アレックスはかく語りき
その日の宵の入り、ロンドンの雨が突如止んだ。
夜が濃い闇になる頃、気温が下がる。
春が暮れゆくロンドンは、白い霧に包まれている。
「失礼します。旦那様、ご相談が……」
夜が更けた頃、珍しくもドアの向こうからロバートの声が聞こえた。
このような夜更けに……少なくとも私がベッドに入った時間帯に……彼が現れるのは珍しいことである。
私は返事の代わりに、軽く咳払いをしてみせる。
「失礼致します……」
きっちり3を数えた後に扉を開けるのは彼の癖だ。
私は整えられたベッドに潜ったまま、革張りの本を閉じる。
そして右目に填めたモノクルを外し、目をこすった。外はもう夜が深い。
扉の向こうの灯りが、いやに眩しかった。
「どうした。ロバート。また屋敷で人殺しかい」
ロバートはこんな夜でも、執事のスタイルを崩さない。
果たして彼がガウンをまといベッドに腰を下ろし、一息付く瞬間などあるのだろうか? 少なくとも、私はそんな彼の姿を一度も見たことがない。
「……旦那様」
彼は扉を開けたまま、眉を寄せた。
「またこのように夜遅くまで読書など。せめて灯りをともしてくださいと、いつも申し上げているはずですが」
「お前は僕を説教しに来たのかい」
「……いえ」
たん。と、小さな音をたててロバートの背後で扉が閉まる。閉まってしまえば、音も光も途切れた。
「あの娘を手放してください」
だからこそ、ロバートの声が良く響く。
あの娘、というその一言はぞっとするほどに冷たい響きを持っている。
「あの娘、とは?」
「旦那様のいうところの、"ジャポネ"の娘です」
「お前が買ってきたくせに」
「私もだまされていたのです。あの娘は体に毒をもっています」
ロバートの声に私は思わず、手に持つ本を落としかけた。その事実に怯えたわけではない。彼が知っている事実に驚いたのだ。
「……まさか」
「医者が」
「医者がそういったのかね」
「はい」
ロバートは細く冷たい目を私に向ける。彼の目はまるで細い三日月のようだった。
「いつの間に」
「旦那様がお休みをされている間に。この屋敷に出入りする人間に対しては、たとえ行商人であろうと検査を行います。身元検査と……身体検査です。たとえば病気や、感染症の」
「……かわいそうに。怯えただろう」
「薬で眠らせてから調べましたので、問題はなにも……」
「さくらに薬を使ったのか!」
私は思わずベッドに本を叩きつける。ロバートは一瞬、その細い眉を寄せ目を細める。さくら……と、その唇が不審がるように動いた。
「もとをただせば私の不注意です。家に入れるものは、きちんと調べておくべきでしたのに」
ロバートは小さく溜息を吐いて綺麗にそり上げた口元に指を置く。
薄明かりのなかで見ると彫刻のような男だった。思い返せば、兄の顔も彫刻のような冷たさだった。
どちらも顔に感情がないところが似通っている。
「結果は?」
「……血に、涙に、唾液にすべてに毒が含まれているのです。おそらく、死んだメイドも……」
ロバートはふと、顔をそらす。顔が闇に包まれ表情は見えないが、声はひどく低い。
「お前をだました商人があるということだな」
「おそらく一連の犯人が……商人については今足取りを追っております。わかり次第、ご報告を」
「用心するとしよう。ああ明日の朝は、さくらに何か甘いケーキでも焼いておあげ。お詫びの代わりにね」
「旦那様!」
あっさりと言い放てば、過保護なロバートは声をあらげる。それを無視して私はせっかく温まったベッドから抜け出した。
ベッドから降り立った私の恰好を見て、鉄壁のロバートの顔に驚きの表情が広がる。私はそれを心地良い気持ちで見つめた。
「旦那様、その恰好は」
「外へ行くつもりだったのだ。見つかったならば仕方ない。買い物につきあってくれないか、ロバート」
今の私は睡眠用のガウンなど着込んではいない。
私の恰好といえば、革のシャツに薄汚れたズボン、そして分厚いブーツ。私はくたびれた帽子を目深に被る。
ついでに言えば、腹の周りには幾重も布を巻き付けてある。
「どうだ。まるで庭師だろう?」
