桜姫
その日ロンドンの霧は一層、濃いように思われた。
「……人が多いな。はぐれないように、しっかりと手を握っておこう」
馬車は思ったよりも早く塔のたもとに付いた。
伯爵家の飾りをつけた馬車を追い抜けるような御者は、この霧の市中には存在しない。
それがむずがゆくもあるし、同時に有り難くもある。少なくとも、私に面と向かって喧嘩を売ってくるような人間はここには居ないということだ。
注視を避けるようにそさくさと馬車から降りると、私は不安に固まる少女の手を握る。
「さ。行こう。大丈夫だ。人が多いところなら、会話をしていても誰に聞かれる心配もないからね」
人波をかき分け進むと、やがて開けた場所に出る。
ドレス姿の女、コートの男、めかしこんだ子供。その人々が集う、広い広いその公園……。
「……」
人が多いと空気が薄い。人の目線にも、気分が悪くなる。
陸に打ち上げられた魚のように、私はぱくぱくと息を吸い込む。胸を押さえて冷や汗が引くのを待つ。
(大丈夫だ……)
私は念じた。少なくとも、昔より私は健康になっている。半年前なら、こんな所にくればひっくり返ったことだろう。事実、半年前の女王陛下との謁見の際には、私は三度気を失った。
「……」
少女が案ずるように私を見上げている。
このような状況に置かれてなお、優しい娘である。
私は冷たい掌で、彼女の背を押す。
少女の持つ闇のような黒の瞳は、私の気を安らげてくれた。
「……昔、桜に見入られた男が日本から苗を持って帰ってきたんだ。それを女王に送り、女王はここで桜を育てた。ほら見てごらん、小さな花が可憐だね」
少女の背を押せば、彼女は震え、目を丸め、そして口を押さえる。
目前。淡く透ける花が、闇の中で踊っている。
指先ほどの小さく可憐な花だ。向こう側が透けて見えるようだ。
シルクに似ている。
いや、薄ガラスにも似ている。
例えようもない美しさだ。
俯いた花弁は弱々しく見えるが、雨に濡れても落ちない強さを持っている。
雨の粒は花の上をすべり、滑り落ちた粒までピンクの色を滲ませているようだ。
一枚、花が散る。軽いので風になぶられるだけで、呆気なく散ってしまう。
しかし散るときですら、ひらひらと儚くゆるやかに舞い落ちる。
目の前の庭は淡いピンクの色に覆われていた。
咲く花、舞う花、そして散った花。
見渡しても、見渡しても、空気まで色彩の庭だ。水彩画の中に閉じこめられたようだ。
無骨な幹から広がるその花を、桜という。
「見上げてごらん。ああ、顔を上げるのが怖いのかい」
少女は花を見上げるため、必死に顔を上げる。しかし涙がこぼれるのを恐れるようにすぐに俯いてしまう。私は彼女の顔を覆うように、マフラーを巻きつけた。
「こうすれば怖くないだろう」
柔らかいその布地に顔を埋めさせ、彼女は驚くように私をみる。
やがて彼女は、はじめて満面の笑みを私に向けた。
「さあ、じゃあ。そろそろ話をしようか」
彼女を連れて、私は近くのベンチに腰を下ろした。
公園の人の入りは想像以上で、ゆっくり会話をできそうな場所などない。仕方なく木陰に置かれたベンチに座ると、体がきゅっと冷えた。まだ、気候は冷たい。
「寒くないかい」
しかし私はやせ我慢をして、彼女にコートをかけてやる。私の体は寒風にさらされたが、腹に力を入れて耐える。
「……屋敷では人の目があって、ゆっくりと話ができないだろう。だからここにきた。分かるかな」
懐にしのばせてきた辞書を取り出してみせると、彼女の目がぱっと輝く。同じく、ひそませた東洋の本を彼女に手渡すと、花明かりの中で彼女は必死に文字を指先で探し出す。
『ありがとう』
その細い指を見て私は確信した。彼女はある程度、こちらの言葉は理解できるのである。
ただ声を出すすべを、言葉を話す方法を、表記を知らないのだ。
『ずっと昔、綺麗な場所にいた。この花を、知ってる』
彼女は指で私に伝える。
