誰も寝てはならぬ
その日、私は最近では珍しいほどに深い眠りに陥った。
頭の中にまで霧が入り込んだように、深く深く……。どこかで馬車の音が聞こえた気がするし、誰かの小さな悲鳴が聞こえた気もする。
普段なら私の神経を逆なでする、そんな煩雑な音に気付きもせず深く眠った。
そんな深い眠りを揺り起こしたのは、メイド長の掌である。
「旦那様……旦那様……ご主人様……大変なことが」
「ん……」
揺すられ、私は目を覚ます。頭の中に風が吹き抜けたように爽快だ。こんなに深く眠ったのは久々のことである。
あまりの爽快さに、私は却って呆然としてしまう。この半年、いや20年。心地良く眠った夜など数えるほどしかない。
身を起こせば、部屋は湿気に包まれて薄暗い。霧雨の音がする。雨の朝、特有の薄暗さだ。
「旦那様……申し訳ございません、旦那様……」
「まだ……明け方前だぞ……」
メイド長の手で遠慮もなく揺り動かされて、私はここが現実なのか夢なのか考え込む羽目となる。
柔らかな布団、暖かな部屋、香りのいいハーブ。ああここは間違いなく、ウェーズルではない。住み辛い……伯爵家だ。
「何だ……」
「それが……」
目を擦って起き上がる私の横で、メイド長が顔色を無くしていた。
普段なら私が起き上がった瞬間、メイド長は迷わず私の肩にガウンをかける。しかし、そんな習慣も忘れて彼女は呆然と立ちつくしている。
見れば、わなわなと、その指先が震えていた。
「あの……メイドが……」
「メイド?」
「……毒で……」
その声に、私の頭は完全に覚醒した。毒、死。それはまるで半年前のコピーである。
「メイドが毒に……かかったのか!?」
「あの、そばかすの娘です」
私は思わずベッドから飛び出して、彼女を押しのけ、走る。
「……っ」
が、進めたのはたったの数歩だ。いきなり走ると腰や足に響く。痛みをこらえうずくまりそうになるところを、メイド長の手が力強く支えた。
そして彼女は先刻かけ忘れていたガウンを、私の体にそっとかける。その一連の動作をするうちに彼女は自分を取り戻したのだろう。顔色こそ悪いままだが、震えは止まり腕に力が入った。
「驚かせてしまい申し訳ございません」
「すまないね。どうも腰も足も弱いもので」
「さ。こちらです」
廊下に出ると眩しいばかりの光が私を刺した。豪奢に彩られた廊下で、メイドや庭師たちが右往左往と行き来している。
「ロバートは?」
「警察へ」
「あの……ジャポネの娘は?」
「よく寝ていらっしゃいます。それに、あの娘の側にいたメイドは毒にかかっていません。やはりあの娘には不思議な力があるのでは」
「まさか」
メイド長の震える声を私は弾き飛ばす。私はおおよそ、オカルトやまやかしを信用していない。医学とも化学とも異なるそれらは、ただの幻覚だ。
人が死ぬのには、体の機能が停止するには、ちゃんと理由がある。
何かが害されて、死ぬのだ。死ぬ場所は器官である。臓器である。血液である。それらが死んで、やがて体ごと死ぬのだ。
それを不思議な力とやらで守れることなど、万に一つもあるはずがない。
「旦那様……この部屋です……」
普段は気丈なメイド長の声が震えている。彼女は屋敷の一角で足を止めた。
そこは、この屋敷に大量に雇われている使用人たちが住むエリアだ。その中の最も奥の部屋の前へ、メイド長が自ら私を案内する。
「……可哀想に」
案内された部屋の中をみて、私は眉間を押さえる。
入った瞬間、血の香りがした。甘い血の香りだ。明け方の青い空気の中、メイドの娘は床に倒れ伏している。
それは彼女に与えた小さな部屋だった。ベッドとテーブルだけがある簡素な部屋。ベッドから崩れ落ちるように、彼女は床に倒れ伏している。