床に伸びた薄い影だけ見れば、でっぷりと太った背の低い男。
私は自慢げに、胸を張って腹を叩いてみせる。目を丸くするロバートの横をすり抜けて、私はドアを三回ノックして見せた。
「行こう。メイドたちに見つかればやっかいだ」
「またこんな変装などをされて」
雨の止んだロンドンは、霧深いくせに妙に乾いて砂が香る。私の前を歩くロバートは苦り切った声を出し、横目で私を睨んだ。
「危険です。お止めください、こんな夜に出歩くなど」
「懐かしいだろう。ウェールズではよく、一緒に変装して町に出たものだ。変装と夜はよく似合う」
雨が止んだせいだろうか。夜も遅いというのに、町には大勢の人間で満ちている。
町をうろつくのは、いずれも革の服、ボロボロのブーツの男達。
そんな男達を誘惑するためか、建物の陰には女達の姿も見える。
胸元を大きく開けた女が一人、私に流し目をくれる。私はあくまでも軽薄な庭師らしく、女に軽く手を振ってやった。
大昔は夜の町など恐ろしくて出ることもできなかった。
ウェールズにいた頃のことだ。あの町にも夜の社交場というものがある。そこには仕事で疲れた男達が毎夜集って馬鹿騒ぎだ。
私のような人間が紛れ込めばすぐに見つかって、嘲笑される。小突かれる。下手をすれば殴られる。あの手の男達は気が荒い。
しかしどうだ。似た恰好で紛れ込めば、彼らは途端に優しくなる。酒など奢ってくれたりもする。
それが楽しくて、まだ若い頃の私はたびたび変装をして街へ繰り出した。ロバートは嫌がったが、私が行くといって聞かないので仕方なく付き合ってくれたものだ。
彼の方が長身なので、女にもてるのはいつもロバートの方だった。
「どうだい。僕の変装もなかなか板に付いたものだろう」
「もし私がお伺いしなければ一人でその恰好で町に出られるおつもりだったのですか」
「伯爵ともなると、顔が知れ渡ってしまうのだな。面倒なことだ。特に先日の夜、馬車で大立ち回りをしただろう。あのあと、僕のことが新聞に手ひどくかかれていたぞ、似顔絵付きでな。ロバート、君のせいだ」
私は帽子を目深に被り、ロバートを睨む。彼は神妙な顔一つ見せず、
「申し訳ございません」
と、呟いた。
「おっともう少し慇懃無礼に振る舞ってくれたまえ。今日の僕は庭師で君が主だ。仕事を言いつかって買いだしに来ていることにしよう」
私は夜の町をぐるりと見渡す。昼間のこの道は、馬車と紳士淑女に溢れている。
しかし月明かりに照らされた夜の道には、労働階級の男たちで溢れていた。
「……お前と出歩くのも久々だな」
夜でも店は盛況だ。パブにカフェのような小さな店、ハーブやスパイスを売る店。薬を売る店に、木賃宿。ぼんやりとしたガス灯が白々しい光を投げてくる。
春とはいえ夜は冷える。顔を上げると、白い息がガス灯の光にとけた。
ガス灯の向こうには、丸く大きな……金色の月。
……私はこの風景を、覚えている。
「あのときも変装をして……この街を歩いた。父の葬式だったから……20年も前か。兄や兄のメイドたちに見つからないように、おまえを連れだしたんだ」
思い出したのは父の葬儀の時だ。病み上がりの体を引きずって参加した父の葬儀は、悲痛で重苦しいものだった。耐えきれずロバートと共に抜け出した。
賑々しいロンドンの夜の道、酒に酔って暴れて笑う男達を見た。すぐ側の暗がりでは女達が嬌声を上げていた。
ここから近い屋敷では、今まさに父の葬儀が行われんとするところである。だというのに、町の人間は誰もそのことに気付かない。それを知って私は愕然とした。
私を取り巻く世界はあまりに小さい。
「なあロバート。お前がこの家に仕えて何年になる」
あのときと同じ道を、私は歩く。ずいぶんと歳を取った。それはロバートも同じだ。
「20……数年になりますでしょうか」
「そうだった。お前は僕の一つ年上で、ウェールズにいるときに父がつれてきてくれたのだったな」
年を取っても、目を閉じれば20年前の風景がすぐに浮かぶ。まるで昨日あったことのように。
「一年だけ一緒に勉強をした」
美しき緑と森と湖の、退屈で緩慢な私の故郷ウェールズ!