彼女は頭上に咲く花を必死に指さす。儚い白い花びらを、彼女は懐かしそうに見ている。
しかし、やがて泣きそうな顔となった。
『昔……』
ゆっくりと、恐ろしくゆっくりとではあるが。
『あまり、覚えてない』
「記憶がない?」
私は想像した。たしかに彼女はジャポネで生まれたのだろう。しかし、まだ幼い頃に浚われた。まだ幼い彼女の記憶には、遠い故郷の風景は断片的にしか残っていない。
私は慎重に尋ねる。
「次に覚えているのは?」
『水の音。狭い船。おじいさん、優しい。聞いたら海の上だと。そのあと、暗い箱の中。変な味の食べ物と……飲み物と、頭がいたくて、おなかも……死んだと、いわれた。起きるとみんなよろこんだ。そして、男の人』
彼女の指がふと、止まる。花が一枚ひらりと舞って、本の上に落ちたのだ。それをいとおしげに彼女は見つめる。
「男? それはいつの話?」
『多分、今の季節と同じ。男から冷たい匂いがした。顔は知らない。そして首を』
彼女は苦しそうに、喉を押さえる。
私は眉を寄せる。
「きられたんだね」
私は辞書のざらりとした感触を、指先でなぞる。
そして顎を指で掴む。冷たい指先は、冷えのせいばかりではない。彼女の生涯を思い、寒気が出たのだ。
彼女は早々に船に乗せられ、遠い異国に浚われた。そこで何らかの……非人道的な……処置を施されたのだろう。なにも分からないまま。なにも知らされないまま。
そして歩く毒物となった娘を誰かが買った。もしくはその「男」とやらの命令で彼女は毒を流し込まれたのかもしれない。
その男は娘の喉をかき切った。理由は単純だ。おそらく彼女は、この国の言葉をすでに操れるようになっていたのだろう。
「かわいそうに……こんな薄い喉を……よほどの腕がなければ……死んでしまったろうに」
私はしみじみと娘の喉に触れる。
その傷は薄いが深い。確実に、声帯だけをつぶしている。このような真似、医学に知識がなければできるようなものではない。
「その男に育てられたんだね……去年か、一昨年の春前? で、冷たい匂い?」
『あまくて、つめたくて……ふしぎな匂い。顔はいつもかくしてた。背の高い……』
「……いつまで?」
『ついこのあいだまで、一緒に……食事の仕方とか、踊りとか』
「すぐ売人に、売らなかったのか……なるほど……貴公子にでも売りつける予定で、教育をしたんだな……僕以外のところに売られたことは?」
『ない』
私は少女の細い横顔を眺めながら、目を細める。聞けば聞くほどに彼女が哀れである。そしてその彼女による初めての殺人に私が選ばれたのは数奇なことである。
(毒消し効果のある奇妙なお守りとして売れば、好き者の貴公子なら飛びつくだろうな。噂を聞いてロバートが手に入れたか……だまされたのか、うまく言いくるめられたか……)
考えても埒があかない。私は長い息を吐き出して、ベンチに背を預ける。花がまるで雪のように降り落ちてくる。
「こんな綺麗な場所で聞くには、あまりに辛い話だ……」
判明したことはほとんどない。結局、娘の哀れな半生が見えてきただけだ。
美しいキモノを纏わされ、こんな霧の町に売られた娘……。
「おっと……だめだ、ここは目立つな。少し別の場所へ……」
はっと気が付けば、降り注いでいるのは花だけではない。私たちを、遠巻きに人々が見つめている。
霧で煙る夜の花。その下に座り込む男とキモノ姿の娘。目立たないはずがない。
レディによる遠慮のない好奇心に満ちた目! 男達のにやにや笑い。
ざわざわと、不愉快なささやき声が耳に刺さる。ああ、これだからロンドンは嫌いなのである。どこにいっても人、人、人だ。うるさい、声が響く。人の目が、鋭い。
「いこう」
わき上がる頭痛を抑え、私は荷をまとめるなり少女の手を取った。
公園は桜見学の人間で押し合いへし合いである。
珍しさもあるだろうし、夜に出歩く大義名分にもなるからだろう。若い男女たちは恥ずかしげもなく寄り添って花を見上げては何か囁きあっている。