荷物は少ない。部屋の隅にある四角い革の旅行ケース、それだけが彼女の持ち物だろう。
サイドテーブルの上には白い便箋、それに綺麗なペン。インクの蓋は開けられたままだ。文字はまだ何も書かれていない。何を書こうか迷っているうちに、毒が回ったのだろうか。ペン先が紙に擦れた跡だけが見える。
「紅茶に……毒が入っていたのかな」
ベッドの脇に白磁のカップが転がり、床には琥珀色の紅茶が零れていた。それはすでに、乾き始めている。
その琥珀色の液体の上に、彼女の吐血とおぼしき赤い血が広がっていた。
きっと一口、飲んだ途端にペンを手放し、血を吐いたのだろう。つまり、その毒はそうとうに強い。
「死んだ風に見えないな……」
顔は驚くほど綺麗なままだった。幼さを残すそばかすの顔。その口元から血が溢れ、床を塗らしている。
「旦那様。触れられてはいけません。もしかすると、まだ息があるかもしれませんし……今……お医者様が」
「……ロバートは迷わず警察にいったのだろう? 彼は君に、なにか言い残していったんじゃないか。けして僕がこの娘に触れることがないように……まだこの娘に毒が残っているかもしれないから」
私は冷たく、メイド長を見る。彼女は怯えるように目をそらした。
「……つまり、そういうことだよ」
「いえ、本当にお医者様が……」
近づこうとする私のガウンを、また彼女が引いた。
私はその場で足を止め、部屋に沈むメイドを見つめる。豪奢な伯爵家の隅、薄暗い部屋の中で一人死んだメイドの娘が哀れだった。
「閣下。失礼を」
「ああ、あなたは確か……」
どれだけの時間、私は彼女を見つめ続けていたのだろう。
気がつけば、私の横を冷たい風が通り抜けた。は。と顔をあげれば、消毒薬の香りが鼻を突く。
目の前に立っていたのは、黒いコートと黒い帽子を目深に被った一人の男である。
外は雨が酷いのだろう。彼の厚いコートには雨の染みが残っている。
「エドとお呼びください」
「エドワード。ああ、君のことは知っているぞ。一度お会いしたかった」
「恐れ入ります」
男は……エドワードは帽子を脱いで深くお辞儀をする。噂に聞いていたとおり、実直そうな風貌である。
生真面目そうなその顔をみて、私の心に一陣の爽やかな風が吹き抜けたようだ。
「君、たしか戦争に従軍していたと聞いたが」
「丁度、家に戻る用事がありまして、昨夜遅くにロンドンに着いたところです」
「家とは……ロンドンに?」
「いえ。ウェールズ近くの、田舎町です。そこへ戻る途中に、連絡を受けまして……」
彼はちらり、とメイド長をみる。
彼女とは古くからの知り合いなのだろう。何と言っても、メイド長はこの屋敷の古株だ。毒で倒れた娘を見て、ロンドンに入ったばかりのエドを呼び出したのだ。
「事件のことを伺って急行した次第です」
エドは余計なことは言わない。ただ深々と頭を下げた。
コートで体を隠していてもよくわかる。彼の体からは、消毒薬と血の匂いがする。彼はロンドンでも高名な従軍医師の一人。女王の覚えもめでたく、多くの戦場で若い兵士の命を救ったものである。
彼は私の兄の死亡告知をした医師の一人でもある。伯爵家にも深く繋がる男だ。
同じ医術を学んだものとして一度はきちんと、会いたかった。
まさかそんなエドと、こんなタイミングで出会えるとは! 思わず目を輝かせたが、エドは私の横を素通りし部屋を覗く。
そして、メイドの娘をちらりと見ただけで目を伏せた。
その目つきだけで、私は一気に絶望に落ちた。遠目に見ても分かるほど、メイドの死相は酷いのだ。
戦地で多くの死を見てきた医者は、一目見ただけで残酷なほど人の死を見分けてしまう。
しかし絶望を押し隠し、私はエドと共に部屋に入る。
エドは私を離れた場所で待機させ、自分だけがメイドの娘に近づいた。