その田舎にロバートはやってきた。細身で身長は高く、髪は私と同じ赤の巻き髪。ブラウン色の瞳が冷たい青年だった。しかし忠実だった。
「お前は頭が良すぎて驚いたほどだよ。きっとお前のほうが医者にでも学者でも向いていただろうに」
「私は下賎な生まれですので……」
ロバートは呟く。彼の父は我が父に仕えた副官である。いつだったか、古い戦争で彼の父は、私の父を庇って亡くなった。
父の目が涙に濡れたのは、後にも先にもあのとき一度きりだ。父はすぐさまロバートを引き取って、執事としての教育を施した。
そのままロンドンに置いておくのかと思いきや、父は何の気紛れかウェールズに彼を寄越したのである。
春から翌年の春まで、たった一年。私はあの田舎でロバートと過ごした。
彼は頭が良い。恐ろしいほどに。そして器用で体力もあり、馬術もフェンシングも巧かった。その噂を聞きつけた兄は、私からロバートを奪ってロンドンに連れ去った。
それ以降、彼は伯爵家の執事となった。彼と再び相まみえることができたのは、半年前。兄の葬儀の日のことである。
「僕は父も兄ことも一つも尊敬していやしないのだ。我がグリーヴスの勇敢かつ清らかな血は、祖父の代できっと終わってしまったんだよ」
「……護衛ならいくらでもあるでしょう、なぜ私を連れ出すのです」
「お前の方が心強い。どうせ僕が一人で出かけても、別の人間を護衛につけても、結局お前はついてくる」
「……」
「……だろ?」
思い出話が苦手と見えるロバートの肩を小突き、私は一軒の店先を覗き込む。
胸一杯に息を吸い込むと、ハーブの香りが一気に広がった。その店は乾燥ハーブとスパイスを店先にこんもりと盛り上げて売っている。
「さあ。まずはここでいくつかのハーブと……あとは酒と、スパイスの類も……」
「……旦那様」
「スパイスは潰してないもののほうがいいんだ。そうだな、ああ。そっちの……そうそう、それを手づかみにいっぱいだ。ところでロバート。なぜ、さくらを手放すように私に注意した? 私に黙ってさくらを追い出すこともできだろうに」
紙の袋いっぱいに購入したそれを受け取り、私は続いて隣の店を覗き込む。そこには薬瓶と銀のスプーン。それに汚れた銀の皿が並んでいた。
ひとつひとつ、手に取って目を細めて眺める。値段の割に、良いものを置いている店だった。
「理由など……旦那様がずいぶんとあの娘を気に入っているようでしたので」
「ああ。可愛い娘だ。変な意味じゃないよ。ああいう寄る辺の無い子を見ると、自分を見ているようで切なくてね……あ。瓶をいくつかと……あと、秤も貰おう。今使っている秤が壊れているのでね……そうそう。今朝のことだが、水路から新しい死体が上がったそうだ。今度も毒だ。僕の背格好にちょうど似た男だったそうだ」
「ならば、なぜ街に出られるのです」
「恐れてなどいないからだ」
私は帽子を指で押し上げて、ロバートを見る。
「ところでお前は塔公園にある、桜の花をみたかい?」
「……いえ」
私はハーブを抱えながら、遙か東を見る。闇の中に、巨大な建物が見えた。
昼に見れば立派だが、夜に見ると恐ろしい。それは遙か長い歴史を持つ我が国の城壁であり塔であり、女王のおわす場所。
塔の頂上に、巨大な生き物の陰が見える。それはワタリガラスだろう。夜には眠るはずのカラスだというのに、塔に住まう彼らは夜に起きて町を見張るのだ。
あの塔の真下に、桜の園がある。なんとも皮肉で美しい光景だろうか。
「今ならまだ間に合うぞ。行ってみるか」
「結構です」
「お前はまだスケッチをしているのだろう? いい題材じゃないか」
ロバートのコートの胸辺りを、私は指でさす。彼は隠しているが、そこに小さなメモ帳とペンが入っていることを私は知っているのだ。
鋼鉄の彼にも唯一の趣味がある。それは意外にもスケッチなのである。小さなメモ帳に、走り描くように風景を切り抜く。
しかし彼はそれを頑なに隠し、私に見せることはない。
「いえ、ただの稚拙な……落書きですので」
「見せてはくれないんだな。相変わらず」
「絵は詩のようなものです。お見せするのはあまりに恥ずかしい」
