認めたくない始まり
世の中には知らなくても良いこと、というものがある。
例えば寿命など知っても避けられない事柄や認知が出来ず証明出来ないことなどは知っても意味がない。
要するに不安だけを煽るだけの対処が出来ない事柄は知る必要がない。
死にたくないと言っている人にこの後あなたは死にますと教えても変えられなければ知る意味などないのだ。
変える努力をするために知りたいと言う人も中にはいるが、大抵は嘆くだけで動きもしない。
それでも変わる確率が僅かでもあるのなら教えても良いとは思う。
けれど、変わる確率が全くのゼロだと知っているのに教えることに意味があるだろうか。
伝えることにより回避できたり変化の行動が出来ることは除くが、
大抵は知ったとしてもその通りになるから怒りや悲しみを倍増させるだけだ。
知ってメリットがないのならば最初から知らない方が良い。
知る方にも教える方にもプラスがなくマイナスだけを背負うのならば、
最初から黙っていた方がずっと良い。
私はずっと、そう思っている。
だから何を聞かれても伝えることはなかった。
この言い方は正しくないのかもしれない。
口を開いたとしても相手は信じない。伝えても伝わらない。
結果伝わることがなかった。
何を伝えても納得するかどうかは相手次第だし、納得したいと思ってくれる相手でなければ何を伝えても重箱の隅をつつかれて終わる。
相手が冗談だと信じ切っている事柄をこちらが丁寧に説明したところで、
相手の中では納得しないだけでなく「自分がわかるように何も説明しない、何も教えてくれない人」と判断が下る。
ただそれだけのこと。
別に理解を求めるわけじゃないし、わからない相手に信じろというのも無謀な話だ。
だから別にこちらからは理解して貰おうとは思わない。
理解しようとしない人に理解してもらうことは不可能なのだから、説明するだけ無駄だ。
こちらからは理解の強要はしないから、納得しようともしていないのに聞くのはやめて貰いたい。
そう思っているだけだ。
「葵」
いつの間にか部屋に侵入していた男が私の名を呼んだ。
「ご機嫌ななめか?」
白い指が私――葵の頬を伝う。
一体誰が信じるだろうか。
当人以外には証明しようがないことなんてどう信じてもらえるのだろう?
事実はいつだって残酷に目の前に襲い掛かるのに、誰も信じてはくれない。
理解しにくい事実には誰だって冷酷になるだろうから、仕方ないのかもしれないが。
それを理解してるからこそ葵はため息を吐くしかなかった。
「喋りたくない」
「おやおや」
冷たい葵の言葉にも目の前にいる男は左手に持っていた扇子の先端を唇に軽く押し当てくつくつと笑って見せた。
その笑みは葵を馬鹿にした嘲笑にも受け取れるし、愉快そうに失笑したようにも受け取れる。
見た目の仕草は優雅だがその眼光は鋭い。まるで夜中に見つけた猫の瞳によく似ている。
「”幼馴染”に対して厳しいな」
「何が幼馴染よ。嘘吐きは嫌いなの」
鼻だけで笑われた。
今度はわかる。これはからかわれている笑いだ。
「奇遇だな。私も嘘吐きは反吐が出るほど嫌いだ。
……けれど間違いではないだろう?私は嘘は吐かん」
悲しみなのか憤りなのか、複雑な気分になる。
諦めに近い感情かもしれない。
けれど悟らせてはいけない。
葵は表情に出さないように男を睨み付けた。
気丈に振る舞わなければ泣いてしまう。
それは嫌だ。
泣き崩れるなんて、そんなこいつに弱みを見せるような真似は絶対にしたくない。
「その体は翔のものでしょう」
「今は私のものだよ、葵」
黒目に見える男の瞳は、揺れる色の中に違う色を秘めている。
金色だ。闇夜に灯篭を灯したような赤みがかった金色が瞳の中で光っている。
「翔……」
「それは正しいけれど間違いだ。お前は嘘が嫌いなのだろう?