「高名なあなたに来て頂けるのは心強い。あなたのお父上は僕の父とも懇意だったのだ。ああ、確かジョージ将軍だったか」
「ええ。義父にあたりますが身内の贔屓目にみても立派な将でした。彼もまた医者で、多くの命を救い……私も、それにならって多くの命を救いたいと……」
エドは荷から手袋を取り出して、娘の側に近づきそっとその細い首筋に指を当てる。……が、やがて彼は手袋を取り外し、その指は祈りの形となった。
「……とはいえ、助けられる命であれば……」
エドは娘の掌を眺め、血を噴き出した口の辺りに顔を近づけ、やがて開いたままとなっていた目をそっと閉じさせた。そしてその体をベッドにあげて、体にシーツをそっとかけてやる。
その手の動きはあまりに繊細で、私の胸が苦しくなる。
「毒です。ひどく……強い」
エドは周囲をちらりと見渡し、私の耳にそっと言葉を囁く。
「……最近、ロンドンを騒がしている殺人者のものと、恐らく同一かと」
その言葉に私はぞくりと背が震える。冷たいものが流し込まれたように、胸が苦しくなる。
「それは確かかね、先生」
「ほぼ、間違い無いでしょう。私はロンドンに戻って来て、2人の死体をみました。ほかの被害者については実物は目にしていませんが、診断書をみました。香りも、死に様も同じです。どうぞ……おきをつけて」
賢明なエドは周囲に聞こえ漏らすことなく私にそれだけを伝え、やがてその目は死んだメイドを見つめ憐れみに彩られた。
「顔に苦悶はない。苦しむことなく、逝ったのでしょう。それが唯一の、幸福です」
「戦争で多くの死を見ても、やはり辛いものかな」
「私にも娘がおりますので」
多くの戦争を戦い抜いてきた従軍医師は、声に哀しみを纏わせて呟く。
「娘さんを愛していらっしゃるんだな、エドワード」
「この世の何にもまさる至宝です」
子を愛する父の姿というものを目の当たりにすると、私はいつも胸が苦しくなる。
父は母は子を愛するものだ。愛されなかった子は、こうして病むしか無い……私は痛む胸を押さえた。
「……失礼」
エドはふと、膝を折って私の顔を覗き込む。私の額に手を当て、熱を取る。その目つきの鋭さはさすが軍人の顔だ。父も似た雰囲気を持っていた。
「熱は無いようですが、お顔の色が悪い。どうか、空気の良い場所へ」
「すまない。最近、妙に気が塞ぐことが多くてね。僕の家系は……ご存じの通り呪われているだろう。兄に、叔父に、甥っ子に……二十年前の父の死を皮切りに、この家は人が少々、死にすぎる」
私は汗を拭い、廊下に出た。清涼な空気を吸い込み、私はむせる。
「二代前の伯爵様……養父と共に戦いに出たことがあると、聞いた事があります」
エドは言外に哀悼の空気を含ませ呟く。
「馬車で……残念なことでした」
「……そうだね。ねえエド。僕は父もまた、殺されたのだとそう思っているのだよ」
私が小声で囁けば、エドは目を細めた。賢い彼は私の言葉に反論もしなければ大仰に驚きもしない。ただ、
「あるいはそうであるのかもしれません。しかし確定の出来ない事は口にされないことです。口にすれば、心に負担がかかります」
と、囁いた。
「……そうだね」
父の死はあまり覚えていない。ちょうどそのころ、私は半死半生の大怪我をして心も体も病んでいたせいだ。
父の死は事故ともいえる。
馬が暴走し、御者を振り落とし、そして父を乗せたまま崖から飛び降りたのだ。
しかしその馬は心の優しい老いた雄馬である。一度も暴走などしたこともない。その馬の面倒を見ていた馬丁は「あり得ない話だ」と何度も言った。
事故として処理されて数年後、当時その現場を見たという警察の男が「馬の足に怪しい傷跡があった」と教えてくれた。