……ふと。世界が暗くなった。
空に雲がかかったのだ。先ほどまで煌々と照っていた月が隠れた。途端、霧のような白い煙が湧き上がる。また雨でも降るのかもしれない。
「……こんな夜に暗殺者はくるのだろうな」
「ですから夜に出歩くのはお止めくださいと」
「いいんだ。僕が殺される時はそこで見ていてくれ」
「そんなこと……」
ロバートが珍しく憤慨の色を見せた。怒ると彼のブラウンの瞳が、一瞬黒く染まる。
「そんなこと、できるはずがないでしょう!」
「そうだったな……痛……っ」
「腰を」
歩き出そうとして、私は思わず腰を押さえる。忠実なロバートはすぐさま私の体を支えた。
「気にするな。変装のために腰周りに布を詰めすぎたせいで……重すぎたようだ。痛みは古傷のせいだ」
腰はずきずきと痛む。押さえ、一歩一歩を私はゆっくりと歩く。横を過ぎる男が不思議そうに私達を見つめていった。
「古傷ですか……」
「屋根から落ちた時のね。もう20年にもなるが、なかなか治らない。父が珍しくウェールズに来る……と聞いて僕はたまらず屋根に登ったのだ。そしておちた」
……正確には、背を押された。
背を押す冷たい掌の感触を、私はいまだに覚えている。
足元が滑り、体が宙に投げ出された。その時に感覚をいまだに覚えている。
「父など来てもいない。その頃、父は、すでに馬車ごと崖におちて」
「……ええ」
「たしか父の訃報をもってきてくれたのは、お前だったね」
店先の小さな椅子に腰を下ろし、私は小さく息を吐く。手にした荷物はずっしりと重い。痛みを紛らわせるように、私はその紙袋の中身をひとつ、ひとつと点検する。
「父が数日内に必ず来ると手紙を受けて……屋根から落ちた後、お前は憤慨してくれたのだった。来るといって来ないのは酷いと。そしてロンドンまでわざわざ様子を見に行ってくれて」
「しかしもう、亡くなられていた」
ロバートは唇を噛みしめて、目を伏せる。
その時のことは、まるで霧に包まれたように記憶に薄い。
ウェールズに父が来ると聞いた私は珍しく喜んだように思う。幼い私は父に多少、愛情めいたものを持っていたのかもしれない。
しかしそんな健気な私は地面に叩きつけられ、半死半生の熱にうなされる羽目となる。熱と涙でぼやける視界の向こう、真っ青な顔をしたロバートを見た。
父の死は、彼の口から聞かされた。
「すまない。お前にはいつも、迷惑ばかりをかけている」
「いえ、私は……」
「感謝の気持ちを伝えておきたかったのだ。お前は本当によく仕えてくれている」
腰の痛みは軽減した。いつもそうだ。私の体は急にガタがきて、そして唐突に治る。
若い頃は治るまで一瞬だった気がするが、最近は妙に長い。それが恐ろしくもあり、同時に諦めもつくのだ。
寿命、というものを最近私はよく考える。
「同時に思うんだ。20年前、まだ僕達が若かったあの時代。一年じゃなくあともう数年、お前と一緒にあのウェールズで居られたら」
「あの娘を早く、手放してください」
「またその話か」
ロバートは頑固だ。私は苦笑し、荷物をまとめなおした。
ポケットにしのばせておいた懐中時計を見ると、時刻はすでに深夜を回っている。周囲の店もようやく店じまい。追い出された男達が酔客の足取りで散らばっていく。
「……よし、道具はすべてそろった」
「一体、なにを……」
「あの子の毒を抜く薬を作ってみようと思うのだ」
私は様々な香りを放つ袋を抱きしめて笑う。ロバートは目を丸くして、やがてそらす。
「……難しいのでは、ないでしょうか」
「やってみないと分からないだろう。僕は幸いにも医学の知識がある。薬のことはもちろん、毒のことだって詳しい。知らなかったかい、ロバート」
乱暴な馬車がすぐ側を駆け抜けて、砂埃をあげる。
その砂煙が塔も町も人も全て覆い隠す。
乾いて痛む喉を押さえ、私は咳き込んだ。
「……旦那様」
「どうも長く語りすぎたようだ、ロバート……帰ろう。夜は更けている」
町は白く、空虚だ。
私とロバートはただ無言のまま、その白い道を歩いた。
……この町は確かに、暗殺がよく似合う。