夏風に薔薇⑥
私たちは並んで海岸線を歩き始めた。本当にたまにでしたけど、姉と二人でこの海岸線を歩いたりしたんです。綾音ちゃんは少しだけはにかみながら教えてくれた。踏みしだくたびにどこか重みを増していくような砂浜は、油断しているとすぐに足を取られてしまいそうになる。奥の方に行けば行くほど人の気配は消えて、波の音と蝉の音だけが静寂の中にぽつんと置いてけぼりにされていく。ふと山の方を見上げると、遠くで五能線の列車がゆっくりと走行していく様子が見えた。二両だけの小さな小さな車両の中には何人かの人が乗車しているのが見えて、それぞれが別のことを考えながら、遠くに見える日本海を眺めていた。
私達は生きていかなくちゃいけない。数ヶ月前に私自身に言い聞かせるようにして導き出した言葉を私はもう一度思い出す。自分のことだけを考えるだけで、自分の大事な人達のことを考えるだけで、私の毎日が過ぎていく。片岡さんが私にとって大事な人だったとしても、内に秘めた悲しみを気づいてあげられなかったかもしれない。気づいてあげることができたとしても、大丈夫とおどけてみせる彼女の優しさを押しのけて、そっと抱きしめてあげられただろうか。
「姉が自殺した後、同じクラスにいる、いつも一人でいる子に自分から声をかけて、一緒にご飯を食べたりしたんです。その時はまだ実感していなかったからかもしれないけど、罪悪感とか、後悔が私にそうさせたのかもしれません。でも、その子とも少しは仲良く慣れたし、その子のことも知ることができたんですけど、一ヶ月、二ヶ月って日が経つにつれて、だんだん元々仲のよかった子と絡む時間の方が増えてきて、その子と一緒にいる時間は減っていっちゃったんです。あれだけ嫌な気持ちになったのに、あれだけ後悔したのに、気がつけば楽な方楽な方へと行ってしまっている自分にも気がついて嫌な気分になって、もしかすると同情心からその子と一緒にいるだけなのかもしれないって思ったりして余計に落ち込んじゃいました」
「人と繋がることって、そのときの一時的な感情だけでどうにかなるもんじゃないから。お姉さんをなくしてつらい時期だったのに、他の人のことを考えられるだけでも彩奈ちゃんは偉いよ」
慰めにも似た言葉に彩奈ちゃんはありがとうございますとつぶやく。綾音ちゃんが私の方を振り返り、そして風で乱れた髪をそっと右手でかきわける。その仕草に私の胸がざわつく。綾音ちゃんのその仕草が、あの夏合宿の日の片岡さんを思い出させたからだった。
「でも、仮にその子と私が親友になって、彼女の苦しみを分かち合えるだけの関係を築くことができても、私の目に映らないだけで、姉のように、誰の目にも止まらず、一人ぼっちで苦しんでいる人は沢山いて、その一人ひとりを助けることができないって思うと、なんだかどうしようもなく全てがバカバカしくなっちゃって。私は今、ミッションスクールに通ってるんですけど、色々と気持ちが沈んでいた時、高校の先生に相談に乗ってもらったんです。そのとき、先生はじっと私の話に耳を傾けてくれて、それから、一緒に祈りましょうって言ってくださったんです」
「祈り?」
ちょうど蝉の鳴き声もやんで、海が凪いで、静止画のように時が止まった。しばらくすると少しづつ蝉の鳴き声が再び鳴り出して、波打ち際の岩にぶつかって飛び散る波音が聞こえ始める。
「その時は正直、そんなこと意味がないって思って、そんなことをしても姉のような人間の苦しみを届くことなんてできないって反論したんです。そしたら先生は、神様に祈っても彼らの悲しみを救うことはできないことは自分もよく知っている。だけど、私たちは祈らなければならない。彼らの苦しみが少しでも救われるように、彼らの苦しみに気が付き、手を差し伸べてくれる誰かが現れてくれるように、そして自分の無力さを忘れないように」
彩奈ちゃんがそこで一瞬だけ言葉をとめる。さっきのお母さんとの短いやり取りの中でも、家からこの海岸線まで肩を並べて歩いたこの短い時間の中でも、私はその小さな肩の上に、想像もつかないほどの重荷がのしかかっているということを実感せざるを得なかった。強いな、とか、偉いなとかという感情を越えて、私は彼女のその言葉が、その気高かさが、まぶしかった。右足を少しだけずらすと、靴の隙間から入り込んだ砂がかかとにこすれて痛い。そんな誰にも見えない、誰にも気づいてもらえない小さな痛みを抱えた彼女たちに私は何の言葉をかけたらいいのか。私はわからない。
「私は私のことで精一杯だし、誰かを助けられるほど強い人間ではないですけど、一日の終りのほんの数分、ふと窓から綺麗な日本海が見えて、姉と一緒に海岸線を歩いたときのことを思い出すんです。そんな時、誰も居ない部屋の中で、私は手を組んでお祈りしてるんです。それが自分の気持ちを慰めるためのものであったとしても、それが誰かを救うことなどできないと知っていても」