ならばきちんと呼べ」
――――安倍晴明、と。
そこで葵の怒りは頂点に達した。
「その体はあなたのものじゃないわ!翔の体なのにあなたの体のように言わないで!
いい加減に……!」
男の唇が愉快そうに吊り上がったのを見て、ハッとなった。
怒りを表現しては駄目だ。こいつの思い通りになってしまう。
なんとか怒りを鎮め、顔を逸らした。
見ていたら怒りで頭がおかしくなる。
「くくっ……」
けれど遅かった。
葵の反応はこの男を楽しませるのに充分だったみたいだ。
やっぱりこの男は性格が悪い。
「いつになれば、翔を返してくれるの」
怒りを抑えた震える声は不格好に見えただろうが、今の葵に気にしている余裕はなかった。
「返せと申すか。それは適切な言葉ではないな。私がこの体を無理やり奪ったわけではないのだから」
「あんたが嵌めたんでしょうが……!」
「まあ、どのような判断をしようがお主の自由。
別に構いはせぬが……しかし他者にものを頼む態度ではないな?」
男の指先は葵の頬を伝って無理やり葵の顔を自分に向けさせた。
決してときめくような仕草ではない。ただ暴力的に葵の顔を無理やり動かしただけだ。
「せめて私の名を呼べ。でなければ話に応えてやる気にもならぬわ」
その屈辱をこいつは知っているのだろうか?
男の名前を呼ぶということはその体を否定するということ。
否、理解して言っているのだろう。
こいつは性悪だ。
「ほうら、どうする?」
身長差もあって、見上げさせられるのも腹が立つ。
「性格が悪いわ」
「ふむ、良い性格とよく言われるが」
「減らず口」
「誰かと話すというのも久しぶりでなあ、少々興奮しているのも否めぬ。
されど何か欲するのであれば礼儀というものがあろう?
情報も私の時代では命がけで得るものだ。それを何の対価もなくで渡すとでも思うのか?」
「……安倍晴明」
これ以上張り合っていても埒が明かない。呼ぶくらいで情報を得るなら安いもの。
そう思って、観念した。
「ふっ……」
そうしたら、自らの唇に手の甲を当てて笑い出した。
呼べと言うから呼んだのにこいつのツボはわからない。
ただからかいたかっただけかもしれないが、こっちとしてはたまったものじゃない。
「呼んだわ!翔を返して頂戴」
とにかくこれでもう減らず口を聞かなくて済む。
催促するが、男は笑うばかりだった。
「早く、」
答えなさい、と言おうとすると男が口を開いた。
「晴明」
「え?」
「そういえば家として来ているわけではないのでな。
名だけで呼び直せ」
「はあ?」
「ほれ」
「呼んだことにかわりはないでしょう?さっさと翔の体から出て行って!」
「ふむ」
そこでようやく男は葵の頬から指を離した。
「しかしなあ、これはこの体の主との契約。それは誰にも覆らんものだ。
この体に憑いたのが私で良かったと思うべきだぞ?」
そう、安倍晴明と名乗るこの男は葵の幼馴染である翔の体を乗っ取ってここにいる。
体は紛れもない葵がよく知る幼馴染の体だ。
なのに今中身は安倍晴明と呼ばれるものに取って代わられたらしい。
最初は翔が葵をからかって他の名前を名乗ってふざけているのだと思った。
男の子がよくある特撮ものの真似なのだろうと考えたが、
今目の前にいる翔……もとい、安倍晴明の瞳を見ているとそれが本当だと実感させられる。
翔の瞳は紛れもない黒色だ。
けれど今の瞳の色は、一見黒に映るもののよく見ると金色の陽炎が揺れている。
葵も自分で体験しなければ疑った。否、今でも疑いたい。
大切な幼馴染の中身が別者だなんて、信じたくない。