人の熱気にあてられて、私はついつい道ばたの壁に肩を預ける。
病弱な私の体は、たったこれだけの外出でも熱を帯びてしまう。
「会話はもう、疲れたから止めにしておこう……もう少しすれば、満開になるそうだ。もっと綺麗に咲いたときに、もう一度こよう。そのときに、また改めて話を……」
話しかけながら、私は自分の右手を見た。
……そこには、何も握られていない。
「……っ」
小さな悲鳴が聞こえた気がして、顔を上げるとちょうど人波を駆け抜けていく男の後ろ姿がみえた。
その背に担がれているのは……ジャポネの娘のキモノ姿ではないか。
「!……待てっ」
私は慌てて立ち上がり、その背を追おうとした……が、立ち上がったとたんに足がもつれて前にすすめない。人々の壁が思った以上に厚い。腕を振り、少女の名を呼びかけ……。
私は彼女の名さえ、知らないことに気づかされた。
「……待て……誰か、誰か……その娘を……その男を!!」
娘の距離まで、あとすこし。
見物客は私の勢いに怯えて道を空けた。私はその隙間を、人を、ドレスを、押しのけて必死に駆ける。
「その、むすめを!」
しかしその少しが届かない。人攫いとおぼしき男の腕に捕まれた少女は、色をなくして震えている。涙をこぼさないように必死に顔をマフラーに押しつけているのが、哀れである。
「待て……!」
私は必死に懐に手を差し込み、そこにあった小さな丸い玉をつかむ。出かけにつかんできた、小さな花火のプロトタイプ。ぶつけるだけで火花が散る。
それをつかんで男に向かって叩きつけるも、それは随分手前ではらりと落ちる。湿った空気の中、それは悲しいほど儚い光を放つだけだ。ただ、地面に散った花を、ふわりと彩るだけだった。
「誰か……!」
絶望に私の足が震え、声がかすれる、その声が天に届いたかのように、意外な男の声が響いた。
「……旦那様」
声と同時に、目の前を走る男の姿が消えた。いや、男の体が地面に沈んだのだ。
真横から音もなくすり抜けてきた細い影。その影が、手にした杖で男の腰を激しく殴りつけたのだ。
それだけで男の巨体は地面に沈み、周囲の男女は悲鳴をあげて退く。放り出された少女を私は慌てて受け止めた。
「ロバート!」
「旦那様、大事はございませんか」
現れたのはロバートである。屋敷で私を見送ったはずの彼は、黒い外套姿でそこにある。
ロバートは息一つ乱さず、手にした黒い杖で地面にのびた男の背を打ち、首筋を掴みあげた。男は異国の言葉で叫ぶ。
しかし声は途中で切れた。
ロバートの手が、男の首にかかっている。男の体はやすやす持ち上がり、宙に足をばたつかせたのも数秒のこと。まるで糸の切れた人形のように、動きがぴたりと止まる。足がだらりと垂れ下がる。
意識を失ったのだ。意識を失った男になお力をこめるロバートをみて、私はあわてて制止の声を上げた。
「やめなさい! もう……気を失っている!」
その細い体のどこにそのような力があるのか、私はぽかんと執事を見上げる。
「ではやめておきましょう。あとは警察の領分です」
「……なぜお前がここに」
「お一人で向かわせるわけがないでしょう。いつでも護衛はいたします。足と腰を痛めないように、どうぞ、お座りください。ええ、そこにそっと……」
ロバートは人の目線の届かない場所まで私を案内し、桜の木の下へ座らせた。
少女はおびえるように私のコートをつかんだまま離さない。ロバートは少女など目にも入っていないように、私の額に手の甲を押しつける。ざらりとした、革の手袋だ。
「熱が出てます。少しお待ちください、すぐに迎えの馬車を呼びますので」
「ロバート?」
「私は警察まで男を連れていきます。旦那様は馬車が到着するまでそこから動かないようお願いします」
ロバートはやはり感情の起伏をみせない。冷たい目線で宙を睨み、辺りを警戒する。人々は遠巻きに私達と倒れた男を見つめている。
「では」
