危険に晒し続けるよりも、得た知識や経験を活かし、より安全な上層、具体的には第四層より上で新たな道を見出す者が圧倒的に多いのだ。
熟練のダイバーたちは、その経験を活かし、新人ダイバーたちの教官として後進を育てる。あるいは、培った戦闘能力を活かし、上層の安全を守る専任のガードマンとして活躍する者もいる。中には、深層探索で得た貴重な知識や発見をまとめ上げ、学者として学会に身を投じるという、異色のキャリアを築く者もいる。多くが上層で別の生き方を模索する、いわば終着点なのだ。
したがって、ここで活動するダイバーは何かしらの特別な目的を持つものが多い。完全に死んでしまった者の蘇生を望むもの、地上の復活方法を調べるもの、マザーの停止方法を調べるもの、古代遺跡の完全な操作マニュアルを求めるものなど他の階層では得られないものばかりだ。
第五階層は、野心的な探求者たちの墓場となるか、あるいは、新たな人生の出発点となるか。いずれにしても、生半可な覚悟では足を踏み入れることのできない、特別な場所なのだ。
長い金属製の廊下をキラキラとした揺らめきが踊っていた。その体躯は、手のひらに乗るほどの小人サイズ。ティンクのメルは背中に二つある金属球で重力を操り、彼女を浮かせている。
両手に握られたチャクラムは、その小さな手には不釣り合いなほど大きく見えるが、彼女はそれを自由自在に操る。宙空を滑るように移動しながら、両腕にそれぞれもったチャクラムはまるで彼女の意思を持つかのように、くるくると回転し、周囲の警戒を怠らない。
その小さな顔には、子供のような愛らしさと、どこか達観したような冷静さが同居している。ふわふわと漂う姿は、まるでタンポポの綿毛のようにも見えるが、その瞳の奥には、いかなる敵も見逃さない鋭い光が宿っている。
彼女の小さな体は、空中で驚くほど機敏に動き、急な方向転換や静止も意のままに行う。その存在は、危険な五階層において、一服の清涼剤のようでありながら、同時に、決して侮れない警戒の象徴でもあった。
その後ろに子供ほどの背丈になったユラはアモットの抱えたハルカに付き添い、その小さな掌をハルカの額にそっと当てていた。彼女の体内から湧き上がる温かいチャクラは、青緑の輝きでハルカの体を優しく包み込む。しかし、その光はまるで弱々しい蝋燭の炎のように消えていき、ハルカの苦悶の表情を和らげるには至らなかった。
ユラの小さな顔には、明らかな焦燥と申し訳なさが浮かんでいる。額にはうっすらと汗が滲み、普段は力強いその瞳は、今は痛ましいほどに沈んでいる。
「アタシの力じゃ、ハルカを元に戻すことは出来なさそうだ。スマン…。」
絞り出すような声は、普段の彼女からは想像もできないほど小さく、震えていた。
その言葉に、金属の巨体を持つアモットが静かに応じた。
「ユラチャンノセイジャ無イヨ。」
彼女の無機質な声には、慰めようとする精一杯の感情が込められているようだった。しかし、ユラはその言葉を受け止めても、すぐに気の利いた返事を返すことができなかった。
彼女は、ハルカのやつれた頬を痛ましげに見つめ、自身の力の無さを痛感していた。タンクとして、仲間を守る盾となるだけでなく、ヒーラーとして傷ついた仲間を癒すこともまた、彼女の重要な役割だった。それなのに、今、最も助けを必要としているハルカを救えない。その事実が、ユラの小さな胸に重くのしかかっていた。彼女は、ただ俯き、握りしめた小さな拳を震わせるしかなかった。
5層の集落を探すために足を踏み入れた瞬間、一行は異様な光景に息を呑んだ。広大な空間に無数の無機質な機械が整然と立ち並び、まるで意思を持たない巨大な昆虫の群れのようだ。鈍い金属音、けたたましいモーター音、そして何かが煮詰まるような異臭が、絶え間なく空間を満たしている。
それぞれの機械は、複雑なパイプやベルトコンベアで繋がり、まるで巨大な生体器官のように脈動している。その先端からは、奇妙な形状をした物体が次々と生成され、流れ出ている。それは、一見すると食べ物のようにも見えるが、色彩は不自然で、表面はぬめりとしていたり、奇妙な突起が生えていたりする。甘ったるいような、腐敗臭のような、形容しがたい匂いが鼻腔を刺激する。
ベルトコンベアの上を流れる「食べ物」たちは、まるで意志を持っているかのように蠢いているものもある。中には、小さな手足のようなものが生えかかっており、ピクピクと動いているものさえある。それらは、次の機械へと運ばれ、そこでさらに加工されるのか、あるいは箱詰めされてどこかへと運ばれていくのか、その先は暗闇に包まれて見えない。
この異様な工場は、どこまでも延々と続いているようだ。薄暗い照明の下、無数の機械が黙々と怪しげな物体を生成し続ける光景は、まるで悪夢の中に迷い込んだかのようだ。生命の温かさは微塵も感じられず、ただただ無機質な音と異臭だけが支配している。ここで作られているものが一体何なのか、そしてどこへ運ばれていくのか、想像するだけで背筋が凍りつくような不気味さが漂っていた。
「本当にこの先に街なんてあるのか…?」
ユラの呟きが、静寂の中にぽつりと落ちる。彼女の言葉は、一行全員が抱く疑問を代弁していた。噂では、この深層にも人の集落があり、そこにダイバーズオフィスが存在すると言われていた。しかし、今のところ、それを裏付けるような兆候は全く見られない。アモットの金属の足音が、乾いた地面に虚しく響く。彼女は、周囲の状況をスキャンするように、無機質な視線をゆっくりと巡らせている。メルは上空を警戒するように飛び回り、少しでも人の痕跡がないかを探している。しかし、彼女の小さな視界に映るのも、やはり荒涼とした風景だけだった。




