雨の日の訪問者
ロンドンの街は、今日も雨が降っている。
体を骨まで震えさせる雨だ。雨のせいで霧はますます濃くなり、犬の遠吠えだけが時折空気を振るわせていた。
「……そうだな。なにも恐ろしくはない、と、伝えてくれ」
私は柔らかな椅子に腰を下ろしたまま、目の前に畏まる男にそう命じた。
「それだけで宜しゅうございますか、閣下」
それは光をすべて落とした薄暗い部屋である。
部屋の中にはベッド、棚、テーブルがひとつずつ。そのテーブルの真下で、小さな影が揺れている。
私は顎を手の甲に乗せたまま、その影をじっと見つめる。
「なにも怖がることはない。大丈夫だ……と、ゆっくりとだよ。脅かさないように」
「かしこまりました」
私の前に立つ背の低い男は、街の学者先生である。
金と名誉さえあれば霧雨煙る雨の中、著名な先生を屋敷に呼び出すことだってできるのだ……と、私は知った。
むなしくも、ありがたい話である。
彼はおそらくこの街で一番、ジャポネの言葉をよく使う。
東洋趣味に傾倒した私でも、言語までは到達できなかったのである。かの国の言葉は、まるで言語のツタが絡まるように複雑だ。
あらゆる言語を自由に操れるその男は紳士らしく、革のコートの前でそっと腕を折り曲げ頭を下げた。
私に一度、そして少女に一度。
「雨の日の訪問者にふさわしい、美しい娘でございますね。閣下」
「ああ。だからこそ、怯えさせたくないんだ」
少女はキモノを引きずったまま、テーブルの下にすっぽりと収まっている。
気を失った彼女が目を覚ましたのは、数時間後のことだった。
眠る彼女に私は心地の良い部屋を与えた。
できるだけ薄暗く、目覚めても眩しすぎない部屋。音の響かない、柔らかな壁を持つ部屋。そして暖かく、居心地のいい部屋。
完璧な部屋のはずだが、彼女は目覚めるなり大層、暴れた。
最初に聞こえたのは側に付けておいたメイドの悲鳴と物の壊れる音だ。
急いで駆けつければ、ランプは床で割れ花瓶は砕け、そして少女は小動物のように縮こまりテーブルの向こう側で震えていた。
突然飛び起きるなり、暴れて部屋の隅に逃げ出したのだ……と、側についていたそばかすのメイドは憤慨しながらそう言った。
彼女の手にはうっすらと血が滲んでいる。娘が割ったガラスで傷ついたのだ。見れば、娘自身も腕や足から血を流していた。
「ああ。それと、怪我の手当をさせてほしいことも。こちらには害意などないことも一緒に伝えてくれ」
私は娘が怪我をしていることを思いだし、通訳にそう言い足す。
「仰せの通りに」
娘は傷ついた手も足もそのままに、厳しい顔つきで部屋の隅にたてこもっている。
白い肌が赤く染まり、キモノの色とよく映えた。明かりの元でみれば、愛らしい娘である。だからこそ、震えておびえ、子ウサギのように警戒する様を見るのはつらい。
「……」
通訳をかってくれた男の声は優しく暖かく柔らかみを持っている。ジャポネの言葉はどこまでも優しく聞こえた。
しかし、娘はその表情を和らげることさえしない。眉ひとつ、緩めない。その耳に男の言葉が聞こえているのかどうかさえ分からない。
「……」
男は幾度か彼女に向かって呼びかけ続けるが、やがてあきらめたようにため息をついた。
「いけません、閣下」
「通じないかい?」
「まるで獣です。言葉も、理解しているのかどうか」
「かの国は野蛮な国ではないはずだ。それ相応の教育はあると聞いている。この娘はまるで、手負いの獣じゃないか……」
彼女は怒っている。同時に悲しんでいる。手から足から血を流し、故郷のキモノだけ必死に抱きしめて、黒い髪も黒い目も、まるで宝石のように美しい。その宝石を涙にぬらして、彼女はおびえている。
私はその姿を見て、彼女が幾つくらいなのだろう。と考えた。
「ジャポネからオランダまでの貿易船で運ばれたとして……どれくらいかかるかな。そこから、ロンドンまで運ばれるとして……」
「数ヶ月か……一年ほどでしょうか」
「彼女はほんの幼い頃に、商品として運ばれたのかもしれない。誰も言葉を教えず……つまり、故郷の言葉どころか、我が国の言葉でも……」
私は椅子に深く腰を押し込んで、長いため息をつく。そして机に散乱している常備薬を掴み、喉の奥に水で流し込んだ。
「……通じない、か」
長い戦いになりそうである。
部屋は薄暗い。彼女を刺激しないように、光を落として音もできるだけ遮断させている。
音もないその部屋に、彼女はじっとうずくまったまま。
学者先生を帰らせて、私はまた彼女と対峙している。
人間嫌いで面倒ごとを嫌う私にしては、珍しいほどの執着だ。それは、いつか東洋趣味に傾倒していたころを思い出させる。
(あのときも……そうだ、私はあのときも……)