しかし、そんなことを教えられても今更の話である。だから私はそれを胸に秘めたまま、過ごしている。
……そもそも父のことを、私は愛していないのである。
名誉ある伯爵様でいらっしゃった我が父上様は、おおよそ息子に愛情めいたものを見せることがなかったのである。中でも次男である私に対しては。
私は父に、名を呼ばれたことさえなかった。
伯爵家を継げない次男たる私は、少なくとも健全であるべきだったのだ。それが家督のない次男が生き残るための、唯一のすべだった。
将にでもなって家の名を背負い戦う。それが私が、次男が父に愛される唯一の道であった。
しかし幼い頃から病がちだった私はその道を歩めず父の失望を買った。父に見放され兄に呆れられた私をかばってくれたのはウェールズのメイドだけであり、相手をしてくれたのはロバートだけであった。
「閣下」
「……」
「体に……どうか力を込めないように」
気がつけば私はエドのコートをしっかりと握り締めていた。そうでもしなければ、倒れてしまいそうだ。
私は慌ててその手を離す。エドは案ずるように私の顔を見つめた。
「有難う。エド。そして、すまない……」
「雨ですのでお気づきになりませんでしょうが、今日はちょうど満月です。精神が過敏になりやすいとも言われています」
エドは窓に垂れる雨の滴を見て、目を細める。
「さらに、満月の雨の日は殺人が多いと聞きます。まさかこんなお屋敷の中でまで……何もできずに申し訳ありません」
「いや……」
私は頭を振って、小さくため息をついた。
せっかくの爽快な目覚めはもう、すっかり吹き飛んでしまった。頭の奥が痛み、眉間を押さえる。
「頭痛が?」
「雨の日は特に。持病なんだ、気にしないで」
私は弱々しくわらった。雨だけではない。先ほどエドは今日が満月だ、といった。それだけで私の具合は悪くなる。
兄も父も、満月の夜に死んだ。
「よい薬があります。いくつか置いていきましょう」
「ありがとう、先生……ところで、お急ぎの旅だったのでは?」
「ええ。家に……戻る途中でした。急ぎの用がありまして」
「出かけにこのような物を見せて、悪い事をしたね」
「いえ」
荷をまとめ、屋敷から庭へ出たエドは一瞬だけ足を止める。
天から降る霧雨は、靄とまじって青色に輝いている。エドは靄に包まれたまま振り返った。
「……閣下」
彼は黒い帽子の下、陰鬱な目を私に向けた。
「死んだのは、閣下のお身内ではない。メイドです。しかし、できればその……慈しみを。若い娘の死は、あまりにも残酷です」
「分かった」
神のご加護を。エドは呟き、霧の中に消えて行く。私の胸は、何かに突かれたようにただ、むなしく痛い。
「そうだ。警察は? 来てもいないようだが……」
「懇意にしているものに金を握らせておきました。この騒ぎが外に漏れることはありません」
闇から、黒い男がふっと声をあげた。突然沸いた声に、私は思わず悲鳴を噛み殺すところだった。
「ロバート! いきなり出てくるな」
「これ以上の醜聞は避けるべきです」
「これを醜聞と言い切るのか」
出て来たのはロバートである。早朝だというのに彼は髪の一つも乱さず、スーツを着こなしそこにいる。
そして庭師のジョンに何か囁いた。墓地の用意をさせるのだ、と聞こえた。人知れず、葬るつもりなのだろう。
「本当ならば、そこに転がっているのは僕だったろうに、かわいそうに」
「馬鹿なことを」
「珍しく深く眠ったと思えばこれだ、眠ってはならない。まるで警告だ」
私は痛む眉間を強く押さえる。
そうだ。兄が死んでから半年。私はまともに眠れていない。
夜になっても屋敷に漂う陰鬱な空気は払拭されなかった。
屋敷詰めのメイドたちには箝口令が敷かれ、皆が一様に口を閉ざしている。不気味なほどに。警察も来なければ、医者ももう誰も来ない。
