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避けざる悲劇の抱擁

 さくらに与えた部屋は、昼でも暗い。


「さくら、平気か?」

 ドアを叩き部屋を覗いてみれば、さくらは薄闇の片隅で小さく丸まっていた。

 私の声が聞こえたのだろう。さくらは弾かれたように顔を上げる。

 疲れたようなその青白い頬には、涙の流れた赤い跡。しかし彼女は健気にもその跡をこすって消して、眩しそうに私の顔を見上げるのだ。

 ぱくぱくと、その小さな唇が動いた。私の名を呼んだ。

 音を持たないその声が、耳に届いた気がする。

「……起きているね。いいかな? 毒を抜く薬を作ってみようと思うんだが」

 驚かさないよう囁きながら部屋に入ると、さくらは安堵したような笑顔をみせる。

 おずおずと微笑むその顔は年相応だ。私には望むべくもないが、もし娘というものが手中にあれば、きっとさくらのような存在なのだろう。 

 いじらしく健気で、愛らしい。

『毒を抜く……私から』

「これでも医学は好きな方なんだ」

『できる?』

 彼女は本から素早く言葉を拾い上げて、私に伝える。彼女の指の動きも最近は素早くなった。会話が途切れることもない。

「できるさ」

 彼女をベッドの縁に座らせて、その前に小さな木のテーブルを運ぶ。その上には、秤とスプーンと、いくつか削ったスパイスに、ハーブ。酒、シロップ、砂糖に私の愛用の痛み止め。

「ウェールズのメイドは僕の薬をさんざん飲まされてひどい目にあってた。おかげで薬作りの腕前は充分にあがったよ。その辺りの藪医者よりも、僕の方がずっと上手だ」

『……』

 さくらは本の文字を指で追いかけようとして、やがて小さく掌を閉じる。

 何かを言いたげに口が動き、細い指が動き……そのうち諦めるように動きを止める。

「……先日からふさぎ込んでいるね、さくら」

 彼女は先日からこのように、やけに落ち込んでいる。

 カーテンをしっかりと閉じて、外を見ることもしない。食事だけは取っているようだが、量は減っている。

「ロバートのことは、すまない。叱っておいた。もう、君を不作法に扱うことなどしないはずだ」

 彼女の手首に赤いあざのような跡がみえる。ロバートが無理矢理彼女を押さえ込んだのだ。

 そうでなければ、彼女が眠り薬など飲むわけがない。そもそもさくらは、小動物のように用心深いのだ。私が渡さなければ、食べ物どころか紅茶の一すすりだって口にしない。

「僕がいえる立場じゃないけど食事はしなさい。君くらいの歳で食事を抜くのはよくない」

 秤の上に慎重にハーブを載せながら、私は呟く。続いてアルコールランプでスプーンを炙り、砂糖を乗せる。と、茶色の煙が上がった。

『大切なもの、ふたつ』

 さくらの指が再び、本を追う。私は薬を調合しながら、それを横目で見た。

「大切なもの?」

『ふたつ、守りたいもの』

「一つは僕のことだろうか」

 彼女は小さく頷く。そして照れるように微笑んだ。

「うれしいね。で、もうひとつは?」

『いえない。でもふたつ、守りたい。どうすれば』

「両方は守れない?」

 彼女はもう一度、頷く。しかしその顔はもう、微笑まない。

「僕ならどうするかな」

 痛み止めを削り、砂糖とシロップの混合液にまぜる。そしてハーブとスパイスを潰したものを、秤から降ろした。

「……たとえば、大切な二人の命が狙われているとして……」

 秤の片方には銀の重り。片方にはハーブとスパイス。もし激しく揺らせばどちらも秤から飛び出すだろう。

「一人しか助けられない、そういうシーンだ。いいかな?」

『そう。そんな時……アレックスなら』

「よろしい。まあ僕は相当に必死にならなければ、一人だって助けることはできない。二人を助けるなんて、絶対に無理だ。腕力もなければ体力もないからね。じゃあどちらを助ける? そうだな難しい問題だ。僕なら」

 私は顎に手を置き秤を見つめ、やがて銀の重しを机の向こうに放り投げた。

「救わないことが……むしろ救いであるほうを、見捨てる」

 ごん。と激しい音をたてて銀は床を転がる。急にバランスが崩れて片側に乗ったハーブが飛び上がる。私はそれを手で押さえた。

「ただ、この方法は危険だ。こんな風に、助かった方も随分揺らされることになる」

 扉の向こうでロバートの案ずる声が聞こえる。私は気にするな。とだけ扉に向かって言い放った。

「とはいえ、僕にはあまり大切なものがないから、たとえ話は難しいのだけれど……」

 さくらの黒い目は真剣だ。彼女がなにを言いたいのか。その目を見つめてみても、答えは分からない。私は真意を探ることをあきらめて目前の薬に集中する。

「たとえば。父と兄が崖から落ちそうになっていたとする。僕が救うとすれば兄だ。父は兄のことを愛していた。兄を見捨てて父を救えば、僕は父に恨まれるだろう。しかし兄は父ではなく伯爵という座を愛していた。だから恨まれない」

