夏風に薔薇⑦
私と綾音ちゃんは同じだけの時間をかけて、元の家へと戻っていく。外の日差しはいつの間にか弱まっていて突き刺すような日差しはそっと身体を包み込むようなものへと変わっていった。一時間ほど前に通ったばかりのあぜ道も、左右に広がる田園も、心なしか帰り道の方が少しだけ私達に優しい表情を見せているような気がした。花の芳香に満ちた家の中庭に着くと、ちょうど片岡さんの母親が家から出てきたところで、楽しめましたかと優しく語りかけてきてくれた。家でくつろぐように勧めてくる母親に、私は少しだけもう列車の時間が近づいていたので、とこれ以上の長居はお断りさせてもらった。
車のキーを取ってきますねと言って片岡さんの母親は家に戻る。庭に残された私と綾音ちゃんはぶらぶらと中庭を歩き回る。
「そうだ」
私は自分の携帯電話を取り出し、連絡先を交換しようと彩奈ちゃんに提案する。
「私のわがままだと思ってくれても構わないし、嫌なら私からの会話を無視してくれてもいい。でも、連絡先だけは交換しておきたいんだ」
綾音ちゃんは少しだけ戸惑いながら自分の携帯を取り出し、連絡先を交換する。もしかしたら私の存在は自殺した姉を思い出させる嫌な存在なのかもしれない。人見知りな綾音ちゃんにとって、年上で少しチャラい大学生の私と仲良くなんてなれっこないのかもしれない。ただ、繋がってすらいなければ、そこには何も生まれない。お互いにいがみ合うことも、わかりあうことも、その先も。
「あとさ、厚かましいお願いかもしれないけど、庭に咲いている薔薇の花を一輪だけもらえないかな」
「薔薇の花ですか? 別に大丈夫だと思いますよ。世話をする人ももういませんし」
私はありがとうとお礼をいって、庭に咲いた薔薇の花に近づいていく。
「私は正直宗教とかよくわからないし、家から日本海が見えるわけでもないけど。私は変わりに、この薔薇の花にお祈りするよ。綾音ちゃんほど信心深くできるかわからないけど」
私は一番手元にあった一輪の花を選び、棘に触れないようにそっと摘む。私がふと横を見ると、隣に綾音ちゃんが立っていて、そのタイミングで吹いた風にその短めの髪がなびいているのが見えた。持ち帰った薔薇が枯れてしまえば片岡さんのことを思い出すこともなくなっていって、妹の綾音ちゃんのこともそういえばそんなこともあったなって思い出す程度の記憶しか残らなくて、この夏の思い出だって、ひょっとしたら遠い記憶の中に溶けていくかもしれない。私はじっと綾音ちゃんの横顔を見つめ続けた。彼女のその顔を、私が日常の中へ戻っていった後も、忘れてしまわないように。
片岡さんの母親の「おまたせしてごめんなさい」という声が玄関先から聞こえてくる。綾音ちゃんが私の視線に気が付き、はにかんだ。
「また会いましょう」
綾音ちゃんの言葉に私は頷く。私の決意や後悔だって、いつまで続くかわからない。ずっと悲しみを抱えたまま生きていくことはできないし、毎日を生きていれば、片岡さんの自殺を忘れてしまうような楽しいことも、あるいはもっと悲しいことだって起きるかもしれない。それでも、一日でも、一時間でも、一分でも多く。彼女が遺したこの薔薇の花に祈ることができるだろうか。海がある方角から頬を撫でるような風が吹く。庭の薔薇の花がかすかに揺れ、囁くような音を立てながら葉が擦れ合う。私は目にかかる前髪を手で払い、彼女に微笑み返す。自分自身への問いかけは夏風に運ばれて、薔薇の甘い香りとともに、遠い遠い空へと昇っていく、そんな気がした。