ただ皆、不自然な空気の中で黙々と日常を取り戻そうとしていた。
「ああ、騒がしくして申し訳ないね。心配をすることはないんだよ」
部屋の中に閉じ込めたままのジャポネの娘が案じられ、私は夕刻から彼女の部屋の隅に、ずっと座っている。
彼女は最初こそ怯えていたが慣れたのだろう。やがて震えることはしなくなった。
ただベッドの横に腰を下ろしたまま、私を見つめてぴくりとも動かないが。
「屋敷が騒がしくて緊張しているね。ドアの向こうにはメイドとロバートが見張っているが、部屋にはけして一歩も入れないから安心しておくれ。彼らは僕が暗殺者の手にかからないか心配で仕方ないらしい」
娘のキモノは暴れたせいでさんざんだ。元は美しいものだろうが、血の染みと汚れでどろどろになっている。
それをきゅっと掴んだまま身じろぎもしないその姿が哀れである。
「ずっときたきりじゃ、よくないだろ。なあ、誰かドレスを持っていないか。この子にあうような……」
「旦那様。無理にキモノを脱がせるなんていけませんよ」
扉の向こうで私を見張るメイドに声を掛けると、彼女は疲れのにじんだ声で返す。
「……あの……亡くなった……子がキモノを洗おうとしてベルトをはずそうとしたときひどく暴れたんです」
かすかに涙声である。私は思わず口をつぐんだ。
昨日の朝、あの騒ぎがまるで遙か昔のように感じられる。暴れた娘に憤慨するメイドはもう、生きてこの世界にはいないのだ。
なんと、儚いことか。
「そうか、じゃあ代わりとなるものをもってこさせよう。ロバート」
「はい」
忠実なるロバートは、私が声をかけない限り無言である。しかし、声をかければすぐに反応をする。
「僕の部屋の……東洋のコレクションに、キモノが数枚あるはずだから持って来てくれ」
「いえ……私は」
「お前がこの子を持ってきたくせにひどく怖がるね。仕方ない、僕が行くが……痛っ」
「旦那様?」
思わず叫ぶと、ドアが即開く。飛び込んできた二人をみて、娘が目を見開いた。ロバートの冷たい目が、娘の顔を貫く。彼女は怯えたように部屋の隅に逃げ込み、じっと俯く。
そのあまりのいじらしさに、私は二人を叱咤した。
「なんだい。ロバートまで……ただの古傷だ。まだウェールズにいたころ、屋根から転がり落ちたことがあってね」
急に立ち上がると……特にこのように天気の悪い日に無理をすれば昔打ち付けた腰が、ひどく悲鳴をあげるのだ。
それを伝えるとメイド長が微笑んだ。
「まあ。やんちゃだったのですね」
「まさか! 普段は屋根どころか机にもあがらないさ。でもなぜだったかな……その日はなにか理由があって屋根に登って……」
そして、突き落とされたのだ。
……言い掛けた言葉を私は飲み込む。
腰が痛む振りをして、私は顔を背けた。
「まあいい。キモノを取ってくるよ。お前達も不安なら一緒についてくると良い」
腕を貸してくれるロバートは、相変わらず鉄のように頑丈で、そしてどこか冷たかった。
「そのキモノが特別好きなわけではないのだろう? 血が付いてとても汚れているから、せめてこちらに着替えてはくれないだろうか」
私は自室のコレクションルームから、数枚のキモノを抱え、部屋へと戻った。
それは昔、東洋趣味をこじらせた時に買い込んだものだ。
女物のドレスを買うようなものだ、とウェールズのメイドは眉を寄せたが私は構わなかった。
男用であろうが女用であろうが関係などない。その繊細な絵柄は美しく、私の目を喜ばせたのだ。
それを広げて床に置けば、彼女はようやくその意味を悟ったのだろう。恐る恐る顔を出して、近づき、一枚を手に取る。
そして不安そうに身を縮ませるので、私はテーブルの上のランプを吹き消した。