 兄を、父を、私は思い出す。

 私は彼らを見つめていたが、父は兄を見つめ、兄は父の後ろにある伯爵の椅子を見つめていた。いずれにせよ、彼らが見ている先に私の姿など無かった。

「結局人生なんて、一つを救うことさえ難しいんだ。もしさくらが僕を救いたいと考えてくれているのなら、その気持ちだけで嬉しいよ。でも無茶はいけない。もし僕に危険が迫っていても、君はお逃げ。けして救おうと思っちゃいけない。さっきの天秤みたいに激しく揺れて、さくらが怪我をしてしまう。それに僕は先ほど言った、救われないことが救いである人間だ……さあ、できた。これを」

 薬を混ぜる手を止めて、私はそれをそっと瓶の中に注ぎ込む。

 どろりとしたそれを振ると不思議な香りが漂う。

「どうかな……苦いハーブも入っているから、できるだけ甘めにしてみたんだけど」

 銀色に輝くスプーンの上に、液体を垂らして落とし、じっと見つめる。銀の色が曇ることはない。私はそれをそっと、さくらの口元に近づける。

 彼女はやや緊張の面持ちのまま、それを口に含んだ。

「……苦い?」

 さくらはきつく瞳を閉じていたが、小さく首を振る。そっとスプーンを引き出せば、銀のスプーンは白く曇っていた。

 ……銀が曇るのは、毒のせいだ。まだ彼女の中に、毒はある。

「……」

 はら、と落ちた彼女の涙が私の掌に散る。掌の上で、彼女の涙はどろりと溶けて私の皮膚を軽く焼く。

 私を傷付けたその痕跡を見て、さくらは真っ青となった。

「すぐに効く薬じゃないからね。毎日三回、ちゃんと飲むんだ。時間はかかるかもしれないけど……」

 私はその傷をそっとシャツの袖でかくして、できるだけ明るい声で言ってみせる。

「焦る必要は無い。ゆっくりとやろう。ほら、たくさん作ったよ。僕がいなくても、ちゃんと飲むんだ。約束だよ」 

 怯えるさくらをベッドに乗せて、布団を掛けて頭を撫でた。そうすると彼女は少しばかり落ち着いた顔色となるのだ。

 この屋敷どころか、この世界の中で私だけを頼りとする幼いジャポネの娘。故郷は遠く、体に毒を持ち、言葉も持たない。

 誰か庇護者が居なければ、明日にでも死んでしまうに違い無い。

「……大切なものがないと先ほど言ったがあれば嘘になるな。僕も君が大切だよ」

 この感情は恋ではない。私には恋や愛などという感情はない。

 あえていうなら慈愛だ、哀れみだ。憐憫だ。昨夜ロバートに言ったとおり、私は彼女の中にかつての自分自身を見ている。純然たる愛情ではないのだ。私は、狡い。

「……おやすみ、さくら」

 薬に加えた痛み止めには安定剤の効果もある。うつらと眠るさくらの小さな額に口づけをして、私はそっと部屋を後にする。

 廊下に出れば、その眩しさに私は目眩がする。

「できれば僕が治してやりたかった」

 呟きは私の口の中で消えた。 

 

 