あのときも、今のように暗い部屋でじっと壷や絵に対峙した。
初めて見る東洋の壷も、絵も、不思議だった。理解ができなかった。それなのに、美しさに妙に惹かれて目が離せない。
その淡い色合いや、薄い闇のような線、見たこともない風景、何もかも理解できない。それなのに美しい。
(……分からないからこそ、だ)
椅子に深く腰を下ろしたまま、私は彼女をじっと見つめる。
(分からないからこそ、僕は、東洋を見つめ続けた)
こんな霧とガス灯のロンドンとは似ても似つかない、遙か東の小さな島国。
温暖で、空気が美しく、そして花が咲くのだと聞いたことがある。
ただの花ならばこの街にも咲く。しかしかの国に咲く花は、おそらくこの娘のような姿なのだろう。
かつて東洋に傾倒した時、私はその文化も、香りも、歴史も何も知らなかった。理解しようと躍起になって本を読んだが、熱を出すだけだった。
そこで思ったのだ。
理解できないのならば、理解ができるまで側に寄り添って見つめていようと。
皮肉なことに、私にはそれが許されるだけの時間がある。
「寒いだろう。暖かい石を……そう、石だ。それをこの中にいれて、布でくるんでいる。怖くないし、痛くもないよ。さあ、さわってごらん」
部屋にはおおよそ暖になるものがない。私はメイドに作らせた懐炉を取り出してみせる。
暖めた石を容器にいれて、布でくるんだ簡単なものだ。それを彼女の目の前におき、すぐに身を引いた。
最初は警戒をしていた娘だが興味を引かれたのか、そっと手を差し出す。暖かいと理解した瞬間、彼女の顔に赤みが差す。
「恐ろしくなどないよ。さあ、次は食事をおいておく。おっと。少し近づくよ、おびえないで」
懐炉をおそるおそる抱きしめた彼女の白い指に、ようやく人らしい色がともった。
続いて私が彼女の前においたのは、黒焼きのパンである。それにチーズにココア。少女は、は。と目を輝かせ、それをつかむ。
そして私は確信した。
彼女は、これが食べ物だと、知っている。
「そうだ。そう、つかんで、食べるんだ」
食べる真似をしてみせるが、彼女はこちらをみることもなく小さな歯で、そのパンを噛みちぎった。
さらに隣に置いた暖かいココアを貪るように飲む。
「……食べられるものだと知っていたんだね。君は、やはり早くから船に乗せられて運ばれてきたんだろう。船の中で、食べ物や色々なことを学んだんだね。きっと私の言葉も理解しているんだろう。理解して……そして答えない。そうだろう?」
私は少女の食べ方を愉悦の気分で見守る。
小さな白い歯が、薄闇の中で光るのがとても美しい。薄い唇がパンをかじり、喉が動くのが痛々しくもいじらしい。
「おいしいかい?」
声をかけても彼女は声もあげない。警戒する小動物のまま、彼女はテーブルの下でパンを食べ続けるのだ。
「じゃあ僕もここで食事をする」
私はそんな彼女を眺めながら、サイドテーブルに置かれていた銀色の固まりを手にする。
「食事をともにするのは、何よりも親愛の証だからね」
銀色の丸い缶の中に詰まっているのは、魚のオイル漬けだ。その横の缶には、四角く切ったパン、そしてその横の缶にはなみなみと赤いワインの色。
およそ伯爵の身分にはふさわしくないその食事を、至極幸福に私はゆっくりとかみしめた。
「あの子の食べ方は美しい」
たっぷりの時間をかけて食事を楽しんだ私は、笑顔で部屋を出る。
そんな私をみて、ロバートやメイドたちが驚愕の表情で出迎えた。
「まあ旦那様。まさかあの部屋にずっといらっしゃったのですか? 皆でずいぶんさがしたのですよ」
すぐさま私に突っかかってきたのは年かさのメイドである。兄の代から仕え、今ではメイド長。
口うるさいが、屋敷のことは熟知しているし、その口うるささはウエールズのメイドばあやのようで私にはかえって心地がいい。
「あの子は目覚めるなり大暴れをしたのです。まるで獣ではないですか。ロバート様もロバート様ですよ。あんな素性もしれないような娘を」
「毒にきく妙薬だとそう聞いていたもので……」
メイドから叱責をうけてロバートが珍しく拗ねたような声をあげる。そして彼は私の前でうなだれた。
「申し訳ありません、旦那様。あの娘はすぐ商人に下げ渡しますので……」
「その必要はない」
彼の前で手をひらひらと振れば、ロバートの顔にさっと赤みが走る。
「しかし」
「どうせ商人に返せば、また別の好事家に売られてしまうのだろう。ならば買い上げたまま、彼女を逃がしたい」
交流もできない、言葉も交わせない。異国の少女。しかし私は彼女がひどく哀れに思えて仕方ないのである。
これまで誰一人救えなかった私だ。一人くらい、誰かを救いたい……私の中にくすぶっていたエゴが、彼女を見た途端に燃え上がった。あの少女を救えるだろうか?
