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夏風に薔薇①

 同じサークルの片岡風香さんが自殺した。遺書も残さず、誰にも悟られることなく。


 彼女はいつも部室の隅っこで本を読んでいて、あまり自分のことを話さないような大人しい子だった。文芸サークルにたまに顔を出す程度の部員だったけれど、文芸サークルの皆はその知らせを聞いてとても驚いたし、とても悲しんだ。それでも彼女自身あまり目立たない人だったし、文芸サークルの中に彼女とすごく親しい人がいるというわけでもなかった。残酷な言い方をするのなら、彼女はこのサークルにとって、なくてはならない存在というわけではなかった。だから一週間が経てばサークルは通常運転に戻っていって、いつものようにお互いの作品を読み合って、くだらない話で盛り上がって、それから講義をサボってみんなで出かけたりした。


 私自身、片岡さんとはサークル内の同学年同士という以上の間柄ではなかった。好きな小説のジャンルも別だったし、みんなと外に出かけてわいわいはしゃぎたい私とインドア派の彼女では、あまり馬が合うとは言えなかった。彼女の死はとても悲しかったけれど、それでも、それ以上のことを考えたり感じる理由はなかった。だから、いつの間にか彼女の面影さえ忘れてしまう自分がいても、サークルの飲み会で先輩たちのくだらない下ネタに大声で笑う自分がいても、別にそれは当たり前のことだった。彼女が死んで、悲しい気持ちになったとしても、時間がすべてを持ち去っていって、彼女がいない世界で前と同じように楽しげに毎日を過ごす自分がいる。


 片岡さんだけじゃない。今この瞬間にだって、誰かが泥沼の底のような悲しみに暮れ、自ら命を絶とうとしていて、その誰かはひょっとすると今朝私が駅ですれ違った人なのかもしれない。それでも私は生きていかなくちゃいけない。その生きるという中には美味しいものを食べて、楽しいことには笑って、夢を見ることもなくぐっすりと眠ることも含まれていて、彼らの悲しみに同情するにしても、必要以上にそれを自分のことのように抱え込む必要はないし、それをするにはあまりにこの世界には悲しみで満ちている。それなのに。ふとした瞬間、罪悪感にも虚無感にも似た気持ちが込み上がってきて、キリキリと胸を締め付けられる。私が彼女と親しい関係ではなかったということが、私がこれからも生きていかなくちゃいけないということが、彼女の自殺を止められなかったことに対する言い訳のような気がしてならなかったから。


 期末試験が終わり、文芸サークルのみんなと夏祭りにいったり、海に行ったり、毎日はせわしなく、けれども楽しく過ぎていく。じっくり考え込まないと彼女の顔さえ覚え出せなくなっていって、彼女の名前を他のサークルのメンバーから聞くこともなくなっていって、それでも心の片隅にはどこか片岡風香の影がちらついていていて。彼女が旅行とかに一緒に行く関係であったならとか、好きな小説のジャンルが好きで、たまに昼休みかなんかに、一緒に作品について語り合う仲だったなら、結末は違っていたのだろうか。例え、同じ結末になったとしても、彼女が死んだ時、私は彼女の死を心の奥底から悲しむことができたのだろうか。チクリと胸を差すような違和感は罪悪感へ変わり、罪悪感は後悔へと育っていく。でも、じゃあどうしたらよかったんだろうか。私は自分にそう問いかけても、答えが帰ってくることはなく、問いだけがやまびこのように虚ろに反響するだけだった。


 彼女が自殺してから三ヶ月が経ったころ。気がつけば私はサークルの名簿を引っ張り出し、彼女の実家に連絡を取っていた。できれば電話に出ないで欲しい。自分勝手な祈りに反して、3コール目で片岡さんの母親が電話に出た。憔悴してはいたものの、彼女の母親はハキハキとした口調で受け答えをしてくれて、強がりだとしても、見栄だとしても、彼女の母親の気丈な態度が一層私の胸を切なくさせた。特段親しくもなかった同じ大学の人間から、自殺から三ヶ月が経ってからの連絡。片岡さんの母親の声色から少しだけ戸惑いが伝わってきた。私も私で、なんでこうして彼女の実家にまで電話をかけているのかわけがわかんなくなっていて、しどろもどろな受け答えしかできなかった。困惑した者同士の二人の会話は、ボタンをかけ間違えたまま進んでいって、そして、いつの間にか、この夏季休暇中、私が秋田にある彼女の実家にお線香を上げにいくという話になっていった。


 携帯の電話を切り、私は誰もいない部室を見渡した。外では運動部の仲睦まじげな会話と、くぐもったひぐらしの鳴き声が聞こえていた。私はおもむろに立ち上がり、部室の棚に近づいて、並べられている部誌の背表紙を眺め始めた。そして、去年の文化祭に発行したものを手に取り、私は表紙をめくる。人数の多い私達のサークルの同人誌はずっしりと重く、そして厚い。掲載されている全てはさすがに読み着れず、仲のいい友達の作品しかいつも読んでいない。ペラペラとページをめくり、私は目的のページへとたどり着く。


『にゃんにゃん大魔王、碧天に堕つ』 経済学部二年 片岡風香


 数ページしかない、童話調の物語。私は部誌を手にとったまま、いつも彼女が座っていた部室の端っこの席へと腰掛けてみた。顔をあげるとちょうど視界の隅に中庭に植えられた立派な樫の木の葉っぱが見えて、夏の風に揺られて小刻みに擦れ合っているのが見える。木漏れ日がガラスの窓に映り、風に揺れて万華鏡のように明滅する。


 冷房が突然目を覚ましたみたいに低い唸り声をあげながら冷気を吐き出し始める。私は再び顔を上げ、上下する冷房の吹出口を見つめた。それからふと、私が座っている場所だけに、冷房の風が直接あたってこないことに気がついた。


「片岡さんって……冷え性だったんだ」


 彼女と同じ文芸サークルに入って二年、彼女が自殺して三ヶ月。私は初めて、そのことを知った。

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