「……さて」

 夜は粛々とふけていく。さくらの部屋を出た後、私は自室に籠もった。

 それはひどく長い時間だった気もするし、短い時間であった気もする。

 ただ、手の内にある美しい便箋をじっと眺め、それを折り跡にそって再び折りなおす。

 真っ白な封筒にその便箋を戻し、ガウンのベルトに挟むと私はゆっくりと自室を出た。

「旦那様」

 名など呼ばなくとも、ロバートがすぐに飛んで来る。

 夜も遅いというのに、相変わらずきっちりとした服装だ。彼にはプライベートなど無いのかも知れない。

「お前は相変わらず僕を見つけるのが巧いな。まあいい、ちょうどお前を探していたんだ」

 私は苦笑し、振り返る。長い廊下の向こうに、ロバートの長身が見える。すでにメイドたちは寝静まった。庭師は順繰り庭を警邏しているだろうが、今はその光もみえない。

 屋敷は深海に沈み込んだように静かだ。

 青い霧を纏ったその夜の空気を割って、ロバートは足音もなく近づいてくる。

「またどこかに出かけられるのかと……もう夜も更けております。どうぞおやすみを」

「ああ。寝るさ。その前に、明日に出かける準備をお前に頼んでおこうと思ってね」

 私がそういうと、ロバートは訝しげな顔をする。

「……明日? お出かけのご予定はなかったかと……」

「これだ」

 私はガウンのベルトに挟んでおいた一枚の封筒を指で挟み、ロバートの前で振ってみせる。

「ロバート、僕は明日にでも女王に会わなければならないらしいよ」

「……それは?」

「先ほどメイド長から受け取った。女王陛下、直々のお手紙だ」

 それは美しい白絹に似た封筒だ。表書きには私の名。

 裏に差出人の名はない。ただ、真っ赤な鑞の印で封をされている。そこに刻まれた文様を見れば、差出人などすぐに分かる。

「刻印を見て見ろ」

 獅子と一角獣、盾に王冠、そして鎖。

「……本物のようですね……いつ頃、これを?」

「昨日。お前と町から戻ってすぐに」

「私は聞いていません」

「メイド長を責めるなよ。侍従の男が忍んで来たそうだ。僕にだけ渡すようにと、言い含められたようだ。慎重なことだね」

「……慎重すぎやしませんか」

 手に取り、見つめロバートは目を細める。中を見るような不作法はしない。ただ気になるのか、目をそらすこともしない。

「内容は?」

「さて。父と兄のことでなにか……わかったことがあるそうだ」

 ロバートから手紙を取り返し、私はそれを乱雑にベルトの間に挟みなおす。白絹のようなその封筒は、折れ曲がる音さえ涼やかだ。

「手紙には書けないような内容かな。漏れては困るような内容なのか……一人で来るように、と書いてある」

「危険では」

「お前は心配性だね。相手は女王陛下だぞ」

「……本当に、女王であるのならば杞憂でしょう。しかし、もし偽物なら……」

「まさか。この刻印で?」

 軽口をたたきながら廊下を曲がれば、そこは私のためだけに作られたサロンだ。

 もうメイドの姿は無い。ただ、サイドテーブルには、私のための薬と水差しが用意されている。

 この薄暗いサロンの一角で眠る前の薬を飲み、目を閉じて物思いにふけるのが私の日課である。 

「……ああ。忘れるところだった。薬を飲んでおかねば」

 机の上、銀の皿に乗せられたその薬は先日、エドから渡されたものだ。

 苦いがよくきく。さすが名医だ。その粉を口に含もうとして、私は視線に気がついた。

「見たことのない薬を飲んでも、お前は特に何も言わないんだね」

「……エドワード様からお預かりした薬でしょう。それは」

「本当に、そうかな?」

「……っ」

 冗談めかしてそういえば、ロバートの顔にはじめて焦りが浮かぶ。が、私は肩をすくめて一気に薬を飲み込んだ。

「ま。エドワードの薬なんだけどね。とてもよく利く。今度ウェールズの彼に使いを出して薬を送って貰おう」

「……かしこまりました」

 喉に残る苦みを飲み込んで、冷たい水を注ぎ込む。

「さくらは寝てしまった。いつも泣いている子だが、あんな風に眠る姿は年相応だ。きちんと守ってあげねば。治療をして……国に返してあげよう」

「あの子は手放してくださいと」

「手放すさ。毒さえ抜ければ」

 私は東の廊下をみつめた。その先に、さくらが眠る部屋がある。

 毎日あの薬を飲めば、解毒作用は進むはずだ。いつか彼女が笑える日が来るのだろか。私はそればかりが気に掛かる。

「どうにも、この手紙が気になって、気がそわそわして仕方が無い。今日はもう、眠るよ」

 グラスを置いて、私は手を振る。ロバートは深々と頭を下げて私を見送った。


 そうして私は自室に戻る。そこはひやりと冷たく、空気が滞っている。

 窓に近づきカーテンを開けると、外は真っ青な霧だ。

 月明かりが霧に当たって、不思議と青くなるのだ。月影も青に染まって、人の影さえ消してしまう。音もまた霧に吸い込まれたようだ。あたりは一面、青く、静寂だ。

 まるで青の手に、抱擁されているようだ。

 青はしばしば、悲劇の色と例えられる。

 それならば、この青い霧は悲劇の手と言えるだろう。


「……こんな夜に、暗殺者が出るのだろうな」


 冷たい窓に額を押しつけて、私は呟く。

 ……その時、私の背に冷たいものが押し当てられた。

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