……救えるだろう。今の私の立場ならば。
「獣のように育てられた娘ではないな。食べ方を見ればわかる。今はおびえているが、どこかで食事のマナーのような物を学んだのではないかな」
「旦那様もあの娘のように、シェフが作ったものを食べてくださればいいのに」
メイドは私の手に山と積まれた銀の缶を取り上げながら、苦笑する。
私の食事は一日に二回。朝と夜。オイル漬け魚の缶詰、もしくはウインナーのオイル漬け。
それにパンを小さく切って銀の缶に開けたもの。ワインもおなじく、一日二回。こちらも缶にそそぐ。
空になった安っぽい缶を手放しつつ私は肩をすくめてみせた。
「別に誰を疑っているとか、毒を恐れているとかそういうわけじゃないんだ。僕の偏食は幼少期からでね」
「存じております」
「どうも、きちんと箱に詰まったものじゃないと喉を通らないんだ。幼い頃は缶詰なんてなかったからウエールズのメイドはずいぶん苦労をしたそうだ」
「まあ人事みたいに」
メイドは口を押さえて、あきれ顔だ。私は苦笑して、腕を広げてみせた。
「君は運がいい。そのころの僕はもっと偏屈でわがままで、嫌みな男だった」
「いえ、それくらい用心されるほうがいいのです。毒は食事からでも紛れ込むのですから」
ロバートは生真面目な顔を崩さず私をみる。
「私たちがお守りするのも、限度がございますので」
「用心など、一つもしちゃいないのだ。何度もいうが毒を恐れているわけじゃない。それなら皿もフォークも使えないだろう? そもそも、僕はただの病弱で痩せぎすな一人の男だ。そんな凝ったことなどしなくても、刺せば死ぬんだよ」
「まあ」
「思うに、我が家をねらう暗殺者は、最初こそ恨みから父を殺したのだろうが……」
私はじっと、指をみる。先ほど缶の隅で指先を切ったのである。薄く走ったその薄い傷を押すと血があふれる。
これだけの傷でも痛いのだ。殺されるというのは、ずいぶんと痛く苦しいのだろう。そしてそれだけの苦しみを相手にぶつける暗殺者は、もっと苦しいにちがいない。
「……きっと、叔母たちを殺したくらいから、殺すことに楽しくなってしまったのだろうね。ロンドンの街には、奇妙な殺人がよく似合う。きっとこの霧に、彼の心は染まってしまったのだろう」
「旦那様……失礼」
ロバートが音もなく近づき、私の傷にナプキンを当てる。白い布が、あっという間に赤に染まった。
それをみて、彼は嫌悪するようにそっと顔を背ける。目の縁が、青い。
「お前は血が苦手だったね」
私は彼の手からナプキンを取り上げ、自分の手で傷をおさえる。赤いものをみると、どうしても半年前のことを思い出す。
「兄の死を思い出していたよ。血を吐いて、真っ青な顔をしていた……あの姿をね」
「お忘れください。お体に触ります」
「忘れられるわけがない。未だに、あの毒がどこから来たのか分かっていないのだろう?」
「警察は、無能です」
ロバートはメイドに目配せし、椅子を運ばせる。いつの間にか私の膝が笑っていた。いつも発作だ。疲れると、立っていられなくなる。
「……ああ。目眩が」
ふらついた体をロバートが支え、私は椅子に落とし込まれる。
メイドは素早く私の膝に布をかけ、廊下を照らす蝋燭の明かりを吹き消す。ロバートは私のシャツを緩め、顔に風を送る。
メイドもロバートも、焦る声一つあげやしない。そうだ、彼らは慣れている。
「そうです、旦那様。毒は、どこからきたのか、どんなものさえわからないのです。あらゆることに用心していただかなければ」
「そうだね。兄は、正体不明の毒によって殺された。兄の寝室には、飲んだものも食べた形跡もなかったというのに……ただ、指先に小さな噛み跡があったらしいが……」
私は目を掌で覆ったまま、呟いた。
瞳の奥に目眩が広がる。その目眩の中心に、思い出が見える。
それは半年前、そうだ。兄が死んだ日の朝のこと。
「……秋のはじめの……頃だったな」
兄が死んだ、と早馬がウエールズにきたのは雨の降る寒い日のことだった。夏の終わり秋のはじまりだったはずだが、その日は妙に寒かった。
暖炉に火をくべるかどうか、私とメイドが喧々囂々やりあっている最中、早馬が庭へ飛び込んできたのである。
着替える間も惜しく馬車に飛び乗り、私はその中でロバートの手紙を読んだ。