言い終わるなり、ロバートは男の体を引きずって人の波の向こう側へと消えた。ささやきあう見物客も、やがて一人散り、一人散り残ったのは私と娘と桜だけだ。
よほど恐ろしかったのか、少女の顔には色がない。震えて私のコートだけを必死につかんでいる。
「……すまない。守ってやることができなくて」
小さく震える娘の体を抱き寄せ、マフラーをそっとめくる。あげた顔から小さな滴が散って、私の掌の上におちた。
「……」
「……なるほど」
少女の顔が恐怖にゆがむ。私の掌にぽつりと落ちたその小さな滴は、私の皮膚を確かに焼いた。
その跡は赤くなり、皮膚の一枚だけがかすかにただれる。かゆみはあるが痛みは薄い。
指先で拭えば、もう虫さされの跡くらいにしか見えない。
「……これは本物の毒だ」
少女は自分の目を手で覆い、私から一歩離れる。その体を私はあえて引き寄せた。
「心配しないで。少しの毒など僕にはきかないんだ……うん。ちょっとこの言葉は難しくて分からないかな?」
ポケットから辞典を取り出す。開いて、私は言葉を探し指をさす。
ちょうど、桜の木の隣にガス灯が煌々と照っているので、本の文字はよく見えた。
「もう小さな頃から、毒を飲んでる。父の意向でね。だから君くらいの毒なら、かゆくなるくらいで死ぬどころか跡にものこらない」
『毒を?』
「そうだ。貴族は毒で殺されることが多いから、幼い頃から少しずつ毒を飲むんだ。兄も」
『お兄さん?』
「そんな兄も、毒で死んだんだ」
毒。その文字に少女の顔色が悪くなる。
「兄に贈られた毒は相当、ひどかったのだろう。普通の毒じゃ僕たちにはきかないよ」
『わたしは』
彼女の目が涙で潤む。その目に含まれる毒性は、せいぜいだ。皮膚を断ち切ることもできない。
『誰も、殺さずにすむ?』
それなのに、彼女は泣いている。私はその小さな頭を撫でた。
……こういう娘がいる、ということは噂には聞いていた。
体に毒を流し込み育てるのだ。
まずは薄い毒を飲ませる。慣れてくればどんどんと濃くする。血液の中にも、毒を直接差し込む。慣れてくれば食べ物の全てに、毒を含ませる。こうして毒だけを与え続け、体内の水分を全て毒に変えてしまう。
だいたいの人間は死ぬ。しかし、時に生き残るものもある。それは女性、それも若い娘が多いそうだ。
そんな娘は、暗殺の目的に使われる。特に女好きの貴族を殺すアイテムとしてはひどくロマンティックな殺人兵器である。
娘には何の罪もない、むしろ被害者だ。
そして私自身、命をねらわれるのは、慣れている。
「君が誰かを殺したければ、そうだな」
私は彼女の薄い背を撫で、逆の手で辞典から文字を探る。
「刺した傷口に君の体液を直接流し込むくらいじゃないと、おおよそ一般人でも死ぬことはない。僕? 僕相手じゃ、そんなことをしても死なないよ。まあ、先にその傷で死んでしまうかもしれないけど」
私は本を閉じ、少女の顔をみた。
「そんなことよりまだ名前さえ名乗っていなかった」
そして、自分の顔を指し、私はゆっくりと口を開く。
「……僕は、アレク」
『あれく』
少女の唇が私と同じように動くのをみて、改めて私は彼女自身を指した。
「君は?」
『さくら』
彼女の口はゆっくりと動く。さらにその細い指が桜の花弁を指すのをみて、私も繰り返した。
「さくら?」
細い首がこくり、こくりと上下に揺れる。私は久々に幸福な気持ちとなった。
「故郷の頃からの名前?」
娘は首を振る。
『冷たい香りの男が、なまえをつけた』
「なぜ、さくらなのだろう」
『同じ船に、桜の苗が』
さくらは、まるで友人を見るような目で目の前の木を見上げる。それは両腕を広げ、見事に咲き誇る桜の木。
もしかすると、ロンドンに運ばれたジャポネの桜と彼女は、同船していたのかもしれない。
私は桜の色に染まる彼女の頬を撫でる。
「なるほど、君にぴったりの名前だ。その男も、意外にロマンチックだね」
そのとき、どこかで悲鳴が聞こえた。
「旦那様!」
