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夏風に薔薇⑤

 私と綾音ちゃんはそのまますぐに家を出て、海岸がある方向へと向かって、狭い狭いあぜ道を歩いていく。強い日差しに抵抗するかのようにできた二つの濃い影が左手に広がる田んぼに伸びている。私の影と、私より頭一個分だけ線低いもう一つの影。私は隣を歩く彩音ちゃんに目を向ける。高校生二年生と紹介されたが、中学生と言われても驚かないくらい小さな体に、小麦色に焼けた肌。肩に届かないくらいの長さの髪は線のように細く、太陽の光を反射してできる光輪が眩しかった。


「正直、実感が無いんです。姉と言っても、長期休暇の間に顔を合わせるくらいの関係でしたから」


 大変だったねと、声をかけた私に、綾音ちゃんは私の方を振り返ることなく答えた。


「私と姉はそれぞれ連れ子で、三年前に家族になったばかりなんです。私が父の連れ子で、姉が母の連れ子。先程の家は元々母と姉の家で、私と父がそこに転がり込んできたんです。血もつながっていませんし、私が今の家に来たときはもうすでに、姉は高校生で寮生活を送っていましたから。姉から聞いてませんでした?」


 言葉に詰まりながらも、私は正直に知らなかったと言った。片岡さんに妹がいることは知っていた。しかし、彼女の家庭環境がそんな複雑だったとは思いもよらなかった。家庭環境について彼女から聞かされていなかったことを不審がるだろうか。私は少しだけ不安になったが、綾音ちゃんはまるでそれが当たり前であるかのように頷いて見せるだけだった。


「姉は自分のことをあまり話したがりませんでしたし、それに姉自身、表には出さなくても、母親の再婚にすごく不満を持っていたんだと思います。私も直接姉から聞いたわけじゃないので、推測でしかないですけど」


 海の匂いが強くなる。あぜ道に生えたすすきが風に吹かれて左右に揺れる。


「私も姉もどっちも人見知りしちゃうタイプですし、長期休暇で姉が帰省しているときも、世間話をする程度で、なかなか仲良くなれなかったんです。姉から何とか歩み寄ろうとしてくれた時期もあったんですけど、まだ新しい母親とか新しい土地に慣れなくてギスギスしていた時期で、どうしようもなくよそよそしい態度しか取れませんでした。喧嘩でもできればまた距離を近づけることができたのかもしれませんが、お互いに気を使っちゃうだけで……。喧嘩するよりはマシだって以前は思ってましたけど、今思えば、それよりもずっとひどいことをしていたのかもしれません」


 私はサークルでの片岡さんの姿を思い出す。彼女は確かに優しい人だった。優しくて、大人しくて、人の悪口は言わない人だった。でも、優しいからという理由で誰かと友だちになるわけではない。どんなに優しくても、いい人でも、一緒に居て楽しいことを共有しなければ、お互いに何を考えているかを理解し合えなければ、決してその人と仲良くはなれない。だからこそ余計に、切なかった。


「ありがとうございます。姉と友達になってくださって。あと、ごめんなさい。姉の友達なのにお葬式に呼べなくって。実際、姉が文芸サークルに所属していたことは知っていたんですが、誰と仲が良いとか私達家族は知らなくって」

「……自殺してから三ヶ月も立って手を合わせにくるような人なんか、友達とは言えないよ」


 私は綾音ちゃんから目をそらしてそうつぶやくこととしかできなかった。それから私と綾音ちゃんはお互いに言葉を見失い、長い長い一本道を何も言わずに歩き続けた。こんなに空が澄んでいるのに、こんなに緑と海のいい匂いがたちこめているのに、こんなに切なさで胸が締め付けられるのだろう。こんなに彼女のことを考えているのに、こんなに彼女のことを知りたいと思っているのに、どうしてここに彼女がいないのだろう。


「どうしたら良かったと思う?」


 なんでこんな質問を、片岡さんの妹さんにしたのかわからなかった。それでも私は救いを求めるようにその言葉をつぶやいた。夢に出てきた片岡さんの言葉を思い出す。もっと声を掛けていればとか、もっと色々とおしゃべりをしていればとか、そんなのは彼女が自殺してしまったからそう考えているに過ぎなかった。結局死んでからじゃなければ私はこうやって片岡さんのことを知ろうとしなかったし、何なら、今現在も彼女と同じようにただ顔見知りと言うだけで仲良くもない人など数え切れないほどにいて、彼らのことを私が知りたいと思っているかと言われれば、正直言葉に詰まる。そういう人たちに片っ端から声をかけていればよかったのだろうか。私の周りにいる人間と、一人残らずなかよくなりさえすればいいのだろうか。でも、それは無理だということを知っている。周りのすべての人間を助けるにはあまりに私達は無力だったし、あまりに私達は身勝手だから。


 あぜ道を抜け、緩やかな坂道を登っていく。坂道を登りきると一気に景色が広がり、白い砂浜とどこまでも続く日本海が視界いっぱいに広がっていた。視界の片隅に見える車の駐車場には数台のワゴン車が駐車されていて、砂浜には大学生と思われる若い男女や家族連れの姿が見えた。彼らは真夏の太陽の元、気持ちよさそうに海辺ではしゃいでいる。彼らの中の一人が自殺してしまった時、きっと、今あそこで一緒に遊んでいる人たちはすごく嘆き悲しむだろう。実際、私も一緒に海に遊びに出かけるようなお友達が自殺してしまえば、今感じている胸の痛みとは比較できないほどに強く胸が張り裂けてしまう。でも、片岡さんは? 文芸サークルの中に、彼女の自殺を自分の痛みのように思ってくれる人がいただろうか。休みがちで友達もあまりできなかった大学に、彼女の苦しみに気がついてくれる人がいてくれただろうか。


「別に姉は精神的に弱い人だったというわけでもなかったと思います。優しい人だったし、自分のことをきちんと見つめることができる人だったと思います。でも……最終的に人を救うことはできるのは、人と人とのつながりじゃないですか」


 夏風がそよぐ。遠くで海水浴客の楽しげな話し声が聞こえてくる。


「姉はただ、人と繋がることが苦手なだけだったんだと思います。ただ……それだけだったんだと思います。苦しいときは近くにいる誰かに助けを求めようとか、友達が苦しんでいれば大丈夫って声をかけてあげようとかってよく言うじゃないですか。でも、自分の苦しみに気がついてくれるだけの友達とか、自分の苦しみを打ち明けられるだけの友達を作れない人はどうすればいいんでしょう。誰とも繋がれなかったり、そもそも人と繋がることが苦手な人はどうやって苦しみを乗り越えればいいんでしょう。助けてと言わない人の苦しみに気づくことはできないし、そもそも繋がってすらいない人のことなんて考えたりしない。そんな人を救うのは……あまりにも難しいと思いませんか」


 だからあなたが罪悪感を覚える必要はないんですよ。私は綾音ちゃんにそう言ってほしかったのだろうか。妹とも家族とも、心を開いて繋がることができなかった彼女が悪いのだからとか、結局私達はどうしようもなかったとか、私は綾音ちゃんに、いや誰かからそう言ってほしいのだろうか。


 私達は海岸近くまで降り、テトラポッドの上に並んで腰掛ける。寄せては返す波の音が観光客の歓声にまぎれて聞こえてくる。綾音ちゃんは何も言わなかった。何も言わず、ただ海と空との間の一筋の青い線を、何かを探すようにじっと見つめるだけだった。私もまた何も言わずに目の間に広がる景色を見つめ続けた。片岡さんが生まれ育ち、きっと子供の頃からずっと見てきたであろう、太陽の光を反射してきらめく夏の日本海を。


「皮肉ですよね」


 綾音ちゃんがおもむろに立ち上がって言った。私達の後ろを一台の車がゆっくりと駆け抜けていく音がした。


「あれだけ人と繋がるのが苦手だった姉が、自殺することでようやく誰かと繋がることができるなんて」

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