完璧な彼らしく、兄の死についてしっかりと報告がかかれてあった。絵師に頼んだのか、兄の死体の図までついていたのである。その中で私の目を引いたのは、指先から流れる血だ。
案の定、毒はそこから仕込まれたと警察はそう言った。
「でも動物は発見されなかった。悪魔の仕業だと、みなが言っていたが」
「その悪魔がまた、屋敷に入り込んでいるかもしれないのです」
「奇特な悪魔だね、ロバート。グリーヴス家の当主を続々と殺してなんとする。この家をつぶしたいのかな。なら、はっきりと言ってくれたらいいんだ」
ようやく目眩が落ち着いてきた私は、膝の上で指を組む。若い頃からほとんど外にも出ず、趣味の勉強ばかりしてきたその手は不健康なほどに青白い。
幼い頃から「長くは生きられない子」だと言われていた私である。そんな私が家のなかでもっとも長く生き残り、そして跡を継いでいるのは皮肉としかいいようがない。
「旦那様……」
「暗殺者とやらが素直にお願いさえしてくれれば、僕はいつだってこの座を退くというのに」
メイドの持って来た水を受け取り、常備薬を口に放り込んで水で飲み下す。苦みが口いっぱいに広がった。
「薬を一日20袋。ほとんど生きた屍だろう?」
ロバートを見ても、彼は口も開かない。あれほど私の身を案じるロバートだというのに、こと薬に関しては無頓着だった。毒はここに含まれているかもしれないのに。
死といえば、ロバートよりももう少し私の身を案じてくれた人物がいる。
それはウエールズの屋敷つきのメイド。私が伯爵家をつぐと聞いたとき、剛毅な彼女に珍しく泣き伏したものである。
ああ、ぼっちゃまは、きっと、きっと、殺されておしまいになる!
私もそう思う。私だって死にたいわけじゃない。
しかし、理由のある死であれば、場合によっては受け入れてもかまわないとそう思っている。
「僕はそもそもこの家になんの愛着も持ちあわせていないんだよ。女王陛下がすべて返却せよと、そう言ってくれさえすれば……」
眉間を押さえて、私は目を閉じた。浮かんでくるのは、豪奢な王宮でみた美しい唯一無二の女性である。
私は彼女を見つめることもできず、ただその美しいドレスの裾ばかりを見ていた。顔を上げれば目眩で倒れてしまいそうだった。やがて彼女は私の前に立ち、杖の先で私を優しく撫でた。
伯爵家の権利を手放す許しを得るために王宮に入ったはずの私だというのに、その威厳に気圧されて気付けば宣誓の言葉を唱えていた。
「僕はいつでもこの家をすべて手放すつもりでいるんだよ、ロバート」
「しっかりなさいませ」
ロバートは吐き捨てるように言った。彼はやはりまじめなのである。
「……すまない。具合が悪くなるとすぐにこうだ。気弱になって……」
「申し訳ありません旦那様。私が余計な事を申し上げたばかりに」
「気にするなロバート」
兄の死は思い出に近い。思い出しかけたが、私はそれをロバートのいう通り、忘れることにした。
「心配するな。もう私は健康だよ。心も、体もね……あくまでも私基準で、ではあるが」
「大丈夫ですよ。今の旦那様は冗談も口にされるほどですもの」
メイドが朗らかに笑い、その場の空気が溶けた。かすかに緊張の色を持っていたロバートも、小さく息を吐く。
この堅実で生真面目な執事が気を抜く瞬間は貴重だ。
「ああ。そうでした旦那様。一つご相談が……あの娘に付けているメイドを変えたいのですが……」
ふ。と、メイドが、太い眉を寄せる。
「そばかすの娘だろう? 何か問題でも?」
「ええ。どうも、お客人は……あのメイドのことを、怖がっているようで……近づくとひどくおびえるのです」
「じゃあもっと優しい風貌のメイドを選んでおあげ」
私は特になにも考えずにそんなことを言って、欠伸をかみ殺した。今日は体が疲れきっている。
それはこの退屈な日々に突然飛び込んできた東洋の美に触れたからかもしれないし、色々なことを思い出しすぎたせいかもしれない。
普段は日の出前に起き出して新聞を読み、そのあとの一日は憂うくらい長いというのに、今日はなんだか一瞬だった。
ロバートに抱えられるように自室に戻った私は、そのままベッドに崩れ落ちる。
私がベッドに泥のように沈んだちょうどそのとき、この屋敷の片隅で一人の少女がひっそりと死んだ。