「大丈夫、見ないよ。暗い部屋が好きなのは僕も一緒だ」
「……」
「そして、誓おう。君には触れない。キモノはここにおいておくから」
私は、一歩、一歩と娘から離れる。
椅子を後ろ向きに置き直し、私はそこに腰を下ろした。
ちょうど、娘に背を向ける恰好だ。
「でも側にいさせてくれ。どうしても気分が落ち込むんだ」
しばらくは無音だった。しかし、やがて少女が動く気配がある。
しゅ、しゅ。と、闇の中から布が触れ合う音がする。
それはシルクが持つ独特な音である。しゅ、しゅ、と鳴くようなその音は、衣を編んだ蚕がたてる音なのだ。と昔聞いた事がある。
闇の中で響くその音は切なく、そして美しい。
「……美しいね」
音が止んだ。振り返ると、娘は存外近くに立っていた。
彼女が選んだのは、淡い桃色のキモノだった。小さな花が彩られた、愛らしいキモノ。
それは彼女によく似合う。
「手の怪我を」
一歩、近づいても彼女は逃げない。顔色は青いが、もう、逃げることはない。
「せめて君の怪我を治させてはくれないだろうか」
手をそっと、掴む。……なんと、細い腕だろうか。
彼女の肩は揺れたが、彼女は逃げない。ただ、顔を背けてそっと涙を零した。
「……すまない」
慌ててその手を離すと、彼女は眉を寄せて激しく首を振る。涙が零れないように手で押さえるので、黒い髪ばかりが闇に舞う。
そんな彼女の動きが止まり……突如床に飛びついた。
あまりに俊敏な動きに驚き、私は腰をそらす。腰が悲鳴をあげたが、私は口を閉ざした。今、表の二人に気付かれてはならない。なぜかそんな気がしたのだ。
「どうしたんだい……」
「……っ」
彼女は、床に落ちていた本に飛びついたのである。
それはキモノを包んでいた紙の中に混じっていた一冊だ。
たしか、ジャポネの本だと聞いた。薄い紙が幾重にも重なって、赤い糸で閉じられている。
中は百科事典のようだ。奇妙な絵が描かれていて、文字が刻まれている。小説のように物語が描かれているのか、それとも画集なのか……。語学に明るくない私には理解できないが。
「……」
彼女は口をぱくぱくと動かし、その本をめくる、めくる、めくる。
そしてやがて、一文字、何かを指さした。
細い眉を不安げに寄せて私を見上げ、指先で自分の喉を撫でる、首を振る。そしてもう一度、本の文字に指を這わせた。
(私に言葉を伝えようと?)
私はその行動をすぐさま理解する。声に出さず頷き、ドアを見た。
向こうにはメイド長とロバートがいる。
「よしよし、手の怪我を見せてくれるんだね。そのままじっとしているんだよ。まずはランプで軟膏を溶かさなくっちゃいけないからね」
私はわざと関係の無い言葉をはいて、ゆっくりと部屋を見渡す。部屋の隅、暖炉の上のマントルピースの上にはいくつかの本が並んでいる。その中に一冊、ジャポネの言語辞典があることを私は覚えていた。
表紙を覆う革が美しいので、飾りとして買っておいたものである。
「さあ。続けよう」
辞書を手に彼女の元に戻る。光を灯し、それを見せると彼女も理解したのだろう。黒い瞳の彼女は強く頷く。
……想像よりも、賢い娘だ。
「さ、少しずつだよ。ゆっくりとやろう」
有難う。
彼女が最初に指し示した一文字ずつ、読み解くとそれは感謝の言葉となって浮かび上がる。
細い、まるで鑞のような指が、本をめくり言葉を探し、一つずつ、指し示す。
私は辞書をめくり、その意味を一つずつ理解した。
時間がかかるので、合間合間に私は外へ聞かせる要の作り話をする必要があった。
「いけないな。軟膏がなかなか溶けないぞ……よし、傷は塞がるかな? ああ。血が出ているね。よく拭わなくては」
『私は毒を体にもっている』
彼女が指し示した長い言葉は、そう綴られていた。
「ぬぐわなくて……は」
私はその言葉を理解し、動きを止める。
その目を見て、彼女は涙を浮かべた。しかしその涙を地面に零すことをためらうよう、キモノにそっと染みこませる。
『血でも涙でも体液に触れると』
『あなたは毒でしんでしまう』
『触ってはだめ。少しでも触れたら駄目』
本をめくり言葉を探すスピードがあがっていく。私も同時に、彼女の言葉を読み解けるようになっていた。
白い指が、言葉をひとつひとつ指し示し、わなないた。
『私を最初に見てくれた女の子は毒で死んだの?』
そして彼女は本ではなく、自分自身の顔を指した。
『きっと、私のせい』
言葉などなくとも、その意味は理解できた。私は思いきり首を振る。しかしそれは彼女に安らぎを与えることはない。
言いたい事を伝え終わった彼女はぐったりと、本の上に崩れ落ちる。
私はポケットに入れたままになっていた白い手袋を手に付ける。そして、彼女にそっと手を差し出した。
「これでいいだろうか」
「……」
「大丈夫。そっとつかんで。そうだ、いいぞ」
戸惑う彼女に手を差し出し続けると、やがて娘は私の手に触れる。細い指が私の手を掴む。それをそっと包んで、私は微笑んだ。
「ここじゃ何も話せない。一緒に、外へいこう。ゆっくりと、君と話をしたい」
失われそうになる小さな小鳥を扱うように、私はそっと彼女の背を押した。
「旦那様!?」
「馬車の用意だ。娘を脅かさないようにね」
二人でドアを開けた瞬間、メイド長だけでなくロバートまで目を丸くした。
「どちらへ行かれるのです。私もご一緒に……」
「いや、大勢だとこの子が驚くから僕一人で平気だ。それに何かあっても、僕の作った爆弾を持って行くから大丈夫」
私は胸ポケットから小さな丸い玉を取りだしてみせる。投げれば激しい音を立てて爆発する、花火爆弾のプロトタイプ。実験はまだだが、きっと効力は高い、と私は見ている。
「二人とも心配性に過ぎるのだ。僕だって、一人で市中に出られるさ」
付いてこようとする二人を手で追い払い、私は少女をエスコートする。
光の元で見る彼女も愛らしい。娘は青白い顔を袖で顔をかくし俯いた。口をきゅっと閉じ、顔をひたすらに押さえているのは涙を一粒も零すまいという彼女なりの気遣いなのだろう。
なんといじらしい献身だろうか。
しかしそんな少女のことなど見もせずに、ロバートが私の前に立ちふさがる。
「せめて行き先を……どちらへ……?」
「塔の下の公園へ」
私が思いだしたのは、昨日の朝に読んだ新聞の記事のこと。
「女王陛下に贈られたジャポネのさくらがちょうど満開だそうだ」
「さくら……?」
「花だよ」
随分昔、ジャポネよりロンドンに持ち帰られた一本の苗木。それが今や公園を覆うほどに数を増やし、成長したという。いずれもかわいい花を付ける。美しく、幻想的な、その花。
ぜひこの娘に見せたいと、そう思った。そして同時に……。
「あのメイドの娘の亡骸はまだ屋敷にあるね?……結構。あの子の体に、花をかけてあげよう。せめてもの、弔いに」
言いながら私は、死んだメイドの名前さえ知らないことに気が付いた。
メイド長に名を聞こうとして……留まる。今更聞いて、なんとなるのだ。
満月の夜、メイドが死んだ。きっと、後に思い出すのはそれだけだ。名など、聞いてもきっと忘れてしまう。
この家には何十人ものメイドや男たちがいる。彼ら、彼女らは私の顔を知っている。しかし私が知っているのはたった数人。
伯爵となって半年、孤独感は日々強くなっていく。
「……今宵は誰も寝てはいけない」
私は少女の体をそっと馬車にあげながら、メイド長に言う。
そしてロバートをみる。
「僕は彼女の死を醜聞だなんて思わないぞ、ロバート」
霧雨の向こうにみえるロバートの目は、やはり静かだった。