夏風に薔薇④
電車に揺られ、北能代駅で降車する。緑色のきっぷ入れに秋田駅からのきっぷを入れ、えんじ色の屋根を被った小さな駅舎から、外へ出る。木陰はまだ少しだけひんやりとしていたが、日向にでると一気に体感温度が上がり、チリチリと肌を焼くような暑さが身体を包み込む。駅舎は高台にあり、丘の向こうには日本海が広がっていた。キラキラと海面は真珠をばらまいたみたいに輝いていて、空との境界が上手く見分けられないほどに青く澄んでいた。
「南玲香さんですか?」
その風景をぼんやりと眺めていると、後ろから声をかけられる。振り返るとそこには細身の中年女性が立っていた。夏のせいか肌は少しだけ焼けていたが、健康的なその肌の色とは対象的にその顔は少しだけやつれていた。片岡さんの顔をパッと思い出すこともできないのに、私は彼女が片岡さんの母親だとすぐにわかった。私は頭を下げ、自己紹介を行うと、片岡さんの母親も「遠いところからわざわざありがとうございます」と形式的な挨拶をすまし、路肩に止めていた車へと案内してくれた。
白のプリウスの助手席に乗り込み、そのまま車は海へ向かって走り出す。道中、私は片岡さんのお母さんと当たり障りのない会話しかできなかった。暑いですね、とか、東北は初めてですとか、そんなこと。私と片岡さんだってそれほど会話を弾ませることができなかったのに、彼女の母親とすぐに打ち解けられるはずがない。案の定すぐに会話が途切れ、タイヤが地面をこする音だけが悲しく車内にこだまする。どうしてこんなところまで来てしまったのだろうかと、私は今更になって考えてしまう。車内に吹き込まれる冷房のかび臭い匂いと、芳香剤の匂いが混ざり合って、少しだけ胸がムカムカする。握りしめた手のひらから気持ち悪い汗が滲み出ている。まるですべてがここにいる私がいるを非難しているみたいだった。今更何のつもりのなの。片岡さんは決してそんなことは言わない人だった。でも、そんな思い込みでさえも、私と片岡さんとの埋められなかった溝をどうしようもなく表しているようで。
整備された通りを抜け、田園に囲まれたあぜ道を抜け、木造の古い家の前に車が停まる。車を降りると、暑さは一段と増していて、海の香りもさらに濃くなっていた。熱せられた車の取っ手から手を離し、私はお母さんに案内されるまま敷地の中に入る。
石畳の道を歩きながら、ふと家の庭へと目を留める。庭はきちんと手入れされていて、夏らしい色鮮やな花が咲いている。プランターに植えられたピンク色の千日紅。低い位置にひょっこりと顔をのぞかせている青紫色のトレニアの花。そして、白いフェンスを伝うようにして生えている小ぶりの白いバラ。私は足を止め、その薔薇の花を観察する。蝉しぐれと突き抜けるような青空とは対象的な、控えめに咲いたそのバラは、夏の暑さにそのまま解けてしまいそうなほどに小さく、白く光照り返っていた。
「風香が世話をしていた薔薇なんです」
片岡さんの母親がそう言った。
「夏にも薔薇の花って咲くんですね」
私は無意識のうちにそうつぶやいていた。片岡さんにそういう趣味があったことを私は知らない。彼女が甘く湿った匂いのするこの中庭で、日焼け防止の帽子を目深に被り、片手に持ったハサミで薔薇のつるを剪定する姿を思い浮かべた。その姿はコンクリートと灰色の建物に囲まれた大学構内で見かける彼女とはあまりにもかけ離れていた。彼女がどんな表情をしているのか、どんな目で薔薇の花を見つめているのか、私は上手く想像することができなかった。
「四季咲きのつる薔薇でね。もともとは私の母、風香の祖母が植え始めたんです。祖母がなくなった後は風香が代わりに世話をしていて、休暇で家に変えるたびに、一日をかけて剪定とかやってたんです。薔薇は世話が難しくて、秋にも綺麗な花を咲かせるために色々手入れをしなくちゃいけないそうなんです」
私は何も言わずただそうなんですかとだけ返事をした。改めて薔薇をみてみると、蔓や枝が無秩序に生え伸びている。お母さんは世話をなされないんですかと私が尋ねると、私はよくわからないからと母親は少しだけ疲れたように微笑んだ。
家にあがり、仏壇に案内され、片岡さんの遺影に手を合わせる。鈴の音が和室の部屋に響き、やがて蝉の鳴き声の中に溶けていく。私は目を開け、遺影として飾られている片岡さんの卒業写真を見つめた。大学ではかけていなかったメガネをかけ、少しだけ緊張しているその表情の中に、私は何か彼女の遺志のようなものを見つけようとした。それでも、写真の中の彼女はただ私を見つめ返すだけで、何かを訴えかけることも、何かを伝えようとすることもしてくれはしなかった。からかうように、嘲るように、後ろで低い唸り声を発しながら動く扇風機の風が、私の首筋をそっと撫ぜる。
そのまま私は居間に戻り、彼女の母親と少しだけ大学時代の片岡さんの話をした。あまり多いとは言えない彼女との思い出にも片岡さんの母親は懸命に耳を傾けてくれ、時折目頭を抑えて、涙をこらえる。あんまり自分のことを話す子じゃなかったから。こんな話しかなくてごめんなさいと謝罪した私に母親はそう優しく言葉を返してくれた。
「せっかくだから、ここらへんを散歩していこうと思います」
母親は海岸線を指差し、ここらへんは有名な海岸でもあるから、せっかくかだからそこらへんを歩いて回るといいですよと親切に教えてくれた。それからふとと思い出したように、娘に案内をさせますよと提案をした。
「美鈴ちゃん。ちょっとだけいいかしら?」
私が遠慮するよりも早く、母親が家の奥に向かって呼びかける。しばらくすると小さな足音が聞こえてきて、高校生くらいの小柄な少女が部屋に入ってくる。ショートカットの黒髪は汗にはりつき、肌は母親と同じように健康的に焼けていた。
「風香の大学のお友達なの。ここらへんを案内してくれないかしら」
「はい。私は大丈夫ですよ」
私は頭を下げる。現れた少女も頭を下げ、小さく微笑む。風香の妹で、彩音といいます。姉がお世話になりました。彼女は少しだけ大人びた口調でそう言った。