悲鳴は最初、人混みにごった返す公園の向こうから聞こえた。その声は悲鳴になり、怒号となり波のように伝わる。私は思わずさくらをかばい、その場に崩れ落ちる。
人々が一斉に、私たちの前を、駆けていく。
最初は爆弾か、もしくは暴れ馬でもでたのかと、そう思った。それくらいの荒れようだったのだ。
しかし、誰かが、毒だ……と叫んだその声を聞いて私は震える。
もう、毒は腹いっぱいである。
「旦那様……!」
乱れる人々の合間を抜ける黒い影が見えた時、私はちょうど見知らぬ男に突き倒されたところである。さくらを庇いながらふらつく私の体を、忠実なロバートの手が引き留める。
「よかった……ご無事で……」
ロバートは人混みをかき分け駆け抜けてきたのだろう。彼にしては珍しく焦った顔で私の肩をつかみ、息を乱した。
近づくと、強いミントの香りがした。彼はスマートなロンドン紳士だ。どのような夜も、けして身支度を忘れない。
「……どうしたんだロバート、みんな一斉に……」
「理由はあとで……とにかくこちらへ、急いで。馬車を待たせてます」
ロバートに引きずられるように公道へでると、そこも人でごった返している。
ロバートは乱雑に人を押しのけ、道の端に止めてあった馬車に私を押し込む。自身は御者台に飛び乗ると、逃げまどう人など構いもせず鞭をしならせた。
「やめなさい! 危ないじゃないかロバート!」
「それどころではありません」
伯爵家のマークが入った馬車に向かってくる人間など誰もいない。人々は波がうごめくように馬車の前から体をよじって逃げまどう。
「公園の隅で、見物客の一人が毒で」
しかしロバートは意も介さず、まっすぐ砂埃をあげて駆けるのだ。
その白い煙がガス灯にまで高くあがった。
「……殺されました」
それは今月にはいって4人目の哀れな毒殺被害者である。
「……ひどく、毒に縁のある日だね」
屋敷に戻るとメイドたちがこぞって私を出迎える。
みな、すでにニュースは耳にしていたのだろう。私を見るなり、それぞれ喜びと安堵の表情を浮かべた。こんな伯爵でも、生きていることで喜ぶ人間がいることが驚きだった。
「さくら、驚かせてしまってすまないね」
さくらは先ほどから私の腕を掴んだまま離れようとしない。毒が私に利かないことを知って安堵したのか、ぴたりとくっついて離れない様はいとおしさを超えて可哀想ですらあった。
しかし先ほどまで怯えていた彼女だが、今は妙に落ち着いて見える。顔色だけは青いものの、もう涙はない。なにか決意を秘めたような目で、じっと何かを考え込んでいる。
こんな異国の地、声も出せない状況で、人を殺すためだけに生かされた東洋の娘。どれほど心細いだろう。どれほど苦しいだろう。
20数年来の故郷を追われ、息苦しい霧の街に一人放り出された私の孤独感と彼女の孤独感が滲むように混じりあう。
「一緒に見送ろう、彼女を」
私はさくらの小さな手のひらをつかみ、まぶしい廊下を抜けていく。
メイド長もロバートも、私たちを止めなかった。
「……」
「花をかき集めるどころの騒ぎじゃなかったが……」
メイドの娘はまだ、部屋にある。庭師のジョンが空箱に肩を預けたまま、あくびを漏らしていた。
ここに彼女を詰めて庭に埋めるのだ。
「ありがとう、待っていてくれたんだな。ロバート」
「ご命令ですので」
愛想笑いの一つもみせない執事の横を抜けて、私は冷たくなったメイド娘の顔を見る。
その顔は、誰かに拭われたのか、血の跡は消え目はそっと閉ざされている。ドレスも厚手のドレスにかわっていた。
「……まるで眠っているようだね」
私はたった一枚、いつの間にか胸ポケットに混じりこんでいた桜の花びらを、彼女の顔に散らした。
さくらは死体におびえるかと思いきや、顔色こそ青いものの私にならって花を一枚、散らす。
「二枚だけだが、彩られると美しいね」
砂煙と霧を吸い込んだその桜の花は、青白い瞼に触れてベッドに落ちる。それはまるで彼女の流した最後